NO.36(2005年12月)


「コペルニクス原理」とは何か
―『特権的惑星』を再読する―

渡辺 久義

位置の意味的すり替え

 この連載の初回記事を書いたとき、私はまだインテリジェント・デザイン運動の存在を知らなかった。題を「目的論的世界観と人間原理」として、この宇宙が人間を中心とし目的として働いているとする「世界観の大革命」が「地すべり」的に進行中であると書いたとき、私は事実というより確かな予感を述べていたのであった。今日のID運動の隆盛をみれば、私の予感は当っていたことになる。
 私はそこで、「コペルニクス的逆転回」という言葉を使った。物理的にではなく意味的には、やはり地球(と人間)が中心であったという意味である。「コペルニクス的転回」というカントに発する言葉は、画期的な逆転の発想といった意味で使われる。ここで述べる「コペルニクス原理」(Copernican Principle)とは、それとは全く別である。この原理は、近代に至ってますます強力に我々を支配し、暗黙のうちに我々の思考習慣に根付くことになったものである。そのことを明らかにするのが、ID理論の重要文献の一つ『特権的惑星』(G. Gonzalez & J. W. Richards, The Privileged Planet)である。この本はすでに二回にわたって紹介したが、重ねて紹介するに値する重厚な内容をもっている。
 この本の指摘するところによれば、コペルニクスによって、この地球すなわち我々人間が宇宙(太陽系)の中心に位 置するのではないことが明らかにされたとき、コペルニクスやその同時代人は、近代の我々がコペルニクスに結び付けて考えるようなことは、全く考えていなかったという。すなわち、我々が宇宙の中心でないと彼が言ったとき、それは文字通 りの物理的な意味で言ったのであって、そこには、地球や人間が神に愛される特別 な存在などではないという、後世の付け足した比喩的な意味合いは全くなかった。従って教会との対立もなかったのである。ところが後世の「公的物語」では、コペルニクスは、教会の考えとは違う正しい考え方を普及させたというところから、この比喩的な地球と人間の意味――地球や人間が特別 な存在ではないという――を、迷信深い教会に認めさせた科学の第一人者とされているのである。
これが「コペルニクス原理」であり、近代科学を拘束する――そして今日のID論争にまで続いている――不幸はここに始まったとこの本は指摘する。これは意表をつく指摘ではあるまいか。「コペルニクス原理」とは一種の自虐的人間解釈だと考えればよいが、それには全く根拠がないのである。実にこれは、中心と周辺という単なる物理関係の、滑稽な恣意的な解釈からきているのである

ラッセル的な知

 コペルニクス革命とは、我々の信じ込まされているところでは、現在も進行中の科学と宗教の戦いの口火を切ったものである。この問題を扱う教科書もサイエンス・ライターも、本当のところを見ようとする態度が消極的であり、わずかの例外を除いて、言わんとする核心は一致している。すなわち、宗教的迷信は、地球や人間が形而下的(物理的)にも形而上的(意味的)にも宇宙の中心であるという神話を固守するのに対して、近代科学はそうでないということを教えた、というものである。コペルニクスは、たとえ彼の説が人間を、誤った唯一性や重要さの観念から引きずりおろすことになったとしても、事実に対する科学の怯むことのない忠誠の永遠のシンボルとなった。天文学者のスチュアート・クラークが言ったように、「天文学が我々を誘導して信じさせようとするのは、宇宙はあまりにも広大であるので、この地球という惑星上にいる我々は一点のゴミ粒のようなものだという考え方である。」奇妙なことに、コペルニクスの業績を道徳教師の役割をなすものと考える者さえある。哲学者のバートランド・ラッセルはかつてこう言ったことがある――「コペルニクス革命は、人間が宇宙の目的の十分な証拠だと考えるような人たちに、もっと謙虚であれと教えたときに、初めてその役目を果 したことになる。」

 ラッセルの「もっと謙虚であれ」という忠告は、「神の前に謙虚であれ」ということではない、「唯物論を受け入れてもっと自虐的になれ」ということである。ラッセルは二十世紀の最も影響力のあった哲学者の一人である。そのラッセルに至って「コペルニクス原理」は頂点に達したと言ってもよいだろう。しかもこの原理は意識されることもなく、一つの文化の当然の常識であった。私のように二十世紀を十分に体験してきた者には、このラッセル的な知的雰囲気は身にしみている。私の前後の年齢層の人たちの大学時代に使われた英語の教科書で、最も多いものの一つがラッセルであった。
この本は更に続けてこう言っている――

 ここで言外にいわれていることは勿論、人は非宗教的である限りにおいてのみ科学的であることができるということである。「宗教的」であるとは、ここでは狭く限定した意味で、我々の存在と宇宙の存在には、何か唯一の、特別 な、意図的なものがあると信ずることをいう。「科学」も同様に特別 の定義をもっている。科学は、証拠や組織立った研究に基づいて自然について真理を探究するというよりも、応用自然主義となる。すなわち、物質的世界が存在するすべてであり、偶然と非人称的な自然法則のみが世界を説明し、また説明しなければならない、という信念である。

 キリスト教のような宗教は、人間は被造物の中でも神から見て最も大切な、神に近づくべき存在だと教えるであろう。コペルニクス自身の全くあずかり知らぬ 、滑稽なカン違いから生まれた「コペルニクス原理」とは、平たく言えば、「人間が特別 の存在だなんて思い上がりもいいところだ」ということである。よく考えみれば、そんなふうに断定する何の根拠もないのである。ただ一つ根拠といえば、教会(宗教)がその逆を教えていることである。あのコペルニクスと争った、迷信の固まりである宗教に逆らってこそ「科学的」なのだ、という笑うべき論理が働いているのであろう。
 ダーウィン進化論がこれほどの勢いを得て今日に至ったことの背景には、この「コペルニクス原理」という精神風土が根底にあったと考えられる。人間を貶めて扱うのがカッコイイ科学だという大学の学問の雰囲気を、学生時代に感じなかった人はあまりいないはずである。例えば、「神」や「愛」は勿論のこと、人間の「霊性」などという言葉も学問の場では禁句である。そういうところから自然主義が勢いを得、自然主義だけが科学の公認された正当な方法となる。しかし人間も動物も、更には無生物も、同列に扱えるはずで、それが民主主義にもかなう、などという滑稽な錯覚がどこから生まれたのか考えてみなければならない。

ザラの原理

 「目的論的世界観」という概念に戻ろう。宇宙に目的があるという考え方が、全く話にならない馬鹿げた、あるいは寝耳に水の話だという人が多いとすれば、それもやはり「コペルニクス原理」によるものである。いったい百三十七億年の歴史のこの宇宙が目的も方向も持たなかった、成り行きまかせでこうナッチャッタ、などと信ずべき科学的根拠はどこにあるのか。どこにもないであろう。それどころか、宇宙歴史のすべてが、ただ一つ、この地球と我々人間を目指して働いてきたと考えねばならぬ 圧倒的な証拠がある――それを論証するのがこの『特権的惑星』という本である。

Copernican Principle(コペルニクス原理)はPrinciple of Mediocrity ともPrinciple of Indifferenceとも呼ばれる。控えめな形では、それは「宇宙の中での我々の地球の時期と場所には、何も特別 なもの、例外的なものはないと想定すべきである」と主張するものである

 要するにこれは、我々のような地球やそこに住む人間(のような高等生物)は、この広い宇宙にいくらでもあるはずだ、ザラにいるはずだ、という全く根拠のない、しかし人々の意識を漠然とだが強く支配する思い込みを指している。Principle of Mediocrity を私は「ザラの原理」と訳したいと思う(mediocreも indifferentも等しく「取り立てて言うほどでない」という意味である)。この思い込みはある程度いたし方ないものである。なぜなら「我々の場所が宇宙のランダムなサンプルであるとすれば、ランダムなサンプルは例外的なものと考えるより、ありふれたものと考える方が理にかなうからである。」

 しかしこの原理は、それと密接な関係をもつが、もっと広範囲な哲学的あるいは形而上学的な、次のような意味を含んでいる――「我々は目的をもってここにいるのではないし、宇宙は我々のことを念頭において構築されたのでもない。我々の形而上学的立場は、我々の天文学的位 置と同様に無意味なものだ」。この目的の否定は、通 常、非人称的な物質的な世界が存在するすべてで、それは目的なしに存在するものだと考える自然主義と結合する。西洋歴史の大半を通 じて常に少数だったとはいえ、そういう見解は最初からあった。・・・有神論者でさえ、例えばデカルトなどは、そういう考えに傾いていたようにみえる。とは言っても、こうした自然界におけるデザインや目的の否定が、文化的エリートの間で公的な多数者の地位 を得るに至ったのは、近代になって初めてのことである。この公的見解に疑問をさし挟んだりすれば、カクテルパーティーの会話の輪から締め出される――いや、そもそも招待してもらえなくなること請け合いである。

人間と地球は特別の存在

 『特権的惑星』のもつ迫力は、圧倒的な証拠をあげて、人間と地球が特別 の存在であること、そして科学から目的やデザインといったファクターを締め出すことが不合理であることを論証するところにある。この本は単に、人間が住むのに適したこのような環境(地球)が存在することが奇跡的であることを論証するだけでない。副題に「宇宙での我々の場所がいかに発見のためにデザインされているか」というように、我々の生命を可能にする条件が、同時に宇宙観測を可能にする条件でもあること(本来、この二つは別 のものであるにもかかわらず)、そして我々人間が宇宙進化のこの時この場所で、宇宙についての真理を悟るように、観測機器を作るための条件も、我々の頭脳そのものも、精密に合わせられていることを指摘する。
 この二人の著者に限らず、宇宙学者・天文学者たちは、自分たち自身の発見の予想外の大きさに驚異を感じているらしい。アインシュタインの有名な逆説「宇宙について最も理解できないことは、それが理解できることだ」もそうであり、この本に引用されている「二十世紀の間に宇宙の理解において達成された進歩は、実に卒倒するほどだ(nothing short of stunning)」(マイケル・ターナー)といった述懐にもうかがうことができる。宇宙学者ヒュー・ロスの畢生の仕事というべき、宇宙の驚異的なファイン・チューニングの実証は言うに及ばないだろう。
 しかし、この二人を含めたID論者たちは、神の存在を証明するとは言わない。いわば無限数の指が神(超越的デザイナー)の方向をさしていると言っているのである。これは「神の存在証明」とは違う。驚いたことに――あるいは予想された通 り、と言うべきか――ID反対論者たちはこの本についてもいろいろと妨害するようである。最近のニュースによると、八十五人の科学者が、(IDを宗教教育だとする提訴を受けた)裁判所に対して「それが何の証拠になろうと、科学者の証拠を追求する自由は保障されるべきだ」といった意見書を提出したという。何をか言わんや、である。

真の地球外知性

 この本を結ぶSETI(地球外知性探査計画)に関連する、皮肉とも深い洞察とも言える含蓄ある文章を最後に引いておきたい――

 現実には我々は、映画『コンタクト』に出てくるような地球外知性からの信号を受け取ったことはない。にもかかわらず、この小さなオアシスの彼方の天空を見つめるとき、我々が見つめているのは意味のない深淵ではなくて、我々の発見能力に合わせられた驚くべき劇場である。おそらく我々は、素数の数列(『コンタクト』に出てくるETからの信号)よりもはるかに意味のある宇宙の信号を、見落としていたのである。それはある宇宙を開示する信号であるが、それがあまりにも巧妙に生命と発見のために細工されているので、我々が好んで期待し想像してきたいかなる知性とも比較を絶して、はるかに広大で、はるかに古く、はるかに荘厳な、地球外知性の存在を囁きかけてくるように思えるのである

『世界思想』No.362(2005年12月号)

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