NO.11(2003年11月)


生命に合わせて調整されている自然法則(1)
――物理学と生物学を一貫する「人間原理」

渡辺 久義   

「進化」と「創造」

 前号に書いたことの誤りを正すことから始めたい。「体毛に覆われた爬虫類などいなかったはずだ」と私は書いたが、「さまざまの哺乳類のような爬虫類」は数百万年にわたって、オーストラリアの有袋類のように、孤立して主流とパラレルに存在したという事実があるようである。その限りでの私の誤りは認めるが、あたかも一般に爬虫類が徐々に哺乳類に変わっていったかのように思わせるために、その事実を利用するようなことは許されないことであろう。
 私がそれを知ったのは、前回に書名だけ紹介したマイケル・デントン(Michael Denton)の第二の著『予定された自然―生物学の法則は宇宙の目的を開示する』(Nature's Destiny: How the Laws of Biology Reveal Purpose in the Universe, The Free Press, 1998)にあったほんの数行の記述からだが、デントンがこの傍流問題を出している理由も含めて、このおそらく画期的な大著を私の力の及ぶ限り紹介してみたいと思う。
 まず曖昧に使われる「進化」という言葉をはっきりさせておかなければならない。普通に「進化論者」というとき――特にデザイン論者が非難をこめてそういうとき――それはダーウィン進化論者という意味である。ダーウィン説に真っ向から反対のデントンも「進化」という言葉を当然のように使っている。それはなぜかといえば、ダーウィン説のように生命の歴史が盲目的で方向性をもたずかつ連続的であっても、デザイン論のように方向性をもち不連続的であっても、進化には違いないからであり、進化としか言えないからである。方向性と目的をもつ進化を「創造」と呼んでもよいのだが、この言葉は安易に「奇跡」と同義語のように思われていて、「クリエーショニスト」といえばダーウィニスト側からの最大の非難の言葉となっているので、定義のわずらわしさを避けるためにも「創造」という言葉を使わないようにするという事情もある。
 「進化」evolutionとは、物理学者のD・ボームも言うように、言葉の本来の意味からいえば、「(可能性が)開かれていくこと」(unfolding)であって、一般に理解されているように、因果関係として時間的に前のものから後のものが出てくる、という意味ではない。物理学者のポール・デイヴィスも、進化とは「花のように開かれていく」(unfold like a flower)ことだと言っている。(拙著『善く生きる』を参照願いたい)
 「生命世界が進化する」とは言えるが「〇〇が進化して××になる」とは言えないのである。卑近な例をとれば、自動車というものが進化するのであって、Aの車が進化してBの車になるのではない。すなわちAがBに変形するのではない。AがBに変形する場合もあるが、そういうのは(部分的)改良であって新車の開発とは言わないだろう。生物でいえば「変種」や「亜種」にあたる。
しかしダーウィニストは、Aの車の基本原理はそのままにしておいて、どんどん何かを付け加えていけばいつかは基本そのものが変わる、つまり新車の開発につながる、と言っているようなものである。
 時計の場合はもっとはっきりしている。時計というものが進化するのであって、日時計や水時計が少しずつ変化して振り子時計や電気時計になるわけではない。進化は、一貫して変わらないものと飛躍的に変わっていくものの、二面からなると言ってよいだろう。時計あるいは自動車というもののコンセプト概念と、そのもののより高い性能や美しさを求める意志は一貫して変わらない。しかし一つひとつの製品は飛躍的に変わっていくのであって、時計や自動車の歴史は一連のジャンプの歴史である。
 生命進化も同じことで、生命体というものの基本原理と、より高性能の生命体、また多様な生命体を実現しようとする宇宙意志(計画)は一貫して変わらないが、個々の種や類は不連続的にジャンプしなければならない。しかし宇宙意志あるいは計画などというものを認めず、生命の歴史を唯物論的・機械論的に解釈しようとすれば、無理にでも連続性をそこに認めざるをえなくなる。それがダーウィニズムというものだと言ってよい。
 ドーキンズの『ブラインド・ウオッチメーカー』の結論はこうである――「大規模な変化はありそうもないかもしれないが、小規模の変化ならかなりありうる。そしてもし、十分に微細な変化の十分に長く連続する中間段階を仮定するならば、どんなものを他のどんなものからでも引き出せるであろう。」これは明らかに詭弁に属するが、こういうものがベストセラーとして、人々に受け入れられるということが問題なのである。

人間のためにある自然

 進化(生命界創造としての)とは明らかに、宇宙の物理法則と、生命体の物理的基本原理――炭素と水を中心とした組み立て、タンパク質、共通のDNAの使用など――の制約の枠内で、人間へと向かう高度化を示すものであり、また(生命環境の隅々まで埋め尽くそうとする)「充満原理」を示すものである。現実に創造されるものの飛躍と多様性は、この制約内での可能なかぎりの飛躍と多様性であるようにみえる。「創造」とは確かに、生命体の仕組みは知ってもそれを作れないという意味で人知を超えたものであるが、「進化論者」が考えるように、法則に逆らって奇跡を起こすことではないのである。
 ただその法則(宇宙的、地球物理的、化学的、生物学的法則)自体が、まさにこの地球上に現に存在しているような生命体の創造と維持のために、ぴったり合うように決められている、というのがマイケル・デントンのこの本の主旨である。自然の法則と言えば「非情な」「冷厳な」「弱肉強食の」といった形容詞をつけて、あたかも人間など無視する盲目の力であるかのように考えるのが、近代科学以来の我々の習性であった。ところがそれが全くそうではなかった、すべてが人間のためにあった、という認識が科学者の間でますます強力になりつつあるというのである。これはまさに我々を根底から揺り動かす事態だといってよい。
 私はマイケル・デントンのこの四百数十頁に及ぶ、かなり専門的な内容を含む大著を、すべて的確に評価できるとは思っていないが、文字通り時代を画する著作だと言ってよいと思う。これは目的論的宇宙観という我々が漠然と傾くようになってきた考え方が、いよいよ間違いのない考え方であることを立証する本であるが、哲学者が直観によってそういう宇宙像を仮説的に立てるところを、この著者は科学者らしく、個々の物理化学的・生物学的事実をいくつも積み重ねることによって、そういう宇宙像を導き出さざるをえないと結論するのである。すでにわかっている科学的観測事実も、新しくわかってきた科学的事実も、そのすべてが「あきれるほどに」「気味悪いほどに」「畏敬の念を起こさせて」ひたすらこの地上の生命のために、生命を作り出し生かすために、究極的に人間のために、調整されているのだという。

人間原理の概念を拡張

 ところで、私はこの連載の通しタイトルを「人間原理の探究」として書き始めた。最初の二三回は普通に使われる意味での「人間原理」、すなわち諸々の宇宙的物理常数の微調整ということについて書いた。しかしその後、話題が「インテリジェント・デザイン」のことに及ぶにつれて、この題を逸脱しているのではないかと後悔したことがあった。しかしこの本に遭遇するに及んで、まさにこの題がぴったりであったと今考えている。この本でのデントンの功績は、まさに「人間原理」の概念を、宇宙論を超えて物理学、化学、生物学の全体へと拡張したことにある。
 そのことは裏表紙に印刷してある権威者の推薦のことばにも言われている。

 「本書は、自然の中にひそむ潜在力の存在についての議論に、新しい局面を切り開くはずである。それはこれまでの、物理学をベースにした、「人間原理」やデザインの問題についての議論が宇宙論のためになしてきたことを、生物学のためになすものである。魅惑的にして重要な本。」(物理学者J・C・ポルキングホーン、『科学者は神を信じられるか』、The Faith of a Physicistの著者)


 「胸を躍らせるようなこの本の中で、マイケル・デントンは、思いがけない結論、すなわち宇宙は人間のために意図的にデザインされているという結論へと、情け容赦なく進んでいく科学の進展を、詳しく跡づけている。物理学の法則から化学・生物学の法則まで、水の特性から火の性質まで、宇宙の目的は人間を生かすことにあることを彼は検証している。この研究の科学的かつ神学的な意味の大きさは計り知れない。」(生化学者マイケル・ベーエ、『ダーウィンのブラックボックス』の著者)

 もう一つ裏表紙の賛辞で、デイヴィッド・ベルリンスキー(数学者、九月号に紹介した反ダーウィニズムの論客)の言っていることも傾聴に価する。――この本の科学的興味もさることながら、実はこれは最高級の哲学書である。哲学者はとても面白いのでこれを読もうとするだろうし、生物学者はおそらくこんな本は見たこともないというので興味をもつだろうし、一般の読者は、「自然についての本がそうあるべきなのに、めったにそんな本がないという理由で、つまりこの本が絶望的に失われてしまった驚異の感覚を取り戻してくれるがゆえに、この本を愛するであろう。」

予定された自然

 私はこの本Nature's Destiny を何回かにわたって紹介しようと思うが、destinyという言葉は日本語の「運命」のニュアンスとはやや違って「予定されたコース」という意味であるから、『自然の運命』と訳すよりは『予定された自然』と訳す方がよいかもしれない。
 ところでこの本が哲学書でもあるのは、根本に立ち返って考えてみる、水とか火といった当たり前のものを新しく考え直そうとする、という姿勢をもっているからである。
 そもそもこの我々の宇宙がどうしてできたかを考えるのに、二つの見方があるだろう。一つは、以前、実際に聞いたある人の言葉として引用した「あなたは創造とか神とか言っているが、この宇宙はほっといたら自然にこうなったというだけなのだ」というときの「ほっといたら自然にこうなった」という見方。ダーウィニズムがそれであるが、ただダーウィニズムは「自然選択」というもう少しましな言葉を使う。しかし「自然選択」も自動作用であるから同じことを言っているにすぎない。「自然選択」という自動的な作用が一つ働けば、自然はどんな高度な複雑なものでも生み出すということである。
 もう一つは、この宇宙自然界は作られたものとみる見方。我々は自分自身を見ても周囲の生物を見ても、生き物はすべて目的をもって生きており、また目的に合うようにうまく設計されていてその例外はない。従って、それを生み出した宇宙そのものも最初から目的をもった生命的存在で、その目的を果たすように始めから働いてきた、という仮説を立てることができるだろう。
 そこでデントンは全くラディカルな仮定をしてみる。――我々が神から生命世界を作るように委託されたデミウルゴスだと仮定したら、(かなりの科学的知識をもっている)我々ならどうするだろうか。創造は奇術ではないから奇術を用いることはできないが、一定の合理的な手順に従いさえすれば、我々の知っている地球上の生命体とまったく原理的に違う生命体でも自由に作ることが許されるだろう。
 そのように仮定したときに、今我々が知っている地球上の生命体や生命環境と大きく違ったものが作れるかというと、作れないだろうというのがこの本の結論である。つまりあらゆる物理化学的条件が、この地上にあるような生命のために最初から絶妙に調整され、この宇宙は我々の知っているような生命界を中心に、一大調和体をなしているということである。SFや一部の科学者の考えるような、まったく違う原理によって作られた生命界の存在しうる可能性はほとんどない、と主張している。
 デントンが宇宙を意味する言葉として、universe でなくcosmosを用いているのは理由がある。同じ宇宙でもcosmosは「一大調和体としての宇宙」という意味で、神秘主義めいているので今まで科学者はふつう選ばなかった言葉である。
 例えば、水がなければ勿論だが、水の性質がわずかに違っていても我々の宇宙調和体は成り立たない、つまり我々はここにいなかったはずだという。例えば水の性質の一つに粘性(viscosity)というものがあり、これが現実の値より高くても低くても生命は不可能だという。高ければ高いで、低ければ低いで、それに合わせて生命体を作ればよい、つまり「適応」すればよい、というようなものではない、というのである。例えばそれは血流に関係するが、我々の毛細血管を今より太くすることも細くすることも構造上できないという。血流だけでなく細胞内のあらゆる微妙な働きが、まさにこの粘性をもった水に依存している以上、部分的な「適応」というようなことで済む話ではない。
 これまでの考え方は、たまたまある特定の性質をもった水とか大気とか化学物質といったものが生命などに無関係に存在しており、それにうまく適応しこれを利用しているのが生命だということであろう。最新科学からみればそれは逆である。それはあたかも、親から毎月仕送りをしてもらい、家も買って貰い、諸経費も払ってもらっている子供が、そういう環境にうまく適応し利用して生きている、と言っているようなものである。

『世界思想』No.337(2003年11月号)

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