NO.63



今日の諸悪の根源としてのダーウィニズム(3)
 ―マルクス主義とフロイト理論を支える土台―

唯物論と闘争理論

 ダーウィン進化論というものがもしなかったら、マルクス主義もフロイト理論も現れなかったかもしれない。そこまでは言えないとしても、ダーウィン進化論が後者二つの思想の強力な支えになっていたことに疑いの余地はない。この三大思想が二十世紀を支配した三本柱であったと考えるならば、いかにダーウィニズムが我々の思考様式に食い込み、文化の土台となってきたかがわかるであろう。それは長年にわたって我々を拘束した宿痾(しゅくあ)であった。この二十世紀の三大誤導思想(と私は呼びたい)に共通 するのは、それらがいずれも唯物論であり、物的なものの闘争という観点から対象を捉えている点である。ダーウィンは生命の歴史を「生存闘争」という観点から説明し、マルクスはこれに倣って人間の歴史を「階級闘争」として説明し、フロイトは人間の自我を、制御できぬ 本能とこれを抑圧する「超自我」の闘争という、マルクス主義によく似た原理によって捉えた。
 いずれも物的な敵対、相互排除、自己主張、憎しみを原理とする思想であって、「心」というものの持つ融和、調和、相互浸透、愛といった契機は完全に排除される。学問あるいは知的な話題において、生命的和合としての「愛」といった概念や言葉が、場違いな恥ずかしいものとして軽蔑され、物的な「憎しみ」を原理とするものだけが、科学や哲学において歓迎されてきたのは周知のとおりである。これらの思想はいずれも、歯車が相手を排除するイメージで捉えることができる。そういった見方は科学や論理的思考に確かになじみ易い。しかし「憎しみ」が宇宙の根本原理ではないのである。
 ダーウィン進化論がマルクスやエンゲルスやフロイトに与えた影響については、確実にに論証することができる。『種の起源』(一八五九)を読んだマルクスとエンゲルスはわが意を得たりと喜び、「イギリス人の書いたものだから」などと半ば軽蔑しながらも大歓迎している。その数年後『資本論』が出たとき、マルクスは署名本をダーウィンに送った。更に後、その英語版が出版されたとき、マルクスはダーウィンにこれを献呈しようとしてご意向を伺ったが、どういうわけかダーウィンは断っている。
 帝国主義イデオローグ、ヘッケルにとって、ダーウィン進化論が絶好の利用価値をもったように、(マルクスとほとんど一心同体の)エンゲルスにとっても、ダーウィンはきわめて有り難い存在であった。マルクスの葬式のときに読み上げた弔事の中で、彼はダーウィンを称えてこう言った――「カール・マルクスは百年にそう多くは出ない傑出した人物の一人でした。チャールズ・ダーウィンは地球上の生物界の発展法則を発見しました。マルクスはそれに従って、人間の歴史が自らを動かし発展させていくあの根本法則、同意を得るのに容易く、十分に単純で自明な、あの法則の発見者でした。」
 『空想から科学へ』の中でも、エンゲルスはダーウィンを称えてこう言っている――

 「自然は結局においては形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである。それは不断の循環運動をいつも同じようにくり返さない一つの現実の歴史なのである。この点で誰よりも先にあげられるべき名はダーウィンである。彼は、今日の一切の有機的自然、植物も動物もしたがってまた人間も、幾百万年にわたる絶え間ない進化の過程の産物であることを証明し、それによって自然についての形而上学的な見方に強烈な打撃を与えた。」(岩波文庫、五六頁)


 「大工業と世界市場の成立はこの闘争を世界的にすると同時に、これを前代未聞のはげしいものとした。個々の資本家のあいだでも、全産業と全国家のあいだでも、自然的もしくは人為的生産条件のよしあしが、死活を決定する。敗者は容赦なく一掃される。これはまさにダーウィンの個体の生存競争だ。それが一層の凶暴さをもって、自然から社会へと移されたのである。」(同、七四頁)

 マルクシズムがいかにダーウィン進化論を頼りにしていたかがうかがえる。もしダーウィンを疑うようなことを口にしたなら、エンゲルスはさぞ烈火のごとく怒ったであろう。(ついでながら、今日エンゲルスの『自然弁証法』などは読むに耐えないが、エンゲルスと同じ言い方で(「法則を発見した」「証明した」!)、ほとんど同じことをくり返しているドーキンズは読むに耐えるのか? 更にいえば、我々の生物教科書に出てくるオパーリンの仮説はエンゲルスに忠実であろうとしたものであり、そのエンゲルス理論はヘッケルから来ているという指摘(二〇〇七、六月号参照)をどう思うか?)

進化論と同じ心理学

 同じことはフロイトについても言える。もしダーウィンがいなかったら、フロイトの精神分析が成立したかどうかは疑わしい。何よりもそれはルーシール・B・リトヴォという人の『ダーウィンを読むフロイト――二つの科学の物語』(一九九〇、訳一九九九、青土社)に明らかである。その影響は個別 にどこというより、それは先に述べたように思考法の土台を与えたのである。

  ダーウィンの理論にとって現在最も基本的なものとみなされている思想は、フロイトの理論にとっても基本的なものであることがわかった。…ダーウィンがフロイトのどれか一つの思想の唯一の源泉だと主張することはできない。印象的なのは、ダーウィンの研究の結果 としてのこれらの思想の累積的な影響である。(三〇〇頁)

  ペンギン版『フロイト・リーダー』によると、フロイトは一九〇七年、「世界の本ベストテン」をあげるように求めたアンケートに対して、「ベスト」を「最も意義深い」と取るなら、それは「コペルニクス、ダーウィン、Johann Weir の科学的業績」だと言っている。最後の人物(魔女信仰について書いた学者)については現在ほとんど知る人もないようだが、コペルニクスとダーウィンをあげたのは、彼らが二十世紀の知的風土を方向付けた人物であるだけに、なるほどと思わせる(「コペルニクス原理」については二〇〇五、十二月号に書いた)。
 「エロス」(性の衝動)と並んで暗い衝動として我々の内部にあるとする「破壊衝動」あるいは「死の衝動」について、フロイトはこう言っている。

破壊衝動については、その究極の目的は生きたものを無機物の状態に返すことだと考えることもできる。そのため我々はこれを「死の衝動」とも呼ぶ。生物は無生物に遅れて、無生物から生じたと考えるなら、死の衝動は私の述べた公式にぴったり合うことになる。すなわち、衝動はすべてのものを、より初期の状態に戻そうとするのである。(An Outline of Psychoanalysis)

  ここで当然のこととして仮定されているのは、生物は自分が無生物だった時代があり、そこへ戻ろうとする衝動をもつ、ということである。この主張の奇怪さを別 としても、これはダーウィニズムの唯物論的生命観――無機物からの偶然発生説――を前提とする立論である。フロイトの人間観とは要するに、人間とは下から突き上げてくる性や破壊の衝動と、これを上から抑えこもうとする、これも一種の暴力である「超自我」――「良心」とはその美名にすぎない――の間に挟まれて苦しむ永遠の被害者だということである。調整がうまくいかないと病気になり、死ぬ 場合もあるという。

だから一般に、個体は内なる闘争のために死ぬ と考えてよいのだが、これに対して種は、外の世界との闘争がうまくいかず、それによって身につけた適応が不十分であったときに死ぬ のである。(同)

 これも、自説とダーウィン進化論がパラレルの関係にあることを強調して整合性をもたせている。闘争を契機として、ダーウィニズムとフロイト理論はいわば有機的につながっているのである。

生きる意味を否定

 フロイト思想はなぜ、二十世紀における誤導思想であったか? フロイトの精神分析が患者の治療に役立つということもあるのであろう。しかしそれはマルクス主義が部落解放に役立ったと言うようなもので、本質を見落とすものである。フロイトの哲学は人間を本質的に被害者として捉えることである。確かに人間とは苦しむ存在である。それは誰でも知っている。しかしフロイトは、人間がその苦しみの中に閉じ込められてどこにも脱出できない存在だと考える。無意味に心を病むことがむしろ人間の常態であって、たまたま生ずる心の健康とは「小康を得ている」状態にすぎず、人間はいわば自らだましだまし生きていく存在である。そこには、苦しむことによって古い自分を脱皮し、新しい自分を切りひらくという契機――人間が生きるのに最も大切なもの――が全く欠けているのである。
 これは、宇宙には目的もデザインもなく、ただ偶然によって生じ、物的な必然性と偶然性だけで盲目的に動いているという宇宙観から、必然的に生まれる人間観である。「人間とは無益な受難である」と言い、『出口なし』という絶望的な戯曲を書いたサルトルの哲学もそこから出てくる。サルトルの立場は心理学ではないが、本質は同じである。出口のない閉塞感を主題とするいわゆる「不条理劇」も、「テクストの外側には何もない」というデリダの空回り的言語観――いわゆる「脱構築」――もそこから出てくる。

20世紀のミステリー

  ここにきて我々は、懸案の世紀のミステリーを解く一つの手掛かりが得られたように思う。それはあの『ダ・ヴィンチ・コード』の謎にも匹敵するミステリー、なぜあの帝国主義正当化のために平然と資料を偽造したヘッケルが、ヒトラーもスターリンも死に果 てた現在に至るまで、咎められることなく今なお君臨しているかという謎である。それは生物教科書に端的に表れた謎だが、生物教科書を超えて二十世紀の知的風土全体に及んでいる。
 それはこういうことであろう。二十世紀を支配した唯物論的・無神論的・虚無主義的諸思想の根拠が、元をたどればダーウィニズムという「科学」にあることに誰もが気付いており、ダーウィニズムが科学などでないことも実は誰でも知っているのだが、これをあからさまに指摘したりすれば、唯物論文化のすべてが成立の根拠を失うことになる。だから今さら根源に立ち返ってその根拠の真偽を究明したりしてはならないのである。それはタブーとして触れてはならない問題である。こうして二十世紀初頭、帝国主義のために「科学」であり「事実」でなければならなかったダーウィン進化論が、百年を経た現在も「科学」であり「事実」でなければならないのである。ダーウィニストの昨今の狼狽ぶりも、批判者に対する彼らの暴力的言動も、それに対する知的体制派の暗黙の容認も、その観点から理解することができる。
 もう一つ、欧米がヘッケルの亡霊を大切にしなければならない理由がある。それは黄色人種の我々だから言えることである。もちろん今日「人類はみな兄弟」の時代に、ヘッケルの時代の欧米人のように、これをあからさまに口に出す者はほとんどいない。しかし欧米社会にはコーカソイド優越意識は当然あるであろう。これは自然なことであって咎めだてするのではない。もしかりにダーウィンやヘッケルが、日本人こそ世界を支配すべき最も優秀な民族であると科学的に証明したとしたなら、日本人の誰がその「科学」を否定するだろうか? もし日本人の誰かがその「科学」の疑わしさを指摘しようとしたなら、日本人は寄ってたかって彼の口をふさごうとするだろう。これだけ愚かしい、これだけ根拠の薄弱なダーウィン進化論が、これだけ大手を振って支配し続けることの背景には、そうした白人の集団意識のからくりが必ずあるであろう。
 もし日本人が白人種だったら、アメリカは原爆を落とさなかっただろうという人がいる。おそらくそれは真実であろう。こう言ったからといって、私は反米感情や白人種に対する敵愾心を煽っているのではない。ただ、「今どきダーウィン進化論を疑う者はひとりもいないだろう、それは証明済みの事実だ」などと誰かが言うとき、何がその人をしてそこまで言わせているのかを考えてみるべきだろう。純粋に学問的な信念によってそんな言い方はしないものである。そういう独断的な言い方をしなければならない理由があるであろう。「大多数の欧米の学者がそう言っているのだから」などと軽々しく尻馬に乗って拍手する前に、そのような発言の背景にはいろんな複雑な事情があると考えるべきである。腑抜けの日本人にだけはなりたくないものである。我々は世界に向かって発信することのできる哲学をもつべきであろう。それとも我々は永遠に負け犬か?

『世界思想』No.387(2008年3月号)

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