NO.72



見えてきた見えざる拘束
―科学の名において真理を抑圧する文化―

真理が通じない世界

 この連載を始めて六年の間にさまざまなことが起こり、歴史が大きく動いて、今まで見えなかった多くのことが見えるようになった。まず、我々の唯物論的文化体制を支えている、必ずしも意識にのぼることのないダーウィン進化論というものが実は何であったかということ、それがいかに科学の名において真理と自由を抑圧する装置であったかということ、いかに人は一般 に「信者」であって、たとえ間違いを指摘されても一旦吹き込まれた信仰を固守しようとするかということ、いかに学者の世界というものが一般 の予想と信頼を大きく裏切って、ヤクザの世界に近いものであるかということ、等々である。
 「あの連中はイギリスからきたフーリガンですか?」「いいえ、ダーウィニストですよ」――という軽妙な小話がジョナサン・ウエルズの本に出てくるが、これは皮肉というより写 実である。
 このウエルズ氏の属するインテリジェント・デザイン推進団体の「ディスカヴァリー研究所」では、このような現状に対処する一つの便法として、「科学的立場からのダーウィン進化論への異議」と称する短い共同声明文を立案し、署名者を募っている。これは、論理立てて説明しても受け付けない頑迷な科学者共同体に向かって、科学者ならせめてこれだけは認めるべきだという、合意のボトムラインを提示したものである。
 この声明文は次のような簡潔な文言からなる――「われわれは、ランダムな変異と自然選択によって、生命の複雑さを説明することができるという主張を疑問とする。ダーウィン理論の証拠を注意深く吟味してみることが要求される。」
 現在、署名者(学位を持つ科学者に限る)は、数名の日本人を含めて七百人を超えているようである。(www.dissentfromdarwin.orgを見よ)。初めからダーウィン進化論など信じない人々は、何をいまさらと驚くような内容だが、このような声明文に合意の署名を求めなければならないような事情が、厳然として存在するという事実の方が重要である。このような手段に訴えなければならないのは、「公共テレビの番組や、教育方針の文言や、科学教科書」がこぞって次のような虚偽の主張をしているからだという――「1.知られているすべての証拠が、生物の複雑性についてのダーウィンの説明を裏書している。2.世界のほとんどすべての科学者がダーウィニズムを真理と考えている。」
 FAQ(よくある質問)の「このような声明がなぜ必要なのですか?」という質問に対しては、「近年、一部のダーウィン理論支持者が、ネオダーウィニズムを科学的に批判する者の存在を否定し、ネオダーウィニズムを是としまた非とする科学的証拠に関する公開討論をやめさせようと、結託して運動している」からで、そこから生ずる「一般 の思い込みを是正するため」だと答えている。
 また「この声明文に署名することによって、署名者は、自己組織化とか、構造主義とか、インテリジェント・デザインといった代替理論を支持することになるのではありませんか?」という質問には、はっきり「いいえ、そういうことはありません」と答え、この文言以上をも以下をも意味するものではないと言っている。更に「これに署名することは政治的な意味をもちませんか?」という質問には、「いいえ」と明確に答えている。それほどに気を使わなければならないということは、いかに体制派ヤクザ集団が恐いかを示すものである。
 これほどまでにボトムラインを下げても――それはあたかも、せめて地動説には合意してくれと言っているようなものである――なお恐くて署名を躊躇する科学者は大勢いるだろうと推測される。これが我々の唯物論科学体制の正体である。それは旧ソ連体制や中世の教会権力体制と何の変わりもない。

唯物論信仰の弊害

 こうした最低限の合意を確認したくなる場面 は、我々の社会には実はいくらでもある。
たとえば性教育に関して、「われわれは性教育が、性の肉体的(物的)側面 だけに限られるべきだという主張を疑問とする。性行動の〈自己決定〉という原理も批判されなければならない」といった声明への合意が必要ではないのか。また「命の大切さを教えるさい、宗教理念に踏み込んではならないという主張は受け入れられない」といった共同声明もぜひ必要ではないのか。
 唯物論・無神論という社会的信仰が、いかに我々の自由な思考や行動を麻痺させているかに気づくべきなのである。人間の性は、物的側面 のほかに神秘的な側面をもつものと考えなければならない。これを科学的に教えるなどということは明確に間違いである。ところが我々のダーウィン唯物論体制の中では、「心の教育」といっても、それは取って付けたもののように扱われる。人間の性は、肉体性から神秘性へと深まっていくものとして捉えなければならない。『意味に満ちた宇宙』の著者は、宇宙自然界を底知れぬ 叡智として、敬意をもって接するのが真理に至る道だと言う。叡智は神秘といっても同じである。その宇宙から生まれた我々人間も、無限に神秘的な存在でなければならない。だからこそ、自己に対しても他者に対しても敬意をもって接することが要求される。性教育の基本も、倫理道徳の根拠もそこからくるのでなければならない。
 宇宙自然界を科学の名において、ダーウィニズムという「浅知恵」で片付けようとすれば、人間の性も人間そのものも同じ浅知恵の餌食になる。何度でも言うが、ダーウィニズムが問題である理由は、それが我々の魂を売るか売らないか、人間として死ぬ か生きるかの問題に直結するからである。こういった主張に耳を貸さないどころか、その口をふさごうとさえするのは、まさに万死に値するではないか。
 しかし「せめて地球が丸いことぐらいは認めてくれ、話が進まないから」と言っても、「フラットアース信者」といわれる人々はこれを認めないように、信仰的ダーウィニストはこの声明文を認めないだろう。とはいえ、ここに簡潔に表現された限りでのダーウィニズムの主張は、常識から考えても明らかにおかしいのだから、ダーウィニストはいろんな付帯条件をつけて(あるいは言い訳やごまかしによって)、常識との妥協を図ろうとするだろう。
 Thomas Woodwardは『ダーウィンの反撃』(Darwin Strikes Back, 2006)という本で、この論争が最後にはどういう形に落ち着くかという予測をしているが、今それを紹介することはできない。ただ少なくとも、ドーキンズ流のウルトラ・ダーウィニズムは“淘汰”されるだろう。現実はおそらく、曖昧な妥協から始まり(すでに「ランダム」を否定するケースがあるらしい)、巧妙なごまかしを重ねて、最後は何事もなかったかのように軟着陸で終わるのではなかろうか。幸い「進化」という言葉も「自然選択」という言葉も曖昧なために、進化論者にとっては好都合である。「進化」という言葉は廃語にはできない、むしろ今後ますます重要になっていく概念である。「自然選択」も、その事実はある範囲内で存在するのであり、その概念にも、少しずつ意志や意図や目的のニュアンスをひそかに“混入”させていくことは可能であろう。
  それはそれでよい。軟着陸はめでたいことである。我々は学者の誰々が恥をかき、誰々が得意になったかなどということに興味はない。問題はただ一つ、学問の世界と世間一般 の唯物論体質がどう改善されるかということである。ダーウィン陣営が現在示している猛々しさは痛々しさでもある。これは皮肉で言っているのではない。『意味に満ちた宇宙』が示しているように、歴史的に見れば、錬金術もフロギストン説もそれぞれ重大な使命を果 したのであって、これを嘲笑するのは大きな間違いである。錬金術が存在したおかげで近代化学が生まれ、フロギストン(燃素)説を徹底的に突き詰めたところから酸素が発見されたのである。
 我々の唯物論科学についても同じことが言えるだろう。「前生命スープ」から生命が「化学進化」によって発生するか否かの繰り返された実験は、決して無駄 にはならないはずである。根本的な前提の間違いの可能性を、権威をもって示唆できるのは、徹底的に実験を繰り返し、行き詰まり、悩み考え抜いた科学者であって、哲学的立場で発言する(私のような)者ではないからである。

現代の業病か

 しかし、最も尊敬され影響力ある科学者の一人スティーヴン・ワインバーグが次のように発言するとき、哲学的立場からひと言なしにはすまされない。『意味に満ちた宇宙』もワインバーグの言葉をめぐって展開されているが、これも同趣旨の、しかし別 の新しい発言――Without Godと題された2008年のハーヴァード大学講演――である。

 科学の世界観は少し寒くなるようなものです。自然の中に置かれた我々の生命に何の意味も見出せず、我々の道徳原理のいかなる客観的根拠も、アナクシマンドロスやプラトンからエマソンに至る、道徳法則と我々の考えたものと自然法則の間の、いかなる調和関係もそこには見出すことができません。我々が最も大切にする感情である妻や夫や子供に対する愛すら、我々の脳の中の化学的プロセスによって可能になるのであり、その過程自身、数百万年にわたって自然選択が偶然の変異に対して働きかけた結果 生じたものです。しかしそれでも、我々はニヒリズムに陥ったり感情を押し殺すべきではないのです。ぎりぎりのところで我々は、一方は希望的観測、もう一方は絶望の、きわどいナイフの刃の上に生きているのです。

  この物理学の大物は、どうしてこのような「寒くなるような」哲学を、あたかも自分の研究の結果 出てきた結論であるかのように語るのであろうか? いったい科学が、いつ、どこで、神の不在や人生の無意味を証明したのか聞いてみたい。「科学の世界観は…」でなく「科学が唯物論(神の不在と人生の無意味)を前提とする限り…」と言うべきなのである。この人は唯物論というものの枠の外に一歩も出たことがなく、自分で作った穴に落ち込んでもがいている――そして多分それを楽しんでいる――のである。この文面 から判断する限り、この人は明らかに深くものを考えたことのない人である。物理学の業績とそれは全く関係がないようである。わが国でもマスコミなどが、ノーベル賞受賞者をあたかも人生の達人であるかのように持ち上げることがあるが、それが全く見当違いであることがわかるだろう。今手元にあるTom Kandoという人の論文は、心と脳は違うという中学生でも理解できることが、一流の脳科学者たちには理解できていないと言っているが、こうした学者を生み出す唯物論信仰は、まさに我々の時代の業病というべきであろう。

手軽で浅薄な宗教観

  もう一つワインバーグの同じ論説から「寒くなるような」宗教批判の一節を引用する。ここにはID批判派やダーウィニズム陣営に共通 する、きわめて手軽な宗教観が語られている。

[宗教と科学の]対立の根源は、もともと宗教というものが、雷、地震、病気といった何らかの神的存在の介入を要求するように思われる神秘的な現象の観察から、その力の多くを得ているという事実に発する。あらゆる川にニンフがおり、あらゆる樹木に木の精がいる。しかし時がたつにつれて、ますます多くのこうした神秘が純粋に自然的な過程として説明されるようになった。もちろん自然界についてあれやこれやを説明したからといって、宗教的信仰を排除することはできない。しかしもし人々が、神秘的現象の全体について他に説明が不可能に思えるために神を信じ、それが年月を経て、これらの神秘が次々に自然主義的に解決していったのだとすれば、信仰はある程度まで弱まっていくものと期待できる。

  これは宗教を根絶不可能な天然痘にたとえたドーキンズと同じ思想で、宗教の力を弱めればその分、科学が勢力をのばすという考え方である。この人たちの言うことがあまりにも判で押したように似ているから、これは自分で考えたのでなく、誰かの言っていることを口真似したのかと思えるほどである。本当の識者は宗教についてこんなことは言わない。しかも科学思想を含む現在の思想界は、こういう単純な思考を無効とするに十分なほど成熟している。ワインバーグは宗教は迷信だと言いたいわけだが、唯物還元主義こそ迷信だと言わねばならない。現にmaterialist superstitionという言い方を最近はよく目にする。
 私の連続エッセイも、これまですべてmaterialist superstitionというテーマをめぐるものであった。六年間連続七二回というのはいささか常識にはずれるだろうと判断して、ひとまずここで打ち切らせていただくことにした。もちろんこの記事の性質上、書くことがなくなったわけではない。いずれ著書の形で、これまでのまとめとその続きを発表したいと考えている。長い間辛抱強くお付き合い下さった読者の方々には、心からお礼を申し上げたい。

『世界思想』No.396(2008年12月号)

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