NO.66



生命とは何かを問い直せ
 ―教科書記述について具体的に提言する―

ダーウィニズムという宗教

 これを書いている今から数日後(四月十八日)に全米で一斉に封切られるドキュメンタリー映画Expelled: No Intelligence Allowedが作られた動機は、ダーウィニズムが正しいかどうかを問うことでなく、ダーウィニズムに疑問をもつことさえ許さないというような学問体制が、自由の国アメリカにおいてなぜ許されるのか、という素朴な疑問と怒りである。これは学界といういわば聖域への一常識人の殴り込みであって、これが痛快でないという人はまずいないだろう。アメリカ全土が興奮するのも当然である。これがどう転ぶにせよ、体制化され独善的となった学問というもの一般 の、土台を揺るがすきっかけになるのは間違いない。
 ダーウィニズム独断体制とは、言い換えれば、生命とは何かについての解答はすでに出ているのだから、これについてとやかく言うのは許さない、という体制である。これは何度も言ってきたように、私自身の命を私がどう解釈するかに干渉されるのと同じことであって、私はベン・スタインと怒りを共にする。これが学界という閉鎖社会に閉じ込められた変わった思想というだけなら問題はない。しかし実情は、学者先生にお墨付きをいただいたこの思想――生命は偶然によって始まった物質現象の一種で、そこに価値や意味を認めるのは間違いだという思想――があらゆるメディアと教科書を通 じて、垂れ流されているのである。これまでは「お前がいくらそんなことを言ったところで、ダーウィン進化論という科学的事実には逆らえないだろう」と言われた。今はさすがに誰もそんなことは言わなくなった。ダーウィニズムとはその発端から今日に至るまで、証拠の有無や動機の如何にかかわらず、科学であり事実でなければならない一種の宗教だという認識は、次第に定着しつつあると思われる。
 体制派の中でも、ダーウィニズムとは恐い宗教だという認識は広まりつつあるに違いない。ダーウィニズムの宗教性は、実は半世紀も前からダーウィニスト自身が認めているのである。ダーウィンの番犬と言われたトマス・ハックスレーの孫でダーウィニストのジュリアン・ハックスレーは、一九五九年の有名な演説でこう言った――「ついに進化論の観点は、いかに不完全とはいえ、来るべき時代の要請にこたえて必ず起こるであろう新しい宗教の形を取りつつあることは、今や明らかです。」要するにその頃、前途輝かしく見えた唯物論宗教の核をなすものとなる、という意味であろう。この予測は、その宗教が危機を迎えていることを除けば、確かに当たっていた。
 これについてデニーズ・オレアリーはこう言っている(Denyse O'Leary, By Design or by Chance? 2004)――

 1959年、ダーウィン百年祭において、サー・ジュリアン・ハックスレーは有名な演説を行い、進化論は新しい宗教になるだろうと言ったが、これを注意深く聞いていた人たちには間違いなく、多くのダーウィニストは単なる中立的な科学者でなく、一つの新しい世界観を提唱する人々であることが分かったであろう。その世界観が現在、義務教育制度を通 じて教え込まれているのであり、社会的通念として反映しているのである。

 新しい世界観とは、ダーウィニズムを有効な武器とする唯物論的世界観(宗教)である。この世界観に奉仕するためなら、ウソも許されるのである。レーニンが共産主義に奉仕するためなら、どんなウソも卑劣な手段も許される、と言ったのと同じである。教室でIDに言及したために学校を追われた、初期の被害者である生物担当の高校教師ロジャー・デハート(DeHart)はこう証言している――「私はたとえそれが間違っていても、テキスト以外は教えないように言われました。」

方法と哲学の区別

オレアリーは、方法論的唯物論(生命の物質的側面 だけを見るのだと断った上で行う研究)と哲学的唯物論(生命は物質的なものがすべてだと信じて行う研究)は全く別 なのだが、多くの研究者はこの区別ができていないと言う。この学問する者にとって最も肝心のケジメについて彼女はこう言っている。

多くの人は方法論的自然主義から哲学的自然主義へと移行する。哲学的自然主義とは、神というものは実は存在せず、宇宙は偶然によって生じたものだという見方である。言い換えるとこの哲学は、こうした考えを作業上の科学的前提として扱うのでなく、一つの事実として主張するのである。のみならず、ある人々はそこから更に踏み出して、科学主義(scientism)という観念を取り入れる。彼らは、科学的方法によって発見できないものは何であれ、真理ではありえないと考える。実際は、科学的方法とは、科学者が効果 的に自然を研究することができるように開発されたものである。それは例えば、芸術的あるいは道徳的な見方のような、他の知の方法に取って代わるように意図されたものではない。

 こんなことをカナダあたりの普通 のオバサンに指摘され、翻訳して示さなければならないとは、我人ともに情けなくもあるが、そもそもこのケジメもわからず、故意にこのケジメを曖昧にして、唯物論という宗教を広めようとする体制科学にも盲目な人が、ほとんどなのである。オレアリーはまたこんなことも言っている。

今日、科学における真の謎は、その働きがよくわからない、いわゆるブラックボックスではない。それはそのデザインを理解することこそがそこで我々に求められているような、一つのカスケードをなす、入り組んでもつれ合ったシステムである。最大の謎は生命それ自体である――それについて我々が何も知らないからでなく、多くを知っているからであり、知っていることをどう理解していいのか知らないからである。

 我々の高校教科書『生物』は、進化の問題にかなりの頁数を費やしている。現実には授業ではここまでやる余裕がないと聞いたが、今それは賢明かもしれない。しかし本当を言えば、ここはむしろ必修として、何よりも先に学び考えさせるべきところであろう。なぜなら我々の宇宙は、生命を中心として、生命を目指して進化してきたことが分かっているからである。17世紀の英劇作家ドライデンにAll for Loveという劇があるが、我々の宇宙のあり方をひと言とでいえばAll for Lifeであろう。その始まりからの百三十数億年の宇宙の進化(歴史)は、最初から高等生物を産み出すために調整され、人間を頭に置いて展開してきたようにみえる。科学の進歩とともに、この「人間原理」といわれる事実はますます否定できなくなるようである。
 そう考えれば、他のすべてに優先して、この生物進化の項目をこそ学ぶべきだという考えには、十分な理由があると思われる。しかしこれは今のところ現実的ではない。そこで私はすぐにでも可能な教科書記述の提案をしたいと思う。これは現実にあわせた提案であって決して過激なものではない。教科書の「進化」の章には、「生命の起源」という今論争の的になっている問題に触れるセクションがある。

生命の起源について

 次に示す例は、短くて便利なのですでに引用したことのあるものだが、これは厳密に言えば教科書でなく「チャート式」と言われるもので今は絶版かもしれない。しかし、この書きぶりは、現在の生物教科書に共通 するものなので、もう一度引用する――

 生命の起源――地球上での無生物からの生物の発生をいう。現在では科学がめざましい進歩をとげているので、ある程度は生命の起源について推論できるようになってきた。

 少なくともこの問題が、こんなふうに当たり前のことのように、何かのついでのように、ケロリと言って済ます問題でないことは、すべての人が認めるだろう。明らかにこれは、事の重大性から(故意か否かは知らず)学生の注意をそらす言い方である。
 今いわゆる統一運動の一環として編纂が進んでいる百科事典New World Encyclopediaは、ディドロ、ダランベール以来の無神論をベースにした百科事典を是正し、価値を重視する記述を特徴とするものだが、この百科事典――ウィキペディアと同じくネット上で見ることができる――のOrigin of Lifeという項目を見る。そこでは普通の百科事典と同じように、生命起源についてのこれまでの諸説を詳しく紹介しているが、それに先立ち、デニーズ・オレアリーの指摘している方法と哲学のケジメの問題に注意を促し、この項目の特別 の重大さと困難さに触れる次のような記述がある――

  この項目の記事は、生命の起源についての現代の科学的研究に焦点を当てている。この観点からすると、様々なモデルは、自然法則によるにせよ超自然の作用にせよ、至高の存在による創造といった宗教的あるいは哲学的思想を無視している。例えばリー(1981)は、生命を持たぬ 無機物から生命への物理的過程は、内的な霊的な力によって導かれた過程の外的表れだとする考え方を提唱している。
 様々な科学的モデルは必然的に、思弁(空想)的であることをまぬ がれない。生命起源の説明案は仮説の段階にとどまっているが、その意味はそれらが、生命はどのようにして始まったかを研究する科学者のための作業的前提だということである。もしテストの結果 、ある仮説を受け入れるのに十分な証拠が得られたら、そのときそれは一つの理論となるだろう。
 生命起源の研究は、それが生物学そのものと自然界についての我々の理解に、深い影響を与えるものであるにもかかわらず、限られた研究領域にしかなっていない。この分野の進歩は、研究の対象となる問題が特別 に重要なために、多くの人々の注意を引き続けてはいるが、一般 的に遅々として散発的である。いくつかの事実は、生命が生じたかもしれない諸条件への洞察を与えはするが、非生命が生命になったメカニズムは、いまだに分かっていない。

私案「生命の起源」

 教科書もこのように正確に正直に書くべきだろう。そこで以上のような諸先達の見解をふまえた上で、「生命の起源」の記述の私なりの案を提示してみたい。ここは少なくとも生徒の問題意識を喚起するように書くべきであって、そっけなく言ってのけるような箇所ではない。少なくとも、ウソをついて生徒の好奇心をそらすような書き方をしてはならないだろう。

 生命の起源――生物学はこれまで一般 に、物理学・化学の延長としてとらえられ、物理化学的な方法によって研究されるのが普通 であった。この方法によって生命現象の物理的側面の多くが解明されてきた。これは方法論的唯物論と呼ばれ、生命研究の方法的前提として有効なものであり、生物学は普通 この前提に立って記述されている。深い謎とされる「生命の起源」という問題も、この方法によって研究が進められ、この方法によってどこまで解明が可能か様々な試みがなされ、様々な仮説が提出されているが、少なくとも今までのところ謎は解かれていない。
 しかし我々が考えてみなければならないのは、生命起源とか進化といった問題は、科学の対象としての側面 と、歴史の対象としての側面の二面をもっていることである。言い換えればこの問題には、繰り返して実験観察することのできる面 もあるに違いないが、同時にそれは、宇宙歴史上ただ一度限りの、後戻りできない出来事としての特性をもっている。
 生命歴史のこの繰り返されない一度限りの側面は、「創造」と呼ばれなければならない。この創造とは、神話とか宗教といったものとは関係なく、非科学的と呼んで退けることのできないものである。そのように考えるならば、生命起源とか進化という問題は、少なくとも唯物論的な科学の方法のみによっては、とらえられない問題であろうと推測できる。
 これはそもそも生命とは何かという問題になる。生命が物質や物理的な力だけで説明できないとしたら、何か目に見えない心のようなもの、潜在力のようなものを想定しなければならないが、これはもちろん宗教でも非科学的要因でもなく、科学の内部に取り込むべき要因として考えねばならない。
 現在この問題に一定の解答があるわけではない。ただ発想の転換がなければならないことは確かである。今、科学界では特にこの問題に関心が集まり、論争の中心となっている。これは専門の科学者に任せておくべき問題でなく、生命とは何かを真剣に考えようとする人々、特に生物学を学ぼうとする、次代を担う若い人々に課せられた、人類共通 の課題である。

『世界思想』No.390(2008年6月号)

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