NO.9(2003年9月)


ダーウィニズムの終焉(2)
――自然法則と偶然が遺伝情報を創り出す?――

渡辺 久義   

蛙から王子さまへ

 前号で紹介した『裁かれるダーウィン』の著者フィリップ・E・ジョンソンの別の書『真理のくさび』(The Wedge of Truth, InterVarsity Press, 2000)から得た面白い話を披露しようと思う。
 戦闘的ダーウィニスト・無神論者として有名なリチャード・ドーキンズにはちょっと気の毒な話であるが、一九九八年、オーストラリアの創造論者の組織で「蛙から王子さまへ」というビデオ(その意味は、例えば両生類から人間が生まれてくると主張する進化論者に対する皮肉である)を作って配布している人たちが、ドーキンズにインタビューを申し入れたところ、ドーキンズは騙されたのか気付かなかったのか、ともかく彼らを自宅に招き入れて質問に応じたのだそうである。
 面会者は彼にこう質問した――「突然変異とかその他の進化過程で、遺伝情報を増していく例が何かありましたら挙げていただけませんか。」この質問にドーキンズは(ビデオで見ると)少なくとも一一秒間沈黙しているそうである。この長い苦しい沈黙の後やっと口を開いた彼は、魚類から両生類への推移という全く関係のないことについて答えたという。世界で最も有名なダーウィニストのこの狼狽ぶりに、創造論者たちは狂喜したらしい。
 しかしジョンソンは、それはよくあることで、たとえ自分の専門のことであっても、とっさに答えられなくて頭が真っ白になるということは誰でもあるのだから、そのことで鬼の首を取ったように言うことはできない、問題はドーキンズの次のような弁明にあると言っている。

 ゲノムの情報内容を増していく進化過程の例を挙げてみよと挑戦されたとき、〔相手を間違ったという〕この疑いは急激に高まった。それは創造論者以外には誰も尋ねようとはしない質問である。本当の生物学者ならそれに答えることは簡単である(答えは、自然選択がいつでもゲノムの情報内容を増しているということである、それこそがまさしく自然選択ということの意味である)。しかし、進化論の観点からすれば、そんなふうに言うのはそれを表現する面白いやりかたではない。それは進化が起こったということを疑う者だけの表現のしかたである。

 これはあたかも、そういう愚かな質問は創造論者という愚かな人間だけのする質問だから答える義務はない、と言わんばかりである。しかしなぜドーキンズは、「創造論者(というおかしな人間)だけ」が、突然変異や自然選択が新しい遺伝情報を創造する証拠を求めたり、現実に観察された情報創出の仕組みの具体例を教えてほしいなどと言う、と考えるのであろうか。
 それは明らかに、彼がその要求に応えることができないからである。そのことは数ヶ月後の「インフォメーション・チャレンジ」と題するインターネット上の彼の論文で明らかになった、とジョンソンは書いている――「(ドーキンズの)この論文には、多くのなくもがなの情報理論の背景についての知識、ヘモグロビン分子が、活動していない遺伝子のランダムな突然変異によって先行するものから進化してきたかもしれないという臆説、そして最後に、現在の生物の特徴から過去の環境の性質についていくらか分かるかもしれないという可能性、などについて述べられている。すべてそれらはそれなりに面白い。しかしそこには、活動していない(したがって自然選択を受けない)遺伝子のランダムな突然変異が、どうして遺伝情報の厖大な増加を引き起こしうるのかについての説明はない。なかんずく、創造的進化が起こるためには情報を創造することのできる変異が必要なはずだが、現実に知られているいかなるそのような例の記述もない。創造論者はその例が出てくるのに一一秒でなく、おそらく永遠に待たねばならないだろう」。

言葉のごまかし

 「進化」という言葉の定義が曖昧で、進化論生物学者はその曖昧さを利用している、ということを私は前号で述べた。進化は「変化」――つまり変種が作り出されること――ではないはずなのに、進化論者は変化する以上、進化もあるはずだと言いくるめるのである(ジョンソンは単なる変化を「横の変化」、進化を「縦の変化」と呼んで区別することを提案している)。

 ダーウィニストと議論するときには、常に言葉のごまかしに気をつけなければならない。彼らはきまって自分の理論の困難さを理解しようとするより、それを擁護することにやっきになる。情報はいろんなふうに定義することができ、ダーウィニストはある専門的な意味で、無心のコピーによっても、情報がわずかに増加することができることを示すことができるかもしれない。だが示されなければならないのは、強力なコンピュータ作動のシステムや何巻もの百科事典に相当する何ものかを、生み出すことのできる過程なのである。…
 教科書はきまって進化を情報創造としてでなく、単なる変化として定義する。「時間をかけての変化」とか「遺伝子頻度の変化」など。主題をこのように定義すれば、どんな変化の例であろうと「進化」として性格付けることが可能である。動物や植物の傍系集団は遺伝子の変化によって性格付けられるし、正確な混合率は常に、遺伝子プールの中で、あるものが死に、他のものがそれに取って代わるに応じて変化している。したがって変化(遺伝子変動という意味での)がいつでも、我々の目の前で起こっていることに何の疑問もない。ドーキンズでも他のどんなダーウィニストでも、進化的変化の例を示せと言われれば、いささかも困ることはないであろう。彼らは(ダーウィンがしたように)犬や他の家畜・ペットの変種の育成や、ルーサー・バーバンクのような優れた植物学者の手になる植物の変種や、ガラパゴス諸島のフィンチの仲間のサイズや形の変化を指摘するであろう。すべてそれらはおそらく、本島から移住してきた単一の先祖の子孫である。科学者は、もし進化ということが単なる変化を意味するならば、特定の進化の例を指摘するのに何の困難もない。

眼の進化論を糾弾

 もう一つホット・ニュースに属する面白い話を紹介しよう。シアトルに本部を置くDiscovery Institute, Center for Science & Culture という精力的なIDT(すなわち反ダーウィニズム)の「シンクタンク」が、「インテリジェント・デザイン」に関わる新しい論文や書評・論争を、インターネット上に刻々に掲載している(http://www.discovery.org.)。
 ここにごく最近(四月一日付)、デイヴィッド・ベルリンスキーという人の「科学上のスキャンダル」(A Scientific Scandal)という挑発的な題名の論文が載った。これは(ダーウィン自身が自説にとって難問であることを認めた)眼の形成についての進化論者の著名な論文をベルリンスキーが糾弾したものである。
 それはニルソンとペルジャーという二人の生物学者による一九九四年の論文で、「時間と偶然が与えられるだけで、光に敏感な体の組織(原始的な眼)がレンズを使った眼に徐々に変わっていくことができる、しかも宇宙史からすれば瞬きするほどの、ほんの数十万年という短い時間で可能である」ことを主張するものだという。そしてそれは進化生物学の世界で、権威ある文献として広く認められているのだという。
もしこれが本当なら大変なことだとベルリンスキーは言う。ただしこれはコンピュータ・シミュレーションによるもので、現実とは別の問題である。もちろん事の性質上、実験によって確かめることはできないのだから、それは仕方がないのだが、それでもそれが本当に納得できるものなら大変な意味をもつものだ、と彼は言う。そしてそれはいろんな論説文や教科書に取り入れられ、かのリチャード・ドーキンズも通俗的なダーウィン進化論の著書の中で引用しているのだそうである。
 しかしこの論文はとうてい納得できるものではないとして、ベルリンスキーは次のように言っている。

 私は私の論文で、ニルソンとペルジャーの議論が瑣末で、その結論には内容がないことを指摘した。また、科学者仲間による彼らの論文の外への紹介は、重大で破廉恥な曲解を含むものであることをも主張した。…
 あらゆる科学論文は何らかの出発点から始まらなければならない。ニルソンとペルジャーは、眼の形態学的変化は、陥没とその穴の収縮、レンズの形成ということから始まるという前提に立っている。専門家は、これらの光に敏感な細胞がどこからきたのか、なぜその最初の細胞組織と協調する、あるいはその内部に含まれる、血管とか神経とか骨といった生物学的機構が挙げられていないのか知りたいところだが、それは後の問題としてもよい。
 しかしそうはいかない問題がある。ニルソンとペルジャーは生物学的器官を一つの物理的システムとして、理論光学の法則に従うものとして扱っている。それは間違いではない。ただ理論光学は、視覚的性能と、陥没やその穴の収縮やレンズの形成との質的な関係を保証しなければならないのに、彼らは関心はもっぱら数量的なものである。…
 一パーセントの眼の段階というが、どんな単位を用いているのか。それぞれの段階でどの程度の生物学的変化が起こるというのか、彼らは何も言っていない。また、彼らが簡単なことのようにいう形態学的変化は、光の感覚の場合おそろしく複雑なものであることが分かっている生化学的変化と、対応させられていない。
 陥没は、ちょうどへこませた風船のように、その部位が全体として変わっていく過程を意味するのだろうか。それともそれは、感光的細胞が押し合いへし合いしながらその位置を変えていくときに、独立に起こるいろんな局所的過程の結果なのだろうか。…

反論に値しないペテン

 こんな調子で難詰は数ページに及ぶ。当然のことながら、これに対してはごうごうたる敵意むき出しの反論が起こった。ベルリンスキーは七月八日付(これを書いている数日前)の同じサイトに、まず数編の反論を載せ、次に支持論も載せ、最後に初回より更に長い自分の再反論を展開している。反論の方は公平にみて引用に値しないのでここには紹介しない。不公平と思われるかもしれないが、次に引用するベルリンスキーの文章から、およその真実は推察できるであろう。

 ニルソンとペルジャーのこの論文は、まともな批評の対象にはならないものである。最もあら捜しの好きな批評家でも途中でうんざりしてテーブルを離れ、胃薬を飲むだろう。しかしそのこと自体がスキャンダルだというのではない。ニルソンはすぐれた科学者で、すぐれた業績をあげている〔ここで二点の論文名があげられている〕。ただペルジャーと組んだこの仕事だけは、へまをやってしまったのである。そういうことはよくあることだ。
 いや、科学上のスキャンダルというのは別のところにあるのである。彼らの論文は、一般大衆にも学者仲間にも広く宣伝されてしまったのだが、それは特にリチャード・ドーキンズによって、これがコンピュータ・シミュレーションとして間違って伝えられたからである。うわさがドーキンズの口から、熱心に耳を傾ける、しかしひどく騙されやすい多くの人々の間に広まっていった。以後ニルソンとペルジャーの仕事が口にのぼるときは、彼らが現実に書いたことは忘れられ、あの空虚なコンピュータ・シミュレーションが注目された。それは仮想現実の虚像が、最後には本物に置き換わってしまうよい例である。科学の仕事のこういう誤った伝達は一種のペテンである。物書きの世界の剽窃や実験物理学のデータの捏造と実質上変わらないものである。私がスキャンダルとして弾劾するのは、このペテンに対する無関心なのである。
 私に対する批判者の中に多くの昔なじみの顔があったから、私はせめて自尊心が自己批判的な反省を促すのではないかと期待した。ペテンをペテンとして決め付けるのに良心は痛まない。もしドーキンズが彼らの仲間の一人であるならば、なおのこと、彼らがいつも論敵に対して向ける道徳的基準をドーキンズに求めるべきなのである。
 脊椎動物の眼は、ニルソンとペルジャーによれば、光に敏感な細胞の点から現れたものだという。進化あるいは適応の峻険を登りつめて、これらの細胞は陥没、穴の収縮、レンズの形成という所を通って、今あるところにたどり着いたのだという。眼の進化をそんな大まかな土木工事のような過程によって説明するのは、まるで「モナ・リザ」の出現を、カンヴァスを用意し、絵の具を混ぜ、それを塗りつけて出来た、と説明するようなものである。

『世界思想』No.335 (2003年9月号)

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