NO.67



否応なく突きつけられた課題
 ―生命起源の問題で日本の教育が道を誤らないために―

映画『追放』で世論沸騰

 映画『追放』がアメリカで公開されて以来の世論沸騰ぶりは、インターネットで見る両陣営の激突だけでもすさまじいものがある。映画製作者側は好んで反対者の「名言」を掲げているが、その中には「ベン・スタインよ、もし神権政治がいいと言うなら、イラクへ移り住んだらどうだ。あそこはお前にとって天国のはずだ」などというのがある。これはダーウィン進化論批判=古い創造論復活=中世的神権政治復活と考える輩の見解だが、冗談のようでもあり本気のようでもある。しかしこれはダーウィン陣営の論調の基本をなすものだと言ってよい。もちろんベン・スタインは、ダーウィニズム専制体制こそ「神権政治」だと考えるから、この映画を作ったのである。だから両陣営は、正負の違う同じ観点で相手を見ていると言ってよい。
 わが国では私の知る限り、全く無風状態が続いている。しかし、いつまでも無事平穏でいるわけにはいかないのだから、心の準備はしておかねばならない。何度も言うように、これは単なる学説の衝突の話ではない。我々の魂を直撃する話である。折りしも来年は『種の起源』出版一五〇年、ダーウィン生誕二百年ということもあってか、「ダーウィン展」といったものも開かれている(私は見ていない)。
 過ぐる五月六日、NHKテレビが「天才ダーウィン」(?)という番組をやっていた。これをご覧になっていた方はどう思われただろうか。この中にはひと言として、今起こっていることへの言及もなく、そもそもダーウィン進化論が仮説だという断りもなかった。出演のお笑いタレントたちも、無理に付き合わされているという感じであった。制作者の意図は何であろうか。多分、危機感からくる「思想的引き締め」の意図があるのではなかろうか。しかしかつての共産国のそれと同じく、それは効果 がないどころか、視聴者を愚弄することによって(それは十分に感じ取れるものだった)、逆効果 をもたらすだけであろう。
 宗教を信ぜよとも、IDを信ぜよとも言っているのではない。ただこういう問題が、天才ダーウィンが現れてきれいに片が付いたかのような、我々には考えることがなくなったかのような言い方を、少なくともすべきではない。しかしおそらく、この番組の白けムードによって、制作者のメーッセージは青少年に伝わらなかった。日本を含めて今世界の青少年は、何か大きな地すべり的なものを感じ取っているに違いないからである。アメリカでも一番敏感なのは若者で、将来を託すべき若者を対象とするIDセミナーが、あちこちで行われている。
 おそらくこの番組の「効果」は、ドーキンズの『神は妄想である』の「効果 」と同じである。少しでもダーウィニズムに批判的であった人々は、いよいよこの思想から離反し、信仰的唯物論者は、ますますこの理論にしがみつくだろう。論理的整合とか科学的証拠といったものは、そこでは無関係である。デムスキーは思想の転換期には三段階があると言っている――最初は新しい理論の完全無視、次に狂気じみた攻撃、そして最後には、「そんなことは最初から知っていた、当たり前のことを言うな」という三段階である。今、この最後の段階の兆しがわずかに見えてきたとも言える。

本来の日本人の発想

 しかし平均的日本人は、本音のところでどうなのであろうか。統計によると我々は、世界の先進三八カ国中、ダーウィン進化論を最もたやすく受け入れる国の、英仏に伍して上位 五カ国に入っている。イギリスとフランスは無神論も優勢だが、おそらく白人優越主義の最も強い二国である。アメリカは(トルコに次いで)最下位 だから、これは民族の科学的・非科学的のランク付けにはならない。これを不名誉とは言わないまでも、何か我々の恥部が見えるような事実ではなかろうか――あえて言えば、鹿鳴館を思わせるような。
 日本人はもともと唯物論的な民族ではなかった。西洋的な意味での無神論者もいなかった。無神論者というのは、ドストエフスキーの小説に出てくる無神論者やマルクスのように、そして何より実在するドーキンズ教授のように、強力な神がいるからこそ、その神に反逆し復讐するための無神論なのである。日本人には、そのような無神論者も唯物論者も本来いるはずはない。我々が進化論者になったのは、欧米人に「非科学的」だといって笑われたくなかったからにすぎない。もう一つは、我々もやはり欧米人並みに、人種差別 のためにこの思想が必要だった。かつて我々は「黒んぼ」は人間以下だと思っていたし、「シナ人」も「朝鮮人」も劣った「不適応者」と考えて行動したことは間違いない。
 我々は本来、生命は生命として考えていたのであって、これが何か物質的なものに還元できるとか、物質から生命が出てきたといった愚かな考えを持ったことはない。日本人は欧米人のように、自分が(つまり人間が)宇宙の主人公であるかのように考える無神論的傲慢を本来もっていない。それは「生かされている」という日本語独特の言い方に端的に表われている。これはヨーロッパの言葉に訳すことができない。自分が中心ではないから、「私が見る」「私が聞く」(I see, I hear)と主語をつけて言わないで、「見える」「聞こえる」と主語なしに表現する。この言い方の根底には、何か私でないものが私(の目や耳)を通 じてものを見ている、聞いている、というニュアンスがある。これが現実に即したありのままの捉え方であろう。我々は自分で目や耳を作り、それを使って見たり聞いたりしているのではない。目や耳は、何ものか自分を超えたものによって与えられたものであり、そのものの意志に従い、そのもののお陰でものを見聞きしているのである。我々は何によらず「お陰さまで」何かをなし遂げるのであって、自力でするのではない。
 それが何であるか、私を超えたものが何であるかはわからない。ある集会の雑談で、インテリジェント・デザインは日本人に受け入れ易い考え方のはずだ、と私に言った人がいる。その通 りであろう。なぜならIDは最初に創造者をもってくるのではない。どうしても否定できない、自然に出来たものでないデザインの証拠がある、と言っているだけである。そのデザインの主体が何であるかをIDは同定しない。我々が「生かされている」ことは否定できない事実だが、何が、あるいは誰が、我々を生かしているのかはわからないのである。確かに我々にも、造物主を意味する「造化」という言葉は昔からあったが、特に創造者や神を考えることなしに敬虔に我々は生きてきた。「神が」という言い方をしないのは、「私が」と言わないのと根本において同じである。「私は聞く」と言わないで「聞こえる」と言うのは、決して曖昧な表現ではない。却ってこちらの方が事実に即した、従って合理的で科学的な発想である。「私」が主語になることはできない。かといって私を創った「神」を主語とする発想は日本人には本来ないものである。ただ「生かされている」という事実だけがある。「デザイン」という事実だけがある。西田哲学などはここを起点としていると言ってもよい。

IDと日本人

 IDには日本人の発想に非常に近いものがある。西洋の考え方では主語を立てずにはいられない。「私が」「神が」「物質原理が」と初めから考えた場合に、本当にこの世界の真相に達することができるだろうか? 本当に科学になるであろうか? 我々は西洋流こそ科学だと考えてきた。しかし今、IDの提起しているのは、主語を立てて考える西洋の伝統に対する疑義だと言ってもよい。唯物論者が世界をつくったのは自然選択だと言えば、反対者は、世界をつくったのは神だと言う。これでは二つの主語が対立して争うだけで、そこから本当の解決は出てこないだろう。一方がGod of the Gaps(穴埋めの神)だと言って相手を嘲笑すれば、他方はDarwin of the Gaps(穴埋めのダーウィン)だと言って返す、水掛け論のようなことになる。
 「何ものかによって」という発想は曖昧なようで、実は正確な現実把握である。そこから本当の哲学と科学が生まれると言ってよいだろう。受動的な事実がまず初めになければならない。ハイデガーが人間のあり方として考えた「世界内存在」という概念は、日本語の「生かされている」によく似ている。私は「神」を考えるなと言っているのではない。「神」という実体を初めに立てることによって、あたかもそれが既知の存在であるかのように錯覚することを避けるべきだと言っているのである。神とは未知の偉大な「叡智」であって、人間は謙虚に、この叡智に導かれ、叡智そのものを分有させてもらうのだという『意味に満ちた宇宙』のスタンスこそ、本当に実りある科学の方法であろう。要するに「デザイン」された者が、「デザイン」に従って「デザイン」を解き明かしていく、というスタンスである。これはダーウィニストがIDを曲解して考えているような、強権的な神などではない。
 自分がデザインされている、生かされている、という受動的な事実から出発することと、自分をデザインし生かしている実体(神)を措定し、そこから出発することとは、同じではない。後者は西洋に特有の発想であり、これは神を何か限定された実体のように考えねば気がすまぬ ことを意味する。これは無神論者の攻撃を受けやすい。無神論者は、もし神があるならその神を創った神、またその神を創った神があるはずで、それではどこまでいっても終わらないではないか、と言う。これを「無限後退」(infinite regress)といって、一つのアポリア(論理的難点)のように考える。しかし「デザイン」の事実から出発するIDや、「生かされている」という事実から出発する我々の伝統的な思考法にとって、そのように「デザイナー」や「生かすもの」を実体として限定しようとする性急さは場違いである。これは消極的に見えるが、実は真理に近づく最も確実で有効なスタンスではなかろうか。『ニューワールド百科事典』にも、IDとは何でないかという定義をした方が早いと書かれている――

IDは聖書の年代記について何も主張せず、現実問題として、自然界の知的デザインを導出(推論)するのに、神を信仰する必要はない。一つの理論として、IDはまたデザイナーの正体や性質を特定はしない。従ってそれは、自然から推理して神の存在や属性を導く自然神学と同じものではない。IDは、生物のすべての種が現在の形に創造されたとは主張しない。またそれは、宇宙の歴史や生物の歴史について、完全な物語(説明)を提供するとも主張しない。

 IDとはこれだけ謙虚な理論であって、これを読んで拍子抜けをする人があるかもしれない。それは形而上学的な問題に対して開かれてはいるが、最初から大問題を論ずるという姿勢をもたないのである。だからこの謙虚さは消極的ということではない。これが宇宙解釈の正しい立場であり、やがてすべての問題の解決に至るという自信を、一方では持っている。

IDは科学のスターター

 ID the FutureというID関連のニュースやインタビューを音声で流すインターネット・サイトがあって、ここにMichael Egnorという神経外科教授の面白い談話が載っているので紹介しておきたい。
 そもそもエグナー教授はIDのことは何も知らなかった。しかし今彼は、IDとはダーウィニストの言いふらすscience stopperであるどころか science starterだという確信をもっている。彼の研究対象は、人間の脳がどうして自分自身を保護することができるかという問題で、大量 の血流が脳に押し寄せるにも関わらず、この上なく繊細な脳がその圧力にどうして耐えられるのか謎なのだという。彼は生理学、生物学、医学などの文献を読んでみたが、これを解明する手掛かりは得られなかった。ところがあるとき工学関係の文献を読んだときに、初めてヒントを得たという。それはある繊細なバイブレーターを激しいショックから護るには、どう設計したらよいかについての論文だった。要するに「デザイン」という観点から脳を観察したときに、謎が解けてきたということである。彼は、分野は何であれ生命体を扱う研究者は、「デザイン」という観点を抜きにして、どれだけ理解できるかやってみたらよいと挑戦する。そしてこれは、ID関係の論文を読むことによって、大いに確信を得るに至った、という意味のことをエグナー氏は語っている。
 これは素人から見ても、むしろ当たり前のことのように思えるが、生命研究を支配するダーウィニズムというものに呪縛されていると、見えてこないものがあるということだろう。またかりに見えてきても、それを論文には書けないのだろう。だとすると、IDに対するscience stopperという汚名は、そのままダーウィニズムにお返ししなければならなくなる。
 更にもう一つ、IDが日本人に受け入れ易いと考えてよい理由がある。それは「有り難い」という言葉で、これは誰も意識して使いはしないが、「生じにくい」「存在しにくい」という意味であって、確率的にありえない(有り難い)人間原理的諸条件を指しているように取れる。人間に生まれてくることがいかに難しいかを、「人身受けがたし、今すでにこれを受く。仏法(宇宙の道理)聞きがたし、今すでにこれを聞く」と我々の先祖は表現した。しかしこれについては前に述べた。

『世界思想』No.391(2008年7月号)

人間原理の探求INDES前の論文次の論文


創造デザイン学会