NO.71



科学者の傲慢と謙虚(3)
―「傲慢」と「浅はか」は一つのもの―

浅はかな進化の解釈

 「金持ちと学者は救いがたい」と、ある宗教の教祖は言った。自分ほど偉い者はないと思っている人間に宗教の真理を説くことはできない、という意味である。該当する学者はこれを聞いてフンと鼻で笑って言うだろう、「お前の説く真理など知ったことか」と。しかしそこで畳みかけて、「私が言うのは、あなたには真理への道が閉ざされているという意味だ。そして私が真理と言うとき、宗教的真理と科学的真理を一つのものと考えて言っている。つまり浅知恵だということ、学者として疑問があるということだ」と言ったとしたらどうだろう。彼は烈火のごとく怒るだろうか、それともハタと思い当たって考え込むだろうか? 
 これは今、学者、特に科学者の世界で起こっていることの戯画的要約である。烈火のごとく怒っているのが、天文学者ギエルモ・ゴンザレスを追い出したアイオワ州立大学当局を始め、映画『追放』に出演した狂信的ダーウィニストたち、すなわち学界の主流派である。一方、ハタと思い当たって考え込んでいる(しかし身の安全のために沈黙している)反主流科学者も、おそらく相当数いるはずである。科学のためには真理を追放しなければならないという摩訶不思議なことが起こっているのが、現在の(少なくともアメリカの)科学と教育の世界である。
 T・S・エリオットの長詩『四つの四重奏』に

 (散文訳)人は年を取るにつれて、過去は別 のパターンをもつように見え、単なる連続ではなく発展でさえなくなるように思える。この後者の考えは、進化についての浅はかな考え方によって助長された半ば誤謬であり、これが民衆の心の中では過去を否認する手段ともなっている。

という詩行があるが、この「進化についての浅はかな考え方」(superficial notions of evolution) とは明らかにダーウィン進化論のことである。「浅はか(浅薄、表面 的)」とはなんと適切な形容辞ではあるまいか。ダーウィン進化論は、「間違い」と言うより「浅はか」と言う方が当たっている。生命の歴史の表面 だけを見ていれば、ダーウィン進化論は正しいのかもしれないからである。しかし進化は「単なる連続でも発展でさえなく」、「時間と無時間が切り結ぶ点」(the point of intersection of the timeless with time)として考えざるをえないのである。これを詩人の妄想だとは、現時点では誰も言えないだろう。
 強調すべきは、この「浅はか」が「傲慢」「侮り」と一体だということである。調べれば調べるほど奥深い叡智(あるいは神秘)のしるしが明らかになってくるこの宇宙自然界に対して、「こんなものは、ランダムな変異と自然選択という物的プロセスの組み合わせですべて説明できるのだ」と主張して憚らないのは、浅はかプラス傲慢の極致と言うべきだろう。

傲慢な科学は科学でない

 研究者の態度が傲慢だろうと謙虚だろうと、その研究成果 に影響はないだろう、と言う人があるかもしれない。だがそれは大きな間違いである。傲慢な研究態度とは最初から対象を、意に従わせよう、手なずけようとするものである。そこでは研究対象よりむしろ研究者の力量 に重点が置かれる。それは本質的に研究でなく、研究対象を利用した頭のよさの誇示にすぎない。これに対して謙虚な研究態度とは、まず対象に敬意を払うことから始まり、対象に身を寄り添わせ、自分をそこに同化させることによって、その秘密をいくらかでも掴み取ろうとする。
 『意味に満ちた宇宙』の著者は、最も自然界に近い奥深い叡智の作品として、シェークスピア作品を選んで手本を示している。彼らの分析は、対象への愛と敬意に満ちており、そこに同化することによって、客観的で、研究者の介入を感じさせないものになっている。その対極にあるのが、典型として言及されているフロイトのハムレット論である。これはフロイトが自説の「エディプス・コンプレックス」というものをハムレットに押し付けようとしたもので、それによってこの劇の何かが解明されるというより、フロイトが解明されるのである。
 フロイトには、そういうことをやってみる特権があるのかもしれない。しかし一般 のシェークスピア研究もその多くはそういう傾向をもっている。〇〇主義という方法によって対象を分析することによって、対象を研究したことにする。これが巧妙であれば賛辞を送らざるを得ない。しかしその賛辞は、シェークスピアという叡智の秘密が解明されたことに対してでなく、研究者の狡知に対してである。頭のよさでシェークスピアを片付けてみても何の喜びも湧かない。しかし、少なくとも学界で受け入れられるのはそういう研究であって、対象への愛と敬意に満ちた研究ではない。文系も理系も学問はこうした同じ病に侵されており、その根は、生命的共感というものを否定する唯物還元主義にある、とこの本の著者は指摘する。 
 『意味に満ちた宇宙』の基本的スタンスは、「自然界のデザインを解き明かせるようにデザインされた我々が、そのデザインされた自然界を、デザインに従って(ガイドされて)少しずつ解き明かしていく」というものである。それは宇宙のすべてが有機的につながっているという見方であるから、我々の能力もデザインされたもの、与えられたものであって、自分の頭のよさを誇る理由は何一つないことになる。これが本来の科学を成立させているものであって、異物としてむしろ敵対する外界を、我々が自分で獲得したと錯覚する頭のよさでねじ伏せるような科学は、科学ではないのである。
宇宙のすべてが単独の作者のデザインによるものと理解しなければ、なぜ宇宙の諸条件が最初から人間と人間の環境を作り出すように微調整され、人間の頭脳がこの宇宙を理解できるようになっているかを理解できない。すなわち、アインシュタインの「この宇宙で最も理解できないことはそれが理解できることだ」という逆説の謎を解明することができない。

数学は宇宙理解の道具

 数学の能力は(言語能力も含めて)、宇宙自然界を解明するのになくてはならない強力な道具だが、これは我々が正しく使うように与えられたものであって、自分で獲得したものではない。これを誤解することによって、「オレの数学能力によって宇宙を手なずけてやる」というような傲慢さに我々は走り易いことを、この本は警告している。数学はあくまで解明の道具であって、それ自体が宇宙の実体ではない。ID支持者のジョージ・ギルダーは、アインシュタイン以後、科学者は数学を「実体化」し、宇宙のすべてを握っている神学者であるかのように自分を考えるようになったと言っている。この傲慢が、ダーウィニズムを宇宙に適用して、神の創造を示唆する人間原理的データを避けるための、「多宇宙仮説」などという「歴史上最も愚かしい科学的戦略の一つ」を作り出したとギルダーは言う。(創造デザイン学会HP「最新情報」2007/6/20参照)
 我々の数学能力はそんなふうに使うためのものではない。物理学者ユージーン・ウィグナーの謙虚な言葉に耳を傾けるべきである――

 自然科学における数学の途方もない有効性は、ほとんど神秘といってもよいものである。…それに対する合理的な説明は不可能である。…数学の言語が物理法則の公式化に適合しているというこの奇跡は、我々が理解することもできず、またそれに値する者でもない驚くべき贈り物である。(『意味に満ちた宇宙』一四〇頁参照)

もう一つ引用したいのは数学者James Keenerの述懐である。この数学者は、自分の同僚たちがおのれの頭のよさを誇り、宗教者を小馬鹿にするのを批判して、こう言っている。

いかなる数学者も自分が聡明であることに何の関係もない。その人は数学的洞察力なしに生まれることも、その聡明さが気づかれることも認められることもない環境に生まれることも、ありえたのである。いかなる数学者も自分の考えを制御できず、洞察や閃きがいつやって来るか、そもそも来るか来ないかをも、決めることはできない。…人生は信じられない神秘だが、合理性も意識も創造性も感情も同じである。これらのすべては、我々自身の努力や手柄に帰すべきものではない。すべては全く同じくらい容易に、与えられも奪われもする。ならば、こういった否定できない現実を前にして、なぜ人は自分がなしたのでないことを自分の手柄にしようとするのだろうか? なぜ我々は、これら偉大な贈り物の施し手がなければならないこと、我々の依存が全面 的なものであることが明らかなのに、その事実を否定しようとするのだろうか? 我々は才能を認めることができるのに、称えるべきは与え手であって、受け手ではないということを認めることができないのである。(Paul M. Anderson ed. Professors Who Believe, 1998)

 こういった考え方がこれまでは宗教的だと考えられ、また現にその通 りだが、しかしこれはむしろ科学的事実であって、特に宗教的と考えるまでもないことが、明らかになりつつあると考えるべきである。

認識は対象との照合

  こうした考え方は認識論の問題にも及ぶ。我々は、デカルト以来培われてきた唯物論的思考癖によって、認識を可能にするものがどちら側にあるのか、主体(人間)の側にあるのか対象の側にあるのか、という問題に悩んできた。簡単に言えば、外界と我々が互いに異物だとしたら、どうして認識が可能なのか、という問題である。『意味に満ちた宇宙』の基本的スタンスは、我々の認識能力も宇宙の秩序の一部であるということ、すなわち宇宙の意味や秩序はそれ自体おいて存在し、我々の能力はそれに呼応するようにデザインされているということである。「叡智の幾何学」の章で示しているように、「ピタゴラスの定理」は人間の現れる前から宇宙のロゴス(理法)として存在し、その美と調和に感応して、これを解き明かす能力が人間に与えられているということ、宇宙自然界の秩序や美や意味を発見するように、仕組まれているということである。哲学者のメルロ=ポンティはこの一体性のことを、「世界と我々は同じ生地で仕立てられている」と言った。
 認識が可能になるのは、対象と呼応するものを人間が最初から(原型として)もっているからだというこの考え方は、この連載で五回にわたって紹介した「統一原理」に共通 するものである。統一原理では、この主体と対象の呼応のことを「照合」(collation)と呼び、これはカントの、主体の思惟形式(カテゴリー)による対象構成的認識論とも、マルクス主義の、外界が意識に反映する「反映論」とも異なる「照合論」だとする。
 偏見のためにこれを読まないで軽蔑する向きもあるであろうから、『統一思想要綱』から該当箇所を引用してみよう。

 またカントは、主観(主体)の形式[思惟形式=カテゴリー]と、対象から来る内容が結合することによって、認識がなされるといったが、統一思想から見れば、主体(人間)も対象(万物)も、内容と形式を共にもっているのである。すなわち主体が備えているのは、カントのいう先天的な形式だけではなくて、内容と形式が統一された先在性の原型(複合原型)であり、また対象から来るのは、混沌とした感覚の多様ではなくて、存在形式によって秩序づけられている感性的内容なのである。
しかも主体(人間)と対象(万物)は相対的な関係にあって、相似性をなしている。したがって、主観が対象を構成することによって認識がなされるのではない。主体のもっている「内容と形式」(原型)が、対象のもっている「内容と形式」と授受作用によって照合され、判断されることによって認識がなされるのである。
  カントは、現象的世界における自然科学的な知識のみを真なる認識であるとして、物自体の世界(叡智界)は認識できないものと規定した。そうすることによって、感性界と叡智界を全く分離してしまった。それは、純粋理性と実践理性の分離を意味し、科学と宗教の分離を意味していた。
統一思想から見るとき、物自体は事物の性相であり、それに対して感性的内容は形状である。事物において性相と形状は統一されたものであり、しかも性相は形状を通 じて表現されるから、われわれは形状を通してその事物の性相を知ることができるのである。(第九章 認識論、五九三−九四頁)

 こういった宇宙哲学に重ねてみるならば、唯物還元主義というものがいかに病的な、思考の牢獄であるかが了解されるであろう。

『世界思想』No.395(2008年11月号)

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