NO.65



先鋭化する心の世界の対立
 ―立役者としてのベン・スタインの映画『追放』―

公開前から話題沸騰

 渦中にある者が後世の歴史家の立場には立てない。しかし我々は今、人類史上まれな心の世界の激しい対立、そしてやがて新旧の転換という過程に立ち会っていることは間違いない。世界解釈のパラダイム転換は否応なく、自分自身の解釈の転換をせまるからである。これは予測された歴史的必然であったとはいえ、これほど興奮させる劇的な形を取ってやってくるとは、私は――おそらく誰も――予想しなかった。それは深刻ではあるが、この上なく滑稽な、文字通 り劇の形を取って現れることになった。
 あるID派の科学者が研究を進めるのに、どうしてもある大学の教授と組んでそこの設備を使わなければならない。しかし彼はかなり有名で顔を知られているために、その教授と一緒にいるところを見つけられたら、彼にひどい迷惑をかけてしまう可能性がある。そこで彼は自分の正体を隠すために変装することにした。髪の毛を無理に脱色したために頭皮がひどい水ぶくれになった。トレードマークのひげも剃った。彼はそれを面 白おかしいエッセイに仕立てて、私にも送ってくれた。私はそれを風刺文学の傑作だと言ってやった。
 この小さなエピソードは、今アメリカで起こっていることを象徴する。科学者は秘密警察の目を欺いて、命がけのスリルを味わいながら研究しなければならない。しかしそうしたくても、それが叶わない研究者の方が圧倒的に多いのである。
 この例は今のところ、悲劇には至っていないようである。しかしこの連載で折々に紹介してきたように、新しいパラダイムに共鳴する研究者が、その立場を表明しただけで、(ネオ)ダーウィニズムを疑うような言動をしただけで、大学を首になったり、テニュア(終身在職権)を拒否されたり、危険人物のブラックリストに載せられたりして、学界から追放されるというケースが今アメリカでは無数に起こっているのである。
 ベン・スタインというアメリカではよく知られた評論家、テレビ番組の司会者、かつての二人の大統領のスピーチ・ライターで、かつ喜劇俳優でもあるという異色の人物が、これを聞いて文字通 り憤然として立ち上がった。そして彼自身が出演し、この弾圧と迫害の実態を描いたドキュメンタリー映画Expelled: No Intelligence Allowed(追放――インテリジェンスは許さない)が製作され、四月十八日に全米の一般 映画館で封切られる。しかし公開前の試写会を通じて、アメリカではすでに話題が沸騰している。詳しくは、www.expelledthemovie.com を開けばtrailer(予告編)をはじめ、いろんな情報が入っていて、英語がわからなくとも、これがどういう映画であるか、およその見当はつくであろう。創造デザイン学会HP www.dcsociety.org にも「最新情報」として、いくつかその関係のニュースが入っているので見ていただきたい。
 この映画には、ダーウィン進化論の一つの帰結としてのナチスの死の収容所も出てきて重苦しいところもあるが、全体としては喜劇仕立てであるらしい。これがまさに現在のIDをめぐる闘争の象徴で、死(学者としての死、心の死、大量 死)の危険と滑稽が同居しているのである。もちろんこれは高級な娯楽映画でもあるが、科学の根幹である自由な問いかけの精神の危機を訴える一大キャンペーンとして作られたものである。この映画は(予告編では)、学生の一人もいない薄暗い教室で、教師としてのベン・スタインが黙々と黒板に何かを書きつけている場面 から始まる。よく見るとDO NOT QUESTION DARWINISM, DO NOT QUESTION AUTHORITYと書いているらしい。実にうまくできていると思う。
 ではその日本語版を日本の映画館で見ることができるだろうか? おそらくできないのではないか。無関心の、つまり危機意識のないわが国では興行的に成り立たないだろう。それどころかわが国では、その存在さえ報道されるかどうか疑わしい。しかし、もしこれを故意に黙殺するようであれば、その分日本が大きく遅れをとることだけは承知しておかねばなるまい。

ドーキンズが優生学支持

 映画を見た人のいくつかの感想では、驚いたのはドーキンズの発言だったという。(間接話法だが)彼は「たしかに生命をデザインした者があるかもしれない、しかしそのデザイナーはほとんど確実に別 の惑星のより高度に進化した存在であって、神ではない、と認めた」らしい。これは誰でも驚くだろう。『盲目の時計職人』以来、自然界にデザインはありえないと言い続け、最近の『神は妄想である』では、自然選択は「デザインの見事なまがい物を作り出した」と言っていたのだから。但し云々の滑稽さには目をつぶるとして、ともかくもデザイナーの存在の可能性を認めたのは、(転向哲学者アントニー・フルーのように)あまりにも圧倒的な自然界の本物のデザインに、ついに抗しきれなくなったということであろう。ドーキンズの影響力を考えれば、この発言は小さいが、人類にとっては大きな一歩と言うべきである。
 昨今、我々は何が起こっても驚かなくなったが、もう一つ驚くべきことは、IDを教室に持ち込むことは宗教教育にあたるといって訴訟まで起こしたダーウィニストが、逆に、ダーウィン進化論を受け入れる宗教者や宗教教団を生物授業で利用する運動を始めたことである。これはユージェニー・スコットの率いるNCSE(全米科学教育センター)やNAS(米国科学アカデミー)が推進しているという。即刻飛んでくるべきACLU(米国自由民権連合)が知らぬ 顔をしているのは言うまでもない。この話を講演会でしていたジョン・ウエスト氏が、I am not kidding(冗談を言っているのではありません)と言っていたが(これはネット上で聞ける)、誰もがまさかと思うであろう。
 私は、ドーキンズが無神論ダーウィニストとしての筋を通 そうとするところと正直なところは買うべきだと言ってきたが、その正直さのゆえに、ヒトラーの優生学の是認に近い発言をしているのは注目に値する。これも読者の中には、まさかと思われる方々もあるだろうが、次にその全文を引用しておく。これは二〇〇六年十一月二〇日、スコットランドの新聞「サンデー・ヘラルド」に載ったもので、「優生学も悪くないかもしれない」と題されている。

 一九二〇年代と三〇年代には、政治的な左翼右翼を問わず、科学者たちは「特注の子供」(designer babies)という観念を特に危険なものとは考えなかったであろう――もちろん、そういう言葉は使われなかっただろうが。今日、この観念はあまりにも危険なものとなり、気持ちよく議論の対象にすることはできないようだ。そう変わったきっかけは、おそらくアドルフ・ヒトラーであろう。
 誰もこの怪物と、たとえ一点でも意見が同じだとは思われたくない。ヒトラーの亡霊におびえる科学者の一部は、「本来あるべきもの」(ought)から「現にあるもの」(is)へと心を移し、すぐれた特質を求めて人間を品種改良することの可能性をさえ否定してしまった。しかし、もしミルク増産のために牛を品種改良し、スピードを求めて馬を改良し、牧畜のために犬を改良できるなら、いったいなぜ、数学や音楽や運動能力向上のために、人間を品種改良する(breed)ことができないのか?「そうした能力は一次元的なものではない」と反対するなら、それは牛にも馬にも犬にも等しく言えることであり、そのために品種改良をやめた者はいない。
 私は、ヒトラーの死後六〇年を経た今、音楽的才能のために子供の品種改良をすることと、音楽のレッスンを子供に強制することの間に、どんな道徳的違いがあるのか、少なくとも問うてみるだけの勇気があってよいと思う。あるいは、なぜ、俊足ランナーやハイジャンプ選手を育成することが許されて、彼らを育種(品種改良)することが許されないのか? 私はいくつかの回答を考えることができるし、それらはすべてもっともな理由である。しかし、そうした問いを呈することさえ怖れるのは、そろそろやめにしてもよい時期が来たのではないのか?

知的な悪魔兼道化役

 一九二〇年代、三〇年代といえば、ヘッケルや彼の「一元論連盟」などによって「科学的事実」として宣伝され定着したダーウィン進化論を土台に、ヒトラーからスターリン、毛沢東、ポル・ポトに至る、二十世紀の不適者大量 処分の条件が熟成しつつあった時期である。アメリカなどで大規模に、「異常者」や「精神薄弱者」の強制的断種・不妊処置が行われたのもこの時期である(John West, Darwin Day in America, 2007)。ドーキンズはこの時代へ帰れと言っているようである。ここから起こった二十世紀の悲劇などなかったかのようである。
 彼は優生学の積極面だけをあげて、「何が悪い?」と言っているわけだが、例の巧みなレトリックによって、優生学には必ず暗黒の裏面 があるという事実を、わざとらしく隠している。よい種を優先するということは、悪い種を除くということである。劣った者には断種が強制されるが、優れた者には自由セックスが奨励されるということである。むしろここでドーキンズが本音として言いたいのは「ヒトラーがそんなに悪いか? 彼は原理的には正しかったのだよ」ということであろう。
 ドーキンズは、こういう常識人の道徳感情を逆撫でするようなことを言って人気を博してきた人だから、今さら驚くようなことではないかもしれない。しかし肝心なのは、もしダーウィン進化論が本当に「科学的事実」だとしたら、ドーキンズの言うのが完全に正しいということである。もし人間と動物の間に本質的な区別 がなければ、人間の品種改良は科学的にも道徳的にも合理的で正当なものとなり、その権限を与えられるのは、「自然」によって選ばれた「最適者」である人種あるいは個人ということになる。
 ドーキンズはこの二十世紀の人類の悪夢を、正当なものとして蘇らそうとする。これは恐ろしい思想だが、別 の角度からみればこの上なく滑稽なことで、遺伝子操作によって、アインシュタインの頭脳とイチローの運動神経とモーツアルトの芸術的才能を兼ね備えた子供を作りたいなどと、人類は一度は考えてみたかもしれないが、今では笑い話のタネにしかならない。誰もこんな提案を真面 目に取り上げる者はいない。ドーキンズはおそらく知的な悪魔兼道化役を貫きながら、三島由紀夫のように常に舞台に立つ自分を意識しているのだろう。そして彼の演技と実人生は一つのものになっているのだろう。彼を支えるものは常に、絶大な拍手を送る世界の大観衆である。唯物論というのは一種の精神障害だが、彼はそれを知的に演じているとも言える。

サタン信仰?

  こうなってくれば、もちろんダーウィニスト=体制側にあるのは、学問の自由とやらを持ち込んで邪魔をするIDを、いかにして黙らせ自らの既得権力を維持するかであって、学問とか真理とか科学とかは全く関係がなくなる。かつて私は、この状況を見事になぞったかのような、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の有名な挿話「大審問官」との暗合を指摘したことがある。今この暗合がますますきわだってきた。
 これは無神論者の次兄のイワンが、宗教的な末弟のアリョーシャに語って聞かせる自作の劇のあらましということになっている――。
 教会権力による民衆支配が安定しており、異端審問の盛んだった中世末期のあるスペインの町に、突如キリストが現れ、かつてのような説教を始める。民衆は群がって彼の話に聞き入る。すると最高権力者である大審問官が、すぐに彼を捕らえ牢にぶち込む。その理由はこうである――「お前は戒律から民衆を解放して、心の自由による信仰を説いているつもりかもしれないが、そんなものが何になる? 愚かでいくじなしの民衆にとって自由ほど厄介な重荷はなく、どうしていいか分からないのだ。だから我々権力者が彼らの自由を取り上げてやり、その代わり我々の言うことをさえ聞いていれば、パンの保証はしてやると約束したのだ。すると彼らは喜び、唯々諾々として我々に従い、世の中は見事にうまく治まっている。それを今ごろ何だといって我々の邪魔をしに来た? いったいお前に何の権利がある? 明日はお前を火あぶりにしてやる。」これは深夜に大審問官がイエスの獄を訪れ、理路整然とイエスの非を論証する一方的な長いせりふになっている。イエスは最後までひと言も語らない。大審問官として語るイワンは無神論者とはいえ、イエスの心を知り抜いていて、実はイエスに叱ってもらいたいのである。しかしイエスは何も言わず、最後には、無言のイエスがこの論戦に勝ったという印象を読者に与える。この中でどきりとさせる場面 がある。「お前も分かっていようが、実を言えば、我々が信仰しているのはほかならぬ だ」と語るときである。傍点を振った「彼」とはもちろんサタンである。
 説明はいらないだろう。「愚かなだらしない民衆」には、この宇宙自然界という深い神秘は重荷でしかない。そこでダーウィニスト権力者はその重荷を取り上げてやり、自然選択と偶然という簡単な唯物原理を与え、これ以上何も考えることはない、我々に対する批判は許さないが、従ってさえいればいくらでも出世させてやる、と約束してダーウィン帝国を維持してきたのである。

『世界思想』No.389(2008年5月号)

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