NO.10(2003年10月)


ダーウィニズムの終焉(3)
――自然界の基本としての不連続性――

渡辺 久義   

子供の絵本のうそ

 動物好きの六歳になる私の孫(男)が近所の図書館から「大昔の動物」というような絵本を借りてきた。子供の本とはいえ、外国の学者の監修になるかなり「本格的」な古生物学の本であり、「進化」についてかなり詳しい説明がしてある。これだけ進化論についての批判が高まっていることを反映してか、表現をぼかしたところもあり、「カンブリア爆発」と言われて、ほぼすべての最も基本的な動物の形態(門)がほぼ同時に、いきなり(つまりダーウィニズムの要請する前段階なしに)出揃ったという古生物学上の事実を取り入れて、一本の幹から枝分かれする従来のいわゆる系統樹の代わりに、複数の長さの違う草が生えたような図が描かれている。(地球上の生物世界の始まりをたとえるなら、それは一本の樹でなく芝生であるべきだ、と七月号に紹介したジョナサン・ウェルズも言っている)
 ところが、それは評価できるとしても、あたかもそれを裏切るように、数ページ先には、爬虫類から哺乳類が出てきたということを言うために、トカゲに体毛の生えた不気味な動物の絵が出てくるのである。そういう怪物、つまり中間種(移行種)としてのそんな動物はいなかったというのが現代の諸科学の帰結のはずであり――もしそういうものが発見されていれば大騒ぎになっているだろう――それはダーウィニズムによって要請される動物にすぎない。(この点に関しては私の誤解があるようであり、次号で訂正した。)八月号に言及した捏造「ピルトダウン人」と同じである。
 ダーウィニズムとはまさに、経験的事実からでなく、ダーウィニズムという理論によって要請される事実から構築された学説のことである。私は孫に対しては「こんなものがいたと考える人もあるのだ」と説明はしたものの、この画像はこの幼児の頭に刷り込まれて、いつか彼をダーウィニズム信仰へと傾かせる可能性を否定することはできない。(これも八月号に論じた「科学の基礎知識」問題による、たちの悪い洗脳ないし踏み絵と同じである)

自然は飛躍も断絶もする

 ところで今回は、有力なインテリジェント・デザイン派の生物学者の一人であるマイケル・デントン(Michael Denton)の著書『進化―危機に立つ理論』(Evolution: A Theory in Crisis, 1985, Adler & Adler)のポイントを紹介する形で話を進めてみたい。(これは少し古い本であるが、彼の新著『自然の運命―生物学の法則は宇宙の目的をいかに開示するか』(Natureユs Destiny: How the Laws of Biology Reveal Purpose in the Universe)はまだ入手できていない)
 宇宙のデザインという事実を立証する方法はいろいろあるが――たとえばマイケル・ベーエは生物の「還元不能の複雑性」を取り出すことによって、デムスキーは情報科学の立場から、ヒュー・ロスは宇宙の物理的数値の「微調整」から立証する――マイケル・デントンは、不連続ということがあらゆる点からみて自然界の基本的事実であることを指摘することによって、ダーウィニズムの成り立たないことを論証する。この本の結びの言葉は印象的である。わからないことを正直にわからないと言う。この点はデザイン派の人々に共通している。生命を物質(自然主義的)に還元して、わかったかのような幻想を自他に抱かせる進化論者とは対照的である。

 進化論の権威と、生物をダーウィニズムの思考の枠内に押し込めようとする莫大な知的努力にもかかわらず、自然はそこにおさまることを拒否する、というのが本当のところである。結局のところ、新しい生命体がどうして生ずるのかについて、我々の知っていることは今のところほとんどない。「神秘の中の神秘」であるこの地上の新しい存在の起源は、ダーウィンがビーグル号に乗って航海に出たときとほとんど変わらず謎のままなのである。

 この本の表紙に「科学の新しい発達は正統的なダーウィニズムに挑戦しつつある」とあるように、本書のメッセージは、生物についての先端的研究が進めば進むほど、しゅ種とか器官とか細胞はそれぞれが安定(独立、完成)していて変わらないということ、つまりそこへいたる段階的先行者(先祖)もそこからの段階的後続者(子孫)もない、というのが自然界の原則であり、その認識は強められる一方だということである。
 ところが我々の頭は、そういう自然界の飛躍・断絶ということをどうしても受け入れようとせず、「自然は飛躍せず」(Natura non facit saltum)などというラテン語のことわざまで作り出すほどなのである。それが近代人の唯物論的な傾向と結びついて、これほどの頑強なダーウィニズム支配が生まれたと考えると、理解しやすいであろう。
 ところが現実的には、自然は飛躍も断絶もする、というのが観察された事実なのであり、(品種改良あるいは「小進化」による変種を除けば)この地上の生物界に現れたどの一つの種をとっても、それが他のものの先祖でも子孫でもないというのが現在の科学的知見なのだという。細胞にしても同じで、一つの細胞がより原始的な先祖から進化したとか、よりましなものに移行中であるといった証拠は全くないのだという。

分子生物学は進化論を反証

 少し長いがデントンの言うところを引用してみよう――

 分子生物学は、細胞の進化ということが起こったことを裏付けるかもしれない多くの移行的形態を明らかにする代わりに、ただギャップの大きさを強調するのに役立ってきただけである。我々は今、生物世界と非生物世界との間の断絶の存在を知っているだけでなく、それが自然界のすべての不連続の最も劇的かつ基本的なものであることを知っている。生きた細胞と、最も高度な秩序をもつ、たとえば結晶や雪片のような非生物組織の間には、考えうる限りの広大な絶対的な断絶があるのである。
 分子生物学は、今日この地上の最も単純な生き物であるバクテリアの細胞でさえ、おそろしく複雑なものであることを明らかにした。…
 同時に分子生物学は、バクテリアから哺乳類にいたるまで地上のあらゆる生き物において、細胞の仕組みの基本的なデザインが本質的に同じであることをも明らかにした。すべての生命体においてDNA、mRNA、またタンパク質の役割は同じである。遺伝暗号の意味もまたすべての細胞においてほとんど同じである。タンパク質合成装置の大きさ、構造、部品のデザインも、すべての細胞において事実上同じである。従って、基本的な生化学的デザインという点から見れば、どの生命体も他のいかなる生命体に対して原始的だとか先祖だとか言うことはできないし、また地上の信じられないほど多様なすべての細胞の間に、進化の連続性を示すようなものは、ほんのわずかでも見出すことはできない。分子生物学が化学と生化学の間の溝を埋めるだろうと期待していた人々にとって、この発見は深い落胆をもたらすものであった。

「原始的」な細胞は存在せず

 偶然と必然だけが生命世界を動かすすべてであると主張する『偶然と必然』の著者ジャック・モノーもこのことは認めている――「我々が研究対象にすることのできる最も単純な細胞といえども、「原始的」と言えるようなものは何ももっていない。真に原始的な構造のいかなる痕跡もそこに見出すことはできない。」(デントンの引用による。ついでながらモノーにしてもドーキンズにしても、あるいはダーウィンにしても、自然界が単純であると言っているわけではない)
 ここで、素人の私が紹介するには気が引けるが、デントンが「現代科学の最も驚くべき発見の一つと考えるべきだ」と言っているこの問題の専門的な内容を、簡略化して紹介しようと思う。簡単に言えば、分子生物学という現代科学の武器が、ダーウィニズムに有利な漸次進化の証拠を示すだろうと期待されていたのを裏切って、まったく逆の、自然界の断絶の証拠を示すことになった実証的研究の話である。
図:チトクロームCのアミノ酸配列の百分比差  バクテリアというのは核をもたない単細胞生物(原核生物)である。そのバクテリアの横に、それに最も近いと思われる細胞核をもつ生物(真核生物)のイーストから始めて、順に、小麦、カイコの蛾、マグロ、鳩、馬、と並べるなら、進化の連続性を信ずる立場からすれば、この順序にバクテリアとの距離が次第に大きくなると予想されるであろう。距離を測る一つの方法として、チトクロームCというすべての生物が共有する、しかしそのアミノ酸配列が生物ごとにすべて異なるタンパク質を比較することによって、パーセンテージの数値で示すことができるという。この方法でバクテリアからイースト、小麦、カイコの蛾、マグロ、鳩、馬への距離を測ってみると、それは進化論者の予想を裏切って見事に等距離(ほぼ六五%の違い)であることを示すのだという。

 それはいかなる真核生物のチトクロームも、バクテリアのチトクロームと他の真核生物のチトクロームの間の中間段階ではないということを意味する。バクテリアからみれば、すべての真核生物は全く等距離にある。すべての真核生物のチトクロームは孤立した一個の類のようである。生物界をこれら二つの基本的種類に分ける不連続性の橋渡しをする、いかなる中間的なチトクロームも存在しない。バクテリアの世界は、途方もなく多様な真核生物の中に一つとして隣人を持たない。「失われたリンク(連鎖の輪)」は本当に最初から失われているのである。

連続的進化は観念の産物

 自然界には、時間的にも空間的にも、「徐々に移り変わる」ということがないのが常態であることを認めなければならないようである。犬は品種改良によって、チワワからセントバーナードまで実にさまざまな品種があるが、犬は犬であって猫や熊とは画然と一線を画している。こうした経験的事実にもかかわらず、本当はすべてが「徐々に」であるに違いないという我々の勝手な思い込みは、いま科学からも切り替えを迫られている。
 近代科学が、非科学的・観念的として嘲笑するプラトンのイデア説、「犬のイデア」とか「馬のイデア」といったものを、我々はどうしても実在として受け入れざるをえないようである。それは分子生物学によっても支持されるのだとマイケル・デントンは言う。

 この新しい技術によって生物学はついに、二つのしゅ種の間の距離を測り、生物学的関係のパタンを決める厳密に数量的な方法を手に入れた。もしかつての類型学が示唆したように、一つの種類のすべての構成員が、いかに表面上は異なってみえようと、常に彼らの種類の基本的なイデアに厳密に従っていて、その全体がその種類を決める特徴や性質を等しくかつ十分にそなえ持ち、従って彼ら全体が、その生物学的デザインの重要なすべての相において他の種類の構成員と等距離にある、ということが本当なら、この等距離の原則はこれら新しい分子研究によって明らかにされうるのではないだろうか。

 自然は本質的に飛躍も断絶もする、というのがあらゆる観察・経験の帰結であるとしたら、「自然は飛躍せず」というのは人々一つの信仰というべきである。そういう前提に立って自然研究を始めるならどうなるか。自分の前提に合わせて事実を曲げ、捏造しなければならなくなるのである。それがまさにダーウィニズムというもので、研究者は無生物と生物をつなぐというような永遠に無駄な努力をすることになる。これに対してデザイン派が主張するのは、努力をするなということではなくて、同じ努力をするなら、明らかに破綻した前提でなく、正しい実りある前提の上に立って努力をすべきだということなのである。「いつかつながるはずだ」というその「はず」は何によるのか、どこからくるのか、考えてみるべきなのである。
マイケル・デントンの次のような結論は、デザイン派に共通するものと言ってよい。

 …自然の連続性という概念は、人の心の中に存在してきたのであって、決して自然の事実の中に存在しているのではない。従って、連続性の教説を擁護するということは、常に純粋な経験主義からの後退を必然的なものにするのであり、今日、進化論生物学者が広く信じているのとは逆に、事実にしっかりと密着し、より厳密に経験的な研究方法に忠実であったのは、科学者社会の中でも進化論者ではなく、常に反・進化論者の方なのである(強調原文)。

『世界思想』No.336(2003年10月号)

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