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階層秩序への信仰
―ジョージ・ギルダーへのインタビュー―

By: Ruthie Blum
The Jerusalem Post
June 20,2007


ジョージ・ギルダー(George Gilder)は米国で30年以上にわたって有名な人物である。いや、彼が頭角を現し、生涯をかけて研究と執筆を捧げてきた時代の政治的・文化的状況を考えれば、“悪名高い”というのがもっと正確な形容詞だろう。

何と言っても、1970年代の米国では『性の自殺』(Sexual Suicide)、『裸の遊牧民』(Naked Nomads)、『人間と結婚』(Men and Marriage)のような反フェミニズム書を出版して無傷でいることはできなかったし、福祉とケインズ経済学に逆らったりすれば、個人の責任や創造性の哲学をあまり好まないリベラリストたちの怒りを買うのは当然であった。ギルダーのベストセラー、『富と貧困』(Wealth and Poverty)(1981年)は、まさにそれをやってのけたのだった。

何十冊もの著書、何百本もの記事、影響力あるニューズレターを書き、後にシンクタンク(シアトルを拠点とするディスカバリー・インスティテュート)をブルース・チャップマンと共同で創設したこの68歳になる現役のマイクロチップ専門家は、現在、これまで以上に人々を驚かせている。ダーウィン進化論に反対する技術・科学者とくれば、それも当然だろう。

ギルダーの長く多様な経歴には、ハーバード大学(彼の母校)ケネディー政治研究所研究員、ネルソン・ロックフェラーとリチャード・ニクソンのスピーチライター、ロナルド・レーガン大統領からのホワイトハウス優秀起業家賞受賞などがあるが、彼がこれまでに考察したものすべてが、同じ「トップダウン」型の思考法を指し示している、と彼は言っている。

「宇宙にはヒエラルキーがある」とギルダーは言う。その激しさは、絶えず過熱状態の精神に追いつこうと走り回っている人物のようだ。「そしてヒエラルキーはある頂点を指し示す。その頂点は霧に覆われたままだが、そのことは、霧の背後にある、信仰を通 じて崇拝しうる神聖な存在の可能性を排除することにはならない。」

教会に通い、マサチューセッツ出身の四人の子供の父親であり、「フォーブス」の寄稿編集者、「エコノミスト」、「アメリカン・スペクテーター」、「ハーバード・ビジネス・レビュー」、「ウォール・ストリート・ジャーナル」の常連執筆者であるギルダーが、「インテリジェント・デザイン」運動を支持することとなった背景には、上述のような彼の思想があった。

「エルサレム・ポスト」(The Jerusalem Post)との1時間におよぶインタビューの中で、ギルダーは、彼の科学的推論、政治的立場、および宗教的信仰がいかに相互に一貫しているか、さらには、それらがいかに人生に意味を見出し、人生を意味あるものとする方向へ収束するかを明らかにしている。

あなたは進化論に疑問を抱く科学者ですが、それについて説明してください。

――ダーウィニストは本質的に、人間の脳が宇宙におけるすべての知性だと考えています。私はそのような主張はあり得ないと断言します。進化論はさまざまな限定を設けた上の話であって、私たちが生きている世界と宇宙についてほとんど説明していません。


私は経済学からこの結論に到達しました。ノーベル賞候補者のポール・ローマー(Paul Romer)のように最も挑戦的な自由市場論者でさえ、企業家を化学元素を再構築する存在とみなしています。彼の偉大な発見は、企業家が途方もない自由度を持っていることを示すものでした。なぜなら非常に多くの化学元素があり、それらを化合する非常に多くの方法があるからです。つまり、根源的存在は物質であり、企業家はさまざまな方法で物質を再構築することができるのです。しかし、オーストリアの経済学者たちを凌ぎ、人間行動の真の専門家と考えられているローマーでさえ、目新しさやイノベーション、アイディアによる発明をまったく認めていません。彼らは企業家を“機会発掘者”とみなしているのです。企業家は外の物質世界を眺め、鞘取り売買によって価格差の帳尻を合わせます。これはまさにマルクス主義と弁証法的唯物論の残滓なのです。ダーウィンの唯物主義は、創造性やアイディアや精神に対する盲目を正当化するために、あらゆる社会理論家が用いる類いのハードサイエンスなのでしょう。その盲目は、20世紀を悩ませたマルクスや他の唯物論者の理論の余波の中で、すべての知的世界を覆っています。

あなたは唯物論者が「盲目」だと指摘していますが、「見える」とはどういうことでしょうか?物質とは独立の知的存在を認めることですか? 例えば、それは神ですか?

――神は信仰を必要とし、科学の問題ではありません。インテリジェント・デザインの科学は神の可能性を包摂し、その思想のベクトルを見れば、大まかに神を指し示すとも言えるものです。しかし神を定義したり、特定したり、証明したりはしません。ダーウィン主義者は神の不在を証明できると考えていますが、彼らが間違いなく知っているのは――優れた物理学者でノーベル賞受賞者のスティーブン・ワインバーグが言うように――地球と生命があり得ないほど低い確率の存在だということです。そこでワインバーグはそれを無限の多重並行宇宙という観念によって説明しました。これは世界の歴史上、もっともばかげた科学的戦略に違いありません(笑)。どんな種類の思想でも、すべての電子がその軌道を進みながら新しい宇宙を発生させると想像するほど愚鈍な思想はありません。しかし彼らは、この世界がどうして信じがたいほど低い確率で存在することができたのかを、そのように説明するのです。

あなたはどのように、この世界が「信じがたいほど低い確率で存在することができた」と説明しますか?

――創造です。私は経済学においても、コンピューター・サイエンスにおいても、創造があると考えています。マイクロチップが個々にどのような機能を果 たしているか、さらにそれがどのような内容を処理しているかをまったく知らなくても、マイクロチップの物理学や化学について知るべきすべてを知ることができます。ネットワーク理論についても同じことが言えます。光ファイバー・ネットワークのすべての電子または原子を知るために、どのような内容が伝達されているかを理解する必要はないのです。


ネットワーク理論には7つの抽象化層があります。またこれら7つの層は、若干異なる形式でコンピューター・システムにも適用されています。両者とも徹底的かつ知的にデザインされていて、それ自体が徹底的にデザイされた精巧かつ極めて複雑な装置を使用しますが、「ソースコード」を知らない限り、誰もそれを理解することはできません。マイクロチップのデザインを統治する理論――カーバー・ミード(Carver Mead)とリン・コンウェイ(Lynn Conway)によって28〜29年前に発明された――は、「階層設計」(hierarchical design)と呼ばれています。階層設計はトップダウン式にデザインされ、もっとも重要な点は、デザインがそれを具現化している物質から独立しているという点です。

それはヒトの生物学についても当てはまると思いますか?

――生物学でもまったく同じモデルを見出すことができます。DNAプログラムの内容はDNAの化学的性質から完全に独立しています。つまり、ヌクレオチドを支える糖リン酸骨格は、その遺伝子が持つプログラムの内容にいかなる影響も及ぼしません。そしてこれはDNAの発見における何気ない一部分ではないのです。事実、フランシス・クリックによって生物学のセントラルドグマ(中心教義)とまで宣言されています。セントラルドグマとは、DNAプログラムはそれらが特定するアミノ酸を通 じてタンパク質に影響を与え、決定さえするが、アミノ酸で構成されるタンパク質はDNAに影響を与えることができないというものです。言い換えれば、言葉は肉体に影響を与えるが、肉体は言葉を規定しないということです。


コンピューター・サイエンス、経済学、ネットワークに見られるこの同一のパターンは、生物学でもほぼ同じ様相で再現されています。

つまり、ヒトの脳を解剖しても、その仕組みについてはすべてを知ることができるが、その器官の持ち主の個性やその人物が生み出した考えについては、何も知ることができないということですね。

――そのとおりです。解剖分析をした後でも、彼について何も分からないのです。

これらのこととダーウィニズム――私たちのほとんどは「適者生存」を思い浮かべますが――はどのように関係していますか?

――ダーウィニズムは唯物論であり、その概念は単なる物的な力につけた名前です。実のところ、ダーウィンは遺伝学を理解していませんでした。彼は実際に遺伝が化学反応――何らかの形で二人の親の化学物質が混ざる――によって起こると想像しました。情報理論は私の分析の大半の実質的基礎をなすものですが、そこでは、化学物質の混合によって情報を伝達することはできません。情報理論の鍵となるルールは、高いエントロピーのメッセージを運ぶには、低いエントロピー――予測可能な担体――が必要だというものです。ところでDNAでさえ、地球上の生命の意味という、より大きな問題を説明することはできないのです。何しろ私たちは、例えば、DNAの非常に多くの割合をチューリップやナメクジと共有しているのです。


「適者生存」――ランダムな変異と自然選択――といったものは、ほとんど何も説明しません。ランダムな変異と自然選択によって説明できるのは、バクテリアが抗生物質に適応または反応する方法です。これは実際に研究して論証することが可能なケースです。それが示しているのは、バクテリアは変化するが進歩はしないということです。そして仮に、バクテリアが変化するとしても、それはある種の抗生物質の効果 を無効にするような変化です。そして自然選択のルールに従って繁殖し、そのような変化を持つバクテリアができるのです。しかしそのバクテリアは何らかのより複雑な多細胞生物には進化しません。この現象の限定された性質がよりよく理解されるようになったため、あらゆる種類の推論が出てきて、そのプロセスに完全に欠如している知性を、幾らかでも取り戻そうとしているのです。またしても、それは単なる唯物論であって、非常につまらない理論なのです。

科学のすべては、心はデータから独立しているという仮定に基づいています。しかし心が、判断されようとする現象に流れ込む物質の混合物だとすれば、すべての科学は矛盾し、崩壊します。偉大な物理学者から生物学者に転向したマックス・デルブリュック(Max Delbruck)の言葉を引用したいと思います。彼は、「物質のみで脳を造ろうとする神経科学者たちの試みは、自分の髪を引っ張って沼から脱出しようとしたほら吹き男爵ミュンヒハウゼンに、とてもよく似ている」と言いました。

あなたは、神は信仰を必要とし、科学ではないと言いました。もしそうなら、人間という生物を魂から切り離された存在とみる科学者をどう考えますか?

――『類似』(Analogy)という私の次著の中で、私はアルバート・アインシュタインを起点として始まったことは、科学者がエンジニアであることをやめ、神学者になり始めたことだと論じています。科学者たちは、実験を行い、仮説を検証し、実証可能な現象に自らの提案を制限する、仮説検証装置の主人であることをやめ、数学を実体化させるようになったのです。例えば「多重並行宇宙」という観念は、単一の電子の軌道を模するための非常に優れた道具である電子軌道モデル――リチャード・ファインマン(Richard Feynman)が発明した――を実体化したものに過ぎません。すべての電子軌道が現実に存在し、それぞれが独自の宇宙を発生させて、無数の宇宙を造り上げてゆくという仮説は、単なる妄想的な唯物論です。それは私たちが住む世界と私たちの心の、途方もない複雑性と特殊性が示唆する内容と向き合うのを避けようとする、破れかぶれの戦術なのです。意識を純粋に物質的な現象に還元しようとする努力は完全に失敗しました。しかしそれでも、その試みは終わっていないのです。言い換えれば、私たちを人間たらしめ、科学を可能ならしめ、理論家を存立させる最も肝要なものを、唯物論者は否定しているのです。

あなたは「科学者が神学者になった」と言いました。しかし本当は、彼らが偶像崇拝者になったと言っているように聞こえますが。

――ええ、それも別様の表現でしょう。彼らは数学を偶像に仕立てたのです。

あなたは、科学者が仮説を検証するための装置の主人であることをやめた、とも言いました。それは科学が進歩するより、むしろ後退しているとほのめかしているのですか?

――エンジニアリング科学においては、驚くべき進歩や成果 がみられます。しかし理論科学者たちは、技術者の稼いだ高い威信を食い物にしているのです。シリコンバレーで、多くの点で偉大な技術者と評されるカーバー・ミードは、今世紀の初頭から理論科学は暗黒時代に入ったと言っています。

あなたはコンピューター・サイエンスのソースコードに言及しました。実際それはどのようなものですか?

――ソースコードは、理解可能な言語によって、理解不可能なバイナリー(二進法)記号の配列がどんな機能をもつのかを教えてくれるのです。

創世記を寓意物語と考えれば、「善悪を知る木」はソースコードですか?

――はい。善悪を知る木は特に高尚なソースコード、我々の手の届かない神のソースコードかもしれません。その名を口にすることもできない神――これは、完全な知識は神性の侵害を意味する、そして人間はそのような知識を受け止める能力がないという主張です。

あるいはそれを求めたとき、その罰が死という運命なのかもしれません。コンピューターが人格を持つことに成功すれば、それはもはやコンピューターではなくなるでしょう。

――はい。ですがもちろん、そのようなコンピューターを描いたSF小説は無数にあります。多くの人々が、コンピューターの能力は基本的に18カ月で倍になるとする「ムーアの法則」の延長線上に、そのようなコンピューターが開発されると予想しています。レイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)の『ポスト・ヒューマン誕生』(The Singularity Is Near)は、人間の精神はとりわけ複雑な回路で、いくつかのフィードバックの輪を何度も通 過して意識を発生させているに過ぎないとの論理に立っています。私は、どんなに多くのトランジスタをコンピューターに埋め込んでも、それが意識を持つことはないと信じています。そのコンピューターは、一人のプログラマーまたは所有者に操作される機械のままでしょう。

意識が人間と他の生命体の差なのでしょうか? 犬は意識を持っていますね。

――我々が持つ豊かな意識は犬の意識をはるかに上回っていて、質的な違いがあります。今日、犬と人間、イルカと人間、あるいはチンパンジーと人間の区別 を、曖昧にする傾向があります。しかし、人間は基本的に動物で、意識、知性、抽象、意志、向上心、意図などは単なる付帯現象に過ぎないと決め込まない限り、そこにはそれほど密接なつながりはないのです。

つまり、人間と動物の差は程度にあるのではなく、本質にあるということですね。

――そうです。イルカとチンパンジーは、その発達の度合いは人間より若干または相当程度低いものの、私たちが持つすべての能力を持っていると決め込んでいるのです。

このディスカッションの中で、あなたはインテリジェント・デザインが神を意味するとは断言していませんね。

――私は、インテリジェント・デザインが神の可能性を認めると言ったのです。インテリジェント・デザインは神を特定したり、規定したり、定義したり、あるいは箱に詰めてしまったりはしません。しかし宇宙にヒエラルキーがあることを指し示しているのです。そしてヒエラルキーはある頂点を指し示します。その頂点は霧に覆われていますが、そのことが、信仰を通 じて崇拝しうる神聖な存在が霧の背後にいる可能性を排除するわけではありません。ヒエラルキー自体が、より高いレベルの本性としての、意識、複雑性、知性を熱望し目指すように、私たちを方向付けるのであって、私たちが自分の動物性を追い求めて、無意味と退廃の穴に陥るようにしているのではありません。

あなたが神の可能性を排除しないのは、我々の本質に階層構造を認めているからです。それでもあなたは、霧に覆われた頂点に神がいるとも断言しませんね。

――それについて話をすることもできますが、私はそれが科学だとは言うつもりはありません。それは信仰、想像力、向上心に関わる事柄であり、善の感覚の問題です。神への信仰は本質的に善が勝利するという信念であり、20世紀の文学や芸術のメッセージの大半がそうであったように、無秩序や無意味、悪が勝利するという信念ではありません。

事態はもっと複雑なのではありませんか? 現代の作家や芸術家は、自分たちは人類のより大きな幸福を志向していると反論するでしょう。

――彼らの言う大きな幸福とは、快楽です。つまり快楽の追求が快楽をもたらすから、それは善だと言う。快楽は本能的欲望の赴くままに直接求めるものではなく、善の追及に付随する現象であると私は信じています。

しかし本能的欲望を満たせば快楽が得られるのも事実です。私たちの脳――それが物質の発現であれヒエラルキーの発現であれ――は、私たちに空腹感や性欲の喚起を知らせ、私たちはそれを満たさずにはいられません。

――私たちが食べるのは健康を保ち、栄養を得るためです。そしてその営みの中で快楽を経験するのです。しかし暴飲暴食すると、快楽を得るのとは反対に病気になります。セックスに関しても、より高い目的――愛、向上心、繁殖、その他の重要な人格的動機――があるべきです。

今日、世界で数多くの人々が、人間より高い力を崇拝し、高い向上心を持っていますが、それを求めながら大量 殺人を犯しています。

――彼らが崇拝しているのは悪魔です。神の名のもとに他人を殺したり首を斬ったりする人々は、サタンを追い求めているのです。

穏やかに言って、あなたのこれまでの仕事は穏健折衷的なものでした。男性と女性、供給サイドの経済学、マイクロチップ、インテリジェント・デザインには、どのような共通 点がありますか?

――私は宇宙にヒエラルキーがあり、そのトップに創造があると信じています。それは創造主が存在し、私たちは最高の状態においては、彼の似姿として行動するという考え方です。このトップダウン・モデルこそ、私のすべての仕事に共通 するものなのです。フェミニズムの基本的欠陥と失敗は、それが子孫をつくる目的もなしに、純粋に動物的な情念に傾斜したことだと思います。経済学においては、需要を産んだのは供給だと私は信じています。コンピューターと電気通 信を手がけ、そして後に生物学に関して考察した結果、同じことが言えるのです。このように、過去に考察したすべて――セクシュアリティ、経済学、情報理論、コンピューター・サイエンス、ネットワーク理論――において同一の構造を認識したことによって、私はインテリジェント・デザイン運動に参加するようになったのです。


私は宗教的な人間です。同じように、ダーウィン主義者も宗教的な人々です。彼らは自分たちを解放して思い通 りに快楽を追及させてくれる、唯物主義という反宗教を信じているのです。それが彼らの最高の存在目的です。そして彼らはランダムで、虚無的な宇宙を信じています。その宇宙では――もし彼らが実存主義者なら――時として勇ましい一人の人間が現れて、無目的の空疎を超えて何らかの目的を主張することもある、と考えるかもしれません。しかし概して、私たちは皆、腐食し崩壊する運命なのだと考えています。それがまさに彼らの哲学であり、それによって知の世紀全体が堕落したのです。私たちは21世紀において、それを乗り超えようとしているのだと思います。


人生は意味に満ちたものですが、その意味は生理学からではなく、想像力、向上心、崇拝から来るものです。それらを信じることは、私の生物学を理解する能力にとって、決定的に重要なことでした。

もし地球上の生命が、本当に神聖なヒエラルキーによって統治されているならば、科学者が唯物論的な考え方を信奉することは何が問題なのですか? インテリジェント・デザインはあなたの言う「虚無的」な勢力よりも強いのではありませんか?

――人間は自由意志を持っています。逆説的ですが、これは私たちが思いのままに、あっさりと争いから手を引いて、善の勝利を期待することができないことを意味します。私たちはその山を登るという重荷を負っているのです。この運命と自由意志の組み合わせは、人間の条件における無上の逆説であり、無上の栄誉なのです。善は必ずしも一人の人間の生涯において勝利しません。一人の人間の生涯を超越することで、善はその効力を発揮するのです。そのために自らを捧げることによって、あなたは自分の人生とその限界を凌駕するより高次の秩序に参加するのです。

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