自然界に存在する悪あるいは不合理性をめぐって

 『デザイン論争_ダーウィニズムからDNAへ』(W. Dembski & M. Ruse eds., Debating Design: From Darwinism to DNA, Cambridge University Press, 2004)という本がある。これはデザイン論に対する賛否両論を公平に載せて、読者に自由に判断させようとしたもので、編集者もプロとコンの両陣営からデムスキー(プロ)とマイケル・リュース(コン)の二人を立てて編集されたものである。
 この本には、真っ向からデザイン論を不倶戴天の敵とするダーウィニストが四人登場する。その一人がフランシスコ・アヤラ
(Francisco Ayala)で、ここでは彼の反論を検証してみたい。

 

デザイン論に対する反対論者が、しばしばその論拠とするものに、自然に内在する悪あるいは不合理の問題がある。悪といっても、明らかに人間が不徳によって自ら招く、あるいは作り出す、戦争とか虐待とかエイズなどは別である。それではなくて、自然そのものに内在すると考えられる多くの悪あるいは不合理があり、そういうものが存在する以上、この世界が知的なものによってデザインされたものとはとうてい考えられない、というものだ。たとえば、アヤラこの本で次のように述べている。

 生物の適応を説明するためのインテリジェント・デザイン説は、(自然)神学の一形態と言えるが、しかしそれが何であれ、科学的仮説ではない。しかもそれは神学としてもよい神学ではないと言いたい。なぜならそれは、創造者の全知、全能、全き善意とはおよそかけ離れた特質を、デザイナーに与えようとするものだからである。生命体やその部分が完全さから程遠いというだけではない、欠陥や機能不全はいたるところにあり、「デザイン」の欠陥を証拠立てている。

 アヤラはこのように言って、まず人間の顎の欠陥を例にあげている。人間の歯は顎の大きさの割には多すぎて、いわゆる「親知らず」を抜かなければならないようになっている。こんな欠陥品を神が作ったというのであろうか、人間の技師の方がよほどうまくやるだろう、と彼は言う。さらに、女性の産道が狭すぎて出産が困難なことをあげて、これもデザインだとすれば欠陥デザインであり、こうしたことは自然選択による(産道を通る)頭蓋の進化という観点からうまく説明できるのであって、こうしたものが計画して作られたなどということはありえないと言う。
 さらに、我々の腕と脚は違った機能を果しているのに、なぜ同じ材料(同じ骨、筋肉、神経)で作られ同じ構造になっているのかわからない、これは動物の前脚が腕になった(いわゆる進化論の「相同」_筆者注)と考えればよくわかるのだ、と言っている。これなど私には__おそらく読者も同様であろう__全く理解ができない。腕と脚が、同じ材料で同じ構造にできているのが、なぜデザインとして考えられないことなのであろうか。
 アヤラはさらに自然界の「残酷さ」に言い及んで、デザイン説の不合理を訴えている。
 あらゆる種類の生物における、欠陥と機能不全の例はあげればきりがなく、これらは「インテリジェント・デザイン」ではなく、自然選択の「日和見的な」、補修屋的な性格を反映している。生物世界はまた「奇異」とも呼ぶべき特徴に並んで、「残酷さ」にも満ちあふれている。ただ自然界の残酷というのは自然選択の結果としてみれば、道徳的な意味合いはなく比喩的なものにすぎない。「残酷」の例は、獲物を引き裂くよく知られた捕食動物(例えば、泣き叫ぶ小さなサルが、チンパンジーに生きたまま肉片を食い裂かれる)や、宿主の臓器を食い荒らす寄生動物だけではない、交尾をめぐって同じ種の動物の間にも、(カマキリのように)オス・メスの間にさえ、ふんだんに見られるものである。・・・
 生物の欠陥デザインは、お互い同士争ったり、へまをやったり、無駄な努力をしたりするギリシャやローマやエジプトの神々のものなら分からないでもないが、私の考えでは、ユダヤ教やキリスト教やイスラムの全知全能の神による、殊更の作為としては理解できないものである。

 物質界には制約がある以上、物質界に住む生物も制約を免れることはできない。創造者の側から見てもそれは同じであろう。「残酷」と言うが、もしすべての動物を草食動物に創ったとしたら、この限りある地球上の草が足りなくなるであろう。生物界は、光合成する植物と草食動物と肉食動物の、まさにデザインされたバランスの上に成り立っている。「神は慈悲ある全能の神なのだから、人間を含めたすべての生物が光合成をするように設計できたはずだ」など考える者がいるだろうか。
 さらに言えば、人間の女性の産道が狭すぎることが欠陥構造であるかのように言うが、もし出産ということだけを考えれば、人間を犬のように設計しておけば問題はなかったであろう。しかし物質界を相手にデザインする以上は、すべての要件を満足させることはできないのであり、妥協点を探りながら最善を目指すよりほかないのである。建築家は重力を無視して頭に描いた勝手な建物を作ることはできない。人体も同じである。まず人間は犬と違って立って歩くように設計された。ただ立って歩くというだけなら、安産型に設計することも容易であろう。しかし人間はその上に美しくなければならない。画家や彫刻家がよく言うように、人体ほど造形的に美しいものはないのである。創造者の最優先条件がそこにあったとも考えられる。そう考えるなら、女性の体は、生理学的必要と美の妥協点で生まれた最高の作品というべきであろう。アヤラの言う通り、出産で死ぬ女性が少なくないことは事実であろう。しかしそういうことを強調して、欠陥を言い立てるのは間違っているだろう。むしろこの例は、人間の体がいかに絶妙にデザインされているかの好例ではないだろうか。
 それだけではない。いったい「産みの苦しみ」といわれるものが、人間に必要なものとして創造者によって意図されたものでないと、誰が言うことができるだろう。ダーウィニストに、そんなふうに考えてくれとは我々は言わない。しかし、そのような発想を自分にも他人にも禁じなければならない思考枠というのは、貧しい思考枠だとは言わなければなるまい。
 作られたものの最善値というものが、すべての要件を百パーセント満たすことでなく、各要件の歩み寄りによるものであることは、考えてみれば当然である。個別に見て要件が十分に満たされていないからといって欠陥を言い立てるのは愚というものである。
『特権的宇宙』(ゴンザレス、リチャーズ共著)の著者は、我々の地球は居住可能性だけでなく観測可能性においても、宇宙で最適の場所だと言っている。「最適」というのは著者が強調しているように、個別的でなく総合的に見て、ということなのである。著者はパソコンの例をあげて説明している。

  居住可能な場所が科学的発見をするにも「最適」だというとき、我々は、競合する諸条件の最適のバランスということを頭においている。技術者で歴史家のヘンリー・ペトロスキーは、この強制された最適化のことを「すべてのデザインはぶつかり合う目標を、従って妥協を、必然的なものにする。だから最上のデザインとは、常に、最上の妥協にたどりつくことである」と説明している。身近な例をとって、ラップトップ(ひざ載せ)型パソコンを考えてみよう。コンピューター製作者は、この型のコンピューターをデザインするのに、さまざまなぶつかり合う要因の間で、全体的な最善の妥協を求める。もしすべてが同じなら、スクリーンやキーボードは小さいよりは大きい方がよい。しかしこの型の場合、すべてが同じではない。製作者は、処理速度、ハードドライブ容量、周辺機器、サイズ、重量、スクリーン解像度、コスト、美観、耐久性、生産性、といったいろんな問題の間で折り合いをつけねばならない。最上のデザインとは最上の妥協ということになるだろう。

 すべての点で百パーセント満足できるコンピューターが存在しないように、すべての点で百パーセント申し分のない被造物も存在しない。どちらも物質世界を相手にして作る以上、避けられないのである。我々の体を取ってみても、生物界全体を取ってみても、地球そのものを取ってみても、同じことが言えるであろう。地震や台風やハリケーンは、それだけを見つめれば不合理な悪にみえるが、全体として見れば、それらは人間を生かすために活動している生きた地球に伴う、やむをえぬ生理現象とみるべきであろう。

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