IDとは| 


Intelligent Design
from
New World Encyclopedia

Organizing knowledge for happiness, prosperity, and world peace
(『ニューワールド百科事典』による「インテリジェント・デザイン」)


(理論の呼称としての)インテリジェント・デザイン(ID)とは、「宇宙と生物のある種の特徴は、自然選択のような、導かれない(unguided)過程によってでなく、知的な原因(intelligent cause)によって最もうまく説明される」(*1) ことを経験的証拠から推論(導出)することができるという見解を指している。インテリジェント(知的=考える力を持つものから来る)デザインは、複雑性からのみ推論(導出)することはできない。複雑なパタンはしばしば偶然によって生ずることがあるからである。IDは、人間の経験において、ある計画を考え実行する一つの心によって生み出されるような、そんな複雑なパタンに焦点をあてる。その支持者によれば、知的デザインは、自然法則や宇宙の構造に見出すことができる。それはまた、生物の少なくともある特徴(特定部分)に見出すことができる。

この項目についてより明瞭な認識を得るためには、I Dとはどういうものと考えられていないか、またはその主唱者たちがどう主張しているかを調べるのが近道であろう。インテリジェント・デザインは通 常、クリエーショニズム(創造論)と同じものとは定義されず、その主唱者たちは、IDは聖書や宗教教義でなく科学的証拠に基づいていると主張する。IDは聖書の年代記については何も主張せず、現実問題として、自然界の知的デザインを導出するのに、神を信仰する必要はない。一つの理論としてIDはまた、デザイナーの正体や性質を特定はしない。従ってそれは、自然から推理して神の存在や属性を導く自然神学と同じものではない。IDは、生物のすべての種が現在の形に創造されたとは主張しない。またそれは、宇宙の歴史や生物の歴史について完全な物語(説明)を提供するとも主張しない。

IDはまた「無知からの論証」ではない、とその理論家は主張する。すなわち知的デザインは、単にあるものの原因が未知であるという理由で導き出されるのではない(意図的動機を告発された者も証拠がなければ有罪にできないように)。多くの唱導者が言うように、IDは、デザインが最高値を示さなければならないと主張するものではない。欠陥があったとしても、(多くの人間の作品がそうであるように)知的にデザインされたものであり得る。

IDは、自然界の特徴のあるものは知的主体(intelligent agent)によって最もうまく説明されることが経験的証拠から導かれる、という最小限の主張のみによって成っていると考えることもできる。それは、宇宙には現実のデザインはどこにもないとか(例、唯物論哲学)、生物にもデザインはないとか(例、ダーウィン進化論)、デザインはたとえ現実にあったとしても検出できないとか(例、ある種の有神論的進化論)いった主張をする見解とは衝突する。このような衝突のために、IDはかなり多くの論争を引き起こしてきた。

目 次

1 歴史
2 主要なID理論家の考え
   2.1 マイケル・J・ビーヒー
   2.2 ウィリアム・A・デムスキー
   2.3 スティーヴン・C・マイヤー
   2.4 ギエルモ・ゴンザレスとジェイ・W・リチャーズ
3 論争の諸相
   3.1 哲学
   3.2 科学
   3.3 教育
   3.4 神学
4 注と引用文献
5 精選参考文献
   5.1 ID支持の本
   5.2 反IDの本
6 リンク
   6.1 ID支持のインターネットサイト
   6.2 反IDのインターネットサイト



歴史

自然からデザインを推論することは少なくともプラトンとアリストテレスに遡る。そしてキリスト教の著作者たちは、神の存在と属性を論証するために何世紀にもわたってこの推論を用いてきた。しかし上に述べたような最小限のデザインの見方は、1980年代に現れたものである。

宇宙学者フレッド・ホイル(Fred Hoyle)は1982年に「インテリジェント・デザイン」という言葉を使用し、もし人が「学界見解の怒りを招くことを怖れて真実を曲げなければ、驚くべく高度な秩序をもった生命物質は、インテリジェント・デザインの結果 でなければならないという結論に逢着するだろう」と言った。(*2) ほどなくして化学者のチャールズ・サックストン(Charles B. Thaxton)は、化学者で哲学者のマイケル・ポランニー(Michael Polanyi)の述べた、DNAにおける情報は物理学と化学に還元することのできないものだという見解に感銘を受けた。それ以上の何かが必要だった。サックストンは後に、「クリエーショにズム」よりも「インテリジェント・デザイン」を選ぶと言ったが、それは「ほとんどの場合、創造論者の専用になっている語彙を用いるのは、私の言おうとしていることをうまく表現できず、落ち着かないから」という理由であった。「彼らは神を議論の中に持ち込もうとするが、私は経験的な領域にとどまり、その中で正当な方法でできることをやってみようと考えた。」(*3)

1984年、サックストンは、材料科学者ウォールター・ブラッドレー(Walter L. Bradley)、地球化学者ロジャー・オルセン(Roger L. Olsen)と共同で、『生命起源の神秘』(The Mystery of Life's Origin)を出版した。これはいわゆる「化学進化」すなわち、導かれない自然の過程が無生物材料から無生物的に(abiotically)最初の生きた細胞を生み出した、という考えを批判する本であった。著者たちは、秩序(結晶に見られるような)、複雑性(分子のランダムな混合物に見られるような)、および「特定された複雑性」(DNAのような生物分子に見られる情報量 豊かな複雑性)の3つを区別した。「一貫性原理」(uniformitarian principle)すなわち「今日ある結果を生み出していることが観察される原因は、過去においても同じ結果 を生み出していたと考えてよい」という原理に依拠しながら、彼らは「要求されていることは、現在において、特定された複雑性の無生物的原因(abiotic cause)を確認することだ」と主張した。サックストン、ブラッドレー、オルセンの結論はこうだった――「我々は現在、知力をもつ研究者がランダムでない化学経路を通 じてエネルギーを送り、何らかの複雑な化学合成、遺伝子の組み立てさえ起こさせる装置を作ることができるという、観察による証拠を持っている。だからより広い思考枠による一貫性原理をここに用いて、DNAはその始まりにおいて、知的な原因(intelligent cause)を持っていたと言ってよいのではなかろうか?」(*4)

翌年(1985)、分子生物学者マイケル・デントン(Michael Denton)が、『進化――危機に立つ理論』(Evolution: A Theory in Crisis)を出版した。これはダーウィン説の証拠とされるものを批判し、生物からデザインを推論することができるという見解を述べたものであった。デントンは、「生物は記述、研究、分析のためには機械なのだから」この生物と機械の類比を延長して、それらの起源を、インテリジェント・デザインに帰するのは正当なことだと述べた。彼は結論として、「デザインを推論することは、類推の論理を厳密に適用することに基づく、純粋に経験的な帰納法である。その結論は宗教的な意味合いをもつかもしれないが[デントンはそれを引き出さなかった]、それは宗教的前提から来るものではない」と言った。(*5)

1989年、生物学者パーシヴァル・デイヴィス(Percival Davis)とディーン・ケニヨン(Dean H. Kenyon)は、(サックストンの監修による)『パンダと人間――生物の起源の中心問題』(Of Pandas and People: The Central Question of Biological Origins)を出版した。その序には、この本はこの問題の「バランスの取れた扱いを意図したものでなく、インテリジェント・デザインに好意的な書き方をすることによって」生物学授業における「全体的なバランスを取る」ためのものだと説明がしてある。この本はこう締めくくっている――「起源についてのどんな見解も理論も、未解決の問題を抱えたまま提出せざるを得ないが、生物はインテリジェント・デザインの産物だという見方を支持する、我々の研究の結果 としての多岐にわたる、強力な一貫性のある証拠が存在する。」(*6)

その2年後(1991)に、バークレー(カリフォルニア大学)の法学教授フィリップ・ジョンソン(Phillip E. Johnson)は『裁かれるダーウィン』(Darwin on Trial)を出版したが、これはダーウィニストが生命におけるデザインを排除するために用いる論理と想定を、批判的に分析したものであった。ジョンソンはこう締めくくった――「ダーウィニズム科学者たちは、宇宙は物質的な因果 関係の閉ざされたシステムであると信じ、科学は、目的をもってデザインされたように見える生物の驚異の世界に対して、自然主義的な説明を提供しなければならないと考えている。こういった信仰を前提としなければ、彼らは生物世界のすべての主要な分類群に、共通 の祖先がかつて存在したとか、ランダムな変異と自然選択がインテリジェント・デザイナーの代わりをすることができるといった説を、引き出すことはできないだろう。」(*7)

『パンダ』の第二版は1993年に出た。(*8) 同じ年にジョンソンは、カリフォルニア州モントレー近郊のパハロ砂丘において、ID主唱者の小さなプライベートな集会を主催した。参加者の中には、ここに紹介する何人かを含む、ID論争において後に主要人物となった学者の多くがいた。パハロ砂丘集会でのいくつかのシーンは、2002年の映画『生命の神秘を解明する』(Unlocking the Mystery of Life)の中に収められている。(*9) もう一つの更に大きい集会が、カリフォルニア州ラミラダのバイオラ大学で1996年に行われ、その発表論文集が後に刊行された。(*10)

1996年、地質学者で科学哲学者のスティーヴン・マイヤー(Stephen C. Meyer、1993年のパハロ集会の参加者)と政治学者ジョン・ウエスト(John G. West)は、ワシントン州シアトルにあるDiscovery Instituteの一プロジェクトとしてCenter for the Renewal of Science and Culture (CRSC)を発足させた。政治、社会、経済の諸問題に重点をおく非営利の公益組織であるディスカヴァリー研究所は、1990年、ブルース・チャップマン(Bruce K. Chapman)によって創設された。チャップマンは前ワシントン国務長官、レーガン大統領の下での米国勢調査局長、ウィーンの国連組織への米国大使を勤めた。(*11)

同じ年(1996)、生化学者マイケル・ビーヒー(Michael Behe、同じくパハロ集会に参加した)は、『ダーウィンのブラックボックス――進化への生化学的挑戦』(Darwin's Black Box: The Biochemical Challenge to Evolution)を出版した。その中でビーヒーは、生きた細胞の特定部分のあるものは、ダーウィン進化論の過程によっては説明できず、インテリジェント・デザインの指標となる「還元不能の複雑性」(irreducible complexity)という特徴をもつことを主張した。(*12) ビーヒーの考え方は後にもっと詳しく述べる。

1996年と2000年の間に、パハロ砂丘とバイオラ大学の集会に参加した学者たちは、IDにとって重要な多くの他の本を出版した。ジョンソンだけでも4冊の本を出した。1998年に、数学者であり哲学者のウィリアム・デムスキー(William A. Dembski)は『デザイン推論』(Design Inference)を出版したが、これは人が日常的にデザインを推論導出する仕方を公式化し数量 化するもので、同じ推理を自然界の諸特徴に拡張して考える本であった。そして1999年、彼はベイラー大学に、インテリジェント・デザイン研究のための「マイケル・ポランニー・センター」設立した。デムスキーの仕事については後に詳しく述べる。

1999年、中国の昆明(Kunming)で行われた会議において、アメリカ、ヨーロッパ、中国の科学者たちは澄江(Chengjiang)近くで発見された化石の持つ意味について討論した。化石群はカンブリア爆発における、ほとんどの基本的な動物の体設計(門)の突然の出現を詳細に記録していた。これは、ダーウィン理論から予想される枝分かれする樹のパタンとは矛盾するようにみえる化石記録の一つの特徴である。マイケル・デントンは、生物哲学者ポール・ネルソン(Paul A. Nelson)や分子生物学者ジョナサン・ウエルズ(Jonathan Wells)――両者とも1993年のパハロ会議に出席した――とともに、動物の体設計の起源についてのダーウィニズム仮説を疑問とする論争的な論文を発表した。

2000年には、ベイラー大学の「マイケル・ポランニー・センター」が国際的な「自然の性質」(Nature of Nature)会議を主催したが、ここにはノーベル賞受賞者を含む数百人の学者が集い、IDについての賛否両論の議論を行った。(*13) 同年、CRSCはその名をCenter for Science & Culture (CSC)と改め、その研究員にはID運動で著名な人々の多くが含まれることになった。CSCの研究員であるジョナサン・ウエルズは『進化のイコン』(Icons of Evolution: Science or Myth)を出版し、生物学の教科書はダーウィン説の証拠を誇張するものであり、唯物論という思想を推進するために悪用されていることを批判した。

2001年になって合衆国議会は「後れた子供を作らない法案」を上程したが、これは上下両院による次の声明を伴っていた――「質の高い科学教育は、生徒たちが、科学のデータやテスト可能な理論を、科学の名においてなされる宗教的・哲学的主張から区別 できるよう指導すべきである。論争を引き起こすかもしれない(例えば生物進化のような)主題を教える場合には、カリキュラムによって、存在する科学的見方の全体を生徒が理解できるよう配慮しなければならない。」この声明はインテリジェント・デザインを名指してはいない(いわんやそれを教えよとも言っていない)が、一般 にそれはID支持者にとって大きな勝利であるとみなされた。(*14)

その頃にはインテリジェント・デザインは、「ニューヨーク・タイムズ」の一面 で扱われるほどになっていた。(*15) これについての論争は、哲学、科学、教育、神学の領域で現在も続いている(下を見よ)。


主要なID理論家の考え

マイケル・ビーヒー(Michael J. Behe)

『種の起源』にチャールズ・ダーウィンはこう書いた――「多くの、連続的な、わずかの変化によって形成されたはずのない、何かの複雑な器官が存在することが証明されたならば、私の理論は完全に崩壊するだろう。」(*16) 1996年の著書『ダーウィンのブラックボックス』に、生化学者マイケル・ビーヒーはこう書いた――「どのような種類の生物学的システムが、“多くの、連続的な、わずかの変化によって形成されたはずのない”ものであろうか? それはまず初めに、還元不能に複雑なシステムであろう。“還元不能に複雑な”と私が言うのは、いくつかのうまく適合して互いに作用し、全体の基本的な機能に貢献する部品からなる単一のシステムのことで、それら部品のどの一つが欠けても、そのシステムが効果 的に機能しなくなるもののことである。」(Behe 1996, p. 39)

ビーヒーは生きた細胞の特徴で――それはダーウィンの全く知らなかったものだが――還元不能の複雑性をもつと考えられるものを、いくつか示して説明した。その例としてあげたのは、光を感知する眼のメカニズム、人間の血液凝固システム、バクテリアの鞭毛であった。

光が動物の眼の感光細胞にあたると、それはある分子に吸収され、そこにつながったタンパク質が変化する。するとそれは生化学者が「カスケード」と呼ぶもの――精密に統制された一連の分子の反応――を始動させるが、この場合それは神経インパルスを脳に伝えるものである。もしカスケードのどの分子でも欠けていたり欠陥があったりすれば、神経インパルスは全く伝わらない。その人は盲目である。感光メカニズムは、すべての部品が存在していなければ全く機能しないから、ビーヒーはこれを還元不能に複雑なものと考える。

還元不能の複雑性のもう一つの例は、人間の血液凝固のカスケードである。凝固そのものはそれほど複雑なものではない。しかし血液凝固のカスケードは1ダース以上のタンパク質分子からなっていて、凝固が正しい時と場所でのみ起こるためには、時間的に順序正しく相互に反応しなければならない。一つひとつのタンパク質は、それ自体が極めて複雑である。しかしビーヒーが還元不能に複雑なものとして指摘したのはカスケードである。なぜならこのシステムが働くためには、すべての分子が揃っていなければならない。たった一つでも欠けていたら、(血友病の場合のように)システムは崩れる。従ってそれは還元不能の複雑性を示している。

還元不能の複雑性のもう一つの例は、バクテリアの鞭毛(長い毛髪のような体外フィラメント)のモーターである。普通 の大腸菌であるE. coliは何本かの鞭毛をもっている。それらが一方向に進むとき、鞭毛は組み合わさって一本の長い急回転する鞭となり、この生物を推進して環境の液体の中を進ませる。方向を逆転するときには、鞭はほどかれ、この生物は急停止してとんぼ返りする。それぞれの鞭毛の根元には水素イオンを動力とするモーターがあるが、これは一分間に数千回も回転することができ、4分の1回転で方向を逆転することができる。モーターのドライブシャフトはステーターの内部で回転するローターに連結され、この組み立て全体は、様々なブッシングによって細胞の壁に固定されている。フィラメント自体は、鞭毛の回転時にひねることができるように、普遍的接合部として機能するカギ突起によってドライブシャフトにつながれている。遺伝子を取り除いていき、もはや動けなくなる細胞を選別 するやり方で、研究者たちは、鞭毛とそのモーターの組み立てと作動に要求される数ダースの遺伝子の産物(タンパク質)を突き止めた。そのどれか一つのタンパク質でも欠けるならば、この装置は働かなくなる。光を感ずるメカニズムや血液凝固のカスケードのように、ビーヒーはバクテリアの鞭毛を還元不能の複雑性を示すものと考えている。

ビーヒーは科学文献を探しても、これらや他の還元不能に複雑なシステムが、ダーウィン的進化によって出現したという、詳細な、検証可能な説明をした論文を見つけることはできなかった。彼はこう書いた――「科学文献の中には、実際の、複雑な生化学的システムの分子進化が、どのようにして起こったのか、あるいは起こった可能性があるのかを述べた刊行論文はない。そのような進化が起こったという主張は多くなされているが、それが的確な実験や計算によって裏付けられている例は皆無である。」(Behe 1996, p. 185)

ビーヒーは、こういった還元不能に複雑なシステムを作るには何が必要かを、生化学者は知っていると論じた。それはデザインである。彼はこう書いている――「インテリジェント・デザインという結論はデータそのものから自然に出てくるのであって、聖典とか宗派的信仰から出てくるのではない。生化学的システムを、知的主体(intelligent agent)のデザインによるものと推論することは、何ら新しい論理や科学原理を必要としない当たり前の筋道である。それは単に、生化学が過去40年にわたって払ってきた努力と、我々が日常的にデザインを推論する仕方の考慮とが結びついたものにすぎない。」(Behe 1996, p. 193)

ウィリアム・デムスキー(William A. Dembski)

『デザイン推論』(The Design Inference)の中で、数学者にして哲学者のウィリアム・デムスキーは、デザインを推論導出する論理を、公式化・数量 化・一般化した。デムスキーによれば、人はデザインを推論するときに彼のいわゆる「説明のフィルター」を使う。彼はこう書いている――「ある出来事を説明するときにはいつでも、我々は3つの競合する説明のモードから選ばなければならない。それは規則性(自然法則)、偶然性、デザインの3つである。何かを説明しようとするとき「規則性が常に第一の防御ラインである。もし我々が規則性によって説明できるなら、偶然性とデザインは排除される。同様に、偶然性は常に第二の防御ラインである。もし我々が規則性によっては説明できないが、偶然によって説明できるとすれば、その場合デザインは自動的に排除される。だからこの説明には順序の優先性がある。この秩序の内部では、規則性が一番の優先性をもち、偶然が二番目、デザインが最後に来る。」デムスキーによれば、説明のフィルターは「我々が知的主体(intelligent agents)を認識するときに、これまでずっと行ってきたことを公式化したものである。」(Dembski 1998, pp. 19, 36, 38, 66)

もちろん同じ物の異なる側面は、異なる原因によるものであり得る。例えば、放棄された自動車は自然法則に従って錆びるが、現実の錆びのパタンは偶然によるものであり得る。しかし車自体はデザインされたものである。そのように、規則性、偶然性、デザイン性は、競合しながらも相補的なものであり得る。

デザインを推論するとき、規則性をまず除外するのは最も簡単な第一歩である。偶然を除外することはもっと難しい。なぜなら単に確率の低いこと(複雑であること)は、デザインを推論するのに十分ではないからである。確率の低いものはたやすく偶然の結果 であり得る。例えば、アルファベットの数十文字がランダムに並んでいたとすると、その中にitのような2文字の単語がどこかに含まれていても不思議ではなく、デザインとは言えない。2文字の単語は、偶然とは考えにくいというほど、あり得ないものではない。すると(偶然によってデザインは生まれないと言うためには)それはどれくらい複雑な(確率の低い)ものでなければならないか? デムスキーは、偶然がなしうると考えうることの数量 的上限を、彼のいわゆる普遍的確率限度(universal probability limit)によって定める。宇宙歴史を通じての出来事の総数は、宇宙に存在する素粒子の数(約1080)×ビッグバン以来の秒数(1025以下)×一つの物理的状態が別 の状態に移行する最高速度(1045, Planck 時間を基準に)を上回ることはできない。従って、ビッグバン以来のすべての素粒子の状態変化の総数は、10150を超えることはできない。だから10-150以下の確率をもつものは何であれ、偶然によるものではありえない。(Dembski 1998, pp. 209-213)

しかし現実的には、普遍的確率限度は必ずしも有用ではない。そこでデムスキーは、もう一つの判断基準である特定性(specificity)すなわち、独立に与えられたパタンとの符合ということを導入する。例えばもし人が、28個の文字と字間スペースがつながったWDLMNLT DTJBKWIRZREZLMQC O Pという配列を見たとき、この正確な配列は高度に確率の低い(従って複雑な)ものではあるが、その人はそこにデザインを見て取ることはないだろう。しかしもし人が、28の文字とスペースがつながってMETHINKS IT IS LIKE A WEASELという配列をなしているのを見たら、我々は直ちにデザインを推論するだろう。なぜならこの配列は、独立に与えられたパタン(すなわち、シェークスピアの『ハムレット』の一行)に符合するからである。従ってデザインを推論導出するためには、「説明のフィルター」は、次の3つの質問すべてに“イエス”と答えることを要求する――1.その特徴は必然性のないもの(contingent、すなわち自然法則や規則性によらないもの)であるか? 2.その特徴は複雑(すなわち高度にありえないもの)であるか? 3.その特徴は特定性をもつもの(specified、すなわち独立に与えられたパタンに符合するもの)であるか? 

従ってデザインを見分ける目安となるのは、特定された複雑性である。デムスキーによれば、人が特定された複雑性に遭遇するときにはいつでも、それは知的主体(超自然的なものである必要はない)の作り出したものだというのが、我々の普遍的な経験である。もし特定された複雑性を自然の中に見出すことができるなら、それもまた知的主体によるものでなければならない。デムスキーが『デザイン革命』(The Design Revolution, 2004)で言ったように、「インテリジェント・デザイン(ID)の基本的な主張は、単純明快でたやすく理解できる――すなわち、自然のシステムには、導かれない(undirected)自然の力によっては十分に説明できず、他の場合なら必ず、我々がインテリジェンスによるものと考える特徴を示すものがある、ということである。」(*17)

スティーヴン・マイヤー(Stephen C. Meyer)

「還元不能の複雑性」と「特定された複雑性」は、デザインの推論を公式化する唯一の方法ではない。哲学者のポール・タガード(Paul Thagard)によれば、「科学理論であることを推論判断するものは、単に理論と証拠の関係という問題だけではない。それはまた 競争し合う理論の証拠への関係をも考慮するものでなければならない。推論判断(inference)とは、いくつか代替理論の間から選ぶという問題であり、我々は、そのうちのどれが最上の説明を与えるかによって選択するのである。」(*18)

地質学者で科学哲学者のスティーヴン・マイヤーは、「説明のフィルター」を補うものとして、この「最上の説明の推論判断」というアプローチを用いている。マイヤーによれば、DNAのサブユニットは4文字のアルファベットのようなもので、「意味を伝える英語の文章か、コンピューター・ソフトウェアの機能するコードの列と同じように」情報を運ぶものである。この情報は、化学や物理の法則に還元することはできない。2003年、マイヤーはこう書いている――「英語のセンテンスやコンピューター・ソフトウェアに含まれる情報は、インクの化学構造や磁気の物理学から生ずるのでなく、物理学や化学とは全く関係のない別 の源から生ずるのである。実際、この両方の場合とも、メッセージは媒体の性質を超越している。DNAに含まれる情報も、その物理的媒体の性質を超越したものである。」だから生物学的情報は、自然の法則や規則性によるものではない。(*19)

典型的な一つの遺伝子には、何百というこのようなサブユニットが含まれ、一つの生物はは少なくとも何百という遺伝子をもつから、一つの生物のDNAによって運ばれる情報はきわめて複雑なものである。しかも一つの生物が必要とするのは、どんなDNAでもよいのでなく、機能するタンパク質をコードするDNAである。機能するためには、一つのタンパク質は非常に特殊な配列をもっていなければならない。だからDNAに含まれる情報は、必然性のない(contingent)ものであるだけでなく、特定化されたものである。

歴史的科学(歴史的に見た科学)は、その特徴として、現在において観察される原因は過去の出来事にも適用できるという一貫性原理に依存している。この論理に従ってマイヤーは、DNA情報の起源に対する最上の説明を科学的に推論判断する仕方を定式化した。「経験から我々が知っているのは、意識をもつ知的主体は、情報に満ちた配列やシステムを創り出せるということである」と彼は書いた。「知的主体は大量 の情報を生み出すことを我々は知っているが、知られているすべての自然の過程はそんなことはしない(できない)のだから、細胞に含まれる情報の起源の最上の説明は、デザインであると我々は推断することができる。」(Meyer 2003, p. 268)

マイヤーによれば、「最上の説明の推論判断は、単に他の原因の説明が不適格だという理由で、別 の原因の説明の適格性を主張するのではない。そうでなくこの方法は、多くの競合する仮説の説明力を比較することによって、どの仮説がある関連し合うデータ群に対し、最上の説明を与えるであろうかを決めるのである。」(Meyer 2000, 2003)IDと競合して生物学的情報の起源を説明しようとする主たる仮説は、DNAの分子的サブユニットが自分自身を組み立てて原始的な細胞を形成したというものである。しかし、科学者たちは確かに、DNAやRNAやタンパク質の分子的構成ブロックのあるものは自然条件のもとで形成されることを示しはしたが、あらかじめ存在する細胞もしくは(人間の)知的デザインがなければ、これら構成ブロックがひとりでにできあがって、大きな、情報を運ぶ分子になることはない。生きた細胞の外にそのような分子を作り出すことのできる、現在において知られている唯一の原因は知的デザインだけだから、過去においても、あるインテリジェンスが何らかの仕方で働いて、現存するような情報量 豊かな配列を、生きた細胞の中に作り出したと推論するのは、道理にかなったことだとマイヤーは主張する。

2004年、マイヤーはProceedings of the Biological Society of Washington(スミソニアン研究所の生物学論集)に、「生物学的情報とより高い分類学的範疇の起源」(The Origin of Biological Information and the Higher Taxonomic Categories)と題する論文を発表した。マイヤーは、カンブリア爆発における主要な動物の体設計の起源は、複雑で特定化された情報の莫大な増加を必要とすると論じ、こう書いた――「生物学的情報の起源の問題を分析してみるならば、知的主体だけが持つと分かっている力に等しい原因的力が、自然選択にはないことがわかる。知的主体は未来を見通 すことができる。そのような実体は、機能する対象物を、それが存在する前に選ぶことができる。」ID理論家は「証拠に裏付けられない恣意的な説明要因を仮定しているのではない。そうでなく彼らが仮定しているのは、問題となる現象が要求する、まさにその属性と原因的力を持った、ある実体である。」(*20)

ギエルモ・ゴンザレスとジェイ・リチャーズ(Guillermo Gonzalez & Jay W. Richards)

ほとんどのID議論は現在、生き物のデザインに焦点をあてるが、宇宙のデザインに焦点をあてる議論もある。共著である『特権的惑星――いかに我々の宇宙での場所が発見のためにデザインされているか』(The Privileged Planet: How Our Place in the Cosmos Is Designed for Discovery, 2004)の中で、天文学者ギエルモ・ゴンザレスと哲学者ジェイ・リチャーズは、宇宙とその中での我々の場所は、生命のためのみならず、科学のためにもデザインされていると論じた。(*21)

共著者は他の学者によっても指摘されていることを反復する――すなわち多くの宇宙の物理常数(重力の強さ、電磁力の強さ、陽子と電子の質量 比など)が生命のために驚異的に微調整(fine-tuning)されていて、これらの常数のどれでも、ほんのわずかに違えば宇宙は住めない場所になる。ゴンザレスとリチャーズはまた、我々の「天の川」銀河は生命を支えるのに、まさに正しい種類の銀河系であり、我々の太陽系は天の川の比較的狭い「銀河居住可能ゾーン」(galactic habitable zone)に位置しており、そこは危険な放射線や彗星の衝突の脅威を最小限に、また大きな岩石惑星を形成するのに必要な、重い元素の利用を可能にする位 置であることを指摘する。

我々の太陽はまさに正しい大きさをもち、生命を支えるのに必要な安定性を保っている。我々の太陽系の他の惑星と違って、地球は適度な温度と液体の水を表面 にもつことが可能な、比較的狭い「環恒星居住可能ゾーン」(circumstellar habitable zone)に位置している。しかも地球が大気をもち、乾いた陸地と海からなり、防御のための磁場を作り出しているのは、それを可能にするちょうど正しい大きさのためである。更に月は、地軸の傾きを安定させ、それによって気温の激しい変動を防ぐための、ちょうど正しい大きさと、地球からのちょうど正しい距離にある。それはまた、陸からの栄養分を海水と混合する潮汐を起こすのを可能にする。

この地球は生命のために特別に適しているだけでなく、それはまた科学的発見のためにも見事に適している。天の川は渦巻銀河であるために比較的平たく、銀河の中心と端の中間あたりの我々の眺望地点から、遠くの銀河をはっきり見ることや、ビッグバンの証拠となった、かすかな宇宙背景マイクロ波放射をとらえることが可能となる。我々の太陽系もまた科学的発見のために見事に適している。単純な円に近い惑星の軌道や、地球を廻る大きな月は、科学者たちを重力の正確な理解へと導いた。

同じパラメーターはまた、天文学において決定的な役目を果 してきた皆既日食を可能にする。皆既日食が続いている間、月は正確に太陽の表面 を覆い、外縁の希薄な大気だけが地球から見える。この外縁の大気を研究することによって、天文学者たちは太陽や他の恒星の組成について諸々の発見をすることができた。皆既日食はまた、アインシュタインの一般 相対性原理のテストの手段にもなった。もし月が大きすぎたり小さすぎたら、あるいは近すぎたり遠すぎたりしたら、このような発見やテストは遅延され、おそらく無限に遅延されたかもしれない。ゴンザレスとリチャーズは、月のサイズと軌道は科学のために注文して作らせたかのようだと言う。

だから最も生きるのに適した宇宙の場所が、同時に、宇宙についての科学的発見に最も適した場所でもある。ゴンザレスとリチャーズはこう書いている――「我々の存在を可能にする、まさにありえないような諸々の特質が、我々の周囲の世界についての諸発見のための最上の条件をも提供するということには、当然と考えるべき明白な理由は全くない。我々はこれを単に偶然の一致だとは考えない。それは別 の説明を求めるものである――すなわち、我々がこれまで抱いてきた、あるいは想像さえしようとしてきた宇宙像以上の何ものかが、宇宙にはあることを示唆するものである。」彼らは、複雑な生命体に必要な要因と、科学活動のために必要な要因の調和する関係は、「宇宙の目的と知的デザインを指し示す、意味のあるパタンを形成している」と結論する。(*22)


論争の諸相
インテリジェント・デザイン理論は1980年代に、長く続いたダーウィン進化論と創造論の論争の只中に現れてきた。ダーウィン進化論は、すべての生物は一つの共通 の祖先から出たものであり、それらは何億年という年月をかけて、導かれない(unguided)自然の過程によって変化してきたものだと主張する。「若い地球‐聖書創造論」は、創世記の意味を解釈して、神はほんの数千年前に主な生物種を、1日24時間の6日間に創造したと取る。そのため、ダーウィン進化論と創造論の論争の多くは、地質学的な年代と、聖書が生物の起源についての信用できる本であるか否かを争点としてきた。アメリカでは、様々な法廷判決が、創造論は科学というより宗教であり、従って公立学校の理科授業においては、ダーウィン進化論の代替理論として教えることはできないとしてきた。

IDを批判する人々のある者はこれを「インテリジェント・デザイン創造論」と呼ぶが、これは創造論を非とした法廷判決がIDにも当てはまるという意味を含ませている。しかしID唱道者たちは、IDは聖書にも他のどんな宗教書・教義にも基づくものではないと主張する。またそれは、地球の年齢についても一定の立場を取らず、デザインする主体を神と特定もせず、また主要な生物種は共通 祖先から出たのでなく別々に創造された、とも特に主張しない。そのため歴史家のロナルド・ナンバーズ(Ronald L. Numbers、ID唱道者ではない)は、「インテリジェント・デザインの信用を失くさすには、これを創造論と呼ぶのが最も簡単な方法だ」が、それは不正確だと言っている。(*23)

IDをめぐる論争の多くは、これを創造論と同一視する(混同する、と言ってもよい)ところから来るようにみえる。しかし、それとは独立した別 の論争の側面がある。それらは哲学的、科学的、教育的、神学的なものに分けられる。

哲学

論争の一つの哲学的側面は、人間によるデザインと非人間によるデザインとを類推によって論ずることが適正かどうか、ということに関わる。ID批判者の中には、人が人間の活動による産物を推論できるのは、人間という作用主体の目的や能力を経験で知っているからであって、宇宙や生物を生み出した実体が何であるにせよ、そのものがデザインによってそうしたと自信をもって言える者は誰もいない、と批判する者がいる。哲学者のエリオット・ソーバー(Elliott Sober)はこれが「デザイン理論のアキレス腱」だと考える。有名な19世紀の自然神学者ウィリアム・ペイリーの時計の比喩を用いて、ソーバーはこう書く――「我々が野原で時計を見つけたら、我々はこの時計が、日常よく知っている人間の目的や能力をもつデザイナーが作ったという仮説の上で、この時計の諸特徴が特にありえないものではないと知る。これは時計作者と生物や宇宙の仮定的作者との間の、深い反アナロジーである。我々は後者の場合には、日常的に知っている人間の職人とは根本的に異なる、あるデザイナーを考えたくなる。ところが、もしこのデザイナーがそれほど異なった存在なら、そのものが我々の見ているものを作ったのだろうと、どうしてそれほど自信をもって言えるだろうか?」(*24)

数学者で哲学者のウィリアム・デムスキーはソーバーの批判を退け、この類比を弁護する――「我々のデザインの推論の仕方は、規則的で信頼できるものであって、必ずしもデザイナーの性格を知る必要もなく、またそのものが何をしそうか予め知る能力も必要ではない。…我々は、デザイナーの心の中に入り込むことによってデザインを見出すのではない。そうでなく我々は、インテリジェンスの明らかなしるしを示す物理的世界の結果 を見て、そのしるしからデザインするインテリジェンスを導き出すのである。このことは肉体をもつ最も議論の余地のないデザイナー、すなわち仲間の人間に対してさえ当てはまる。我々が彼らのインテリジェンスを認めるのは、彼らの心に溶け込むことによってでなく、彼らの行為の跡を調査し、それらの行為がインテリジェンスの兆候を示しているか否かを決定することによってである。」(Dembski 2004, pp. 192-193)

論争のもう一つの哲学的側面は科学の性格に関わるものである。哲学者たちはこれまで、いかに科学を定義するか、またそれを非科学からどう区別 するかについて意見が一致していないが、科学的仮説はともかくも経験的に検証可能でなければならないという意見の一致はある。1999年、米国科学アカデミー(U. S. National Academy of Sciences)は、「インテリジェント・デザインや他の、生命や種の起源に超自然的介入を主張するものは、すべて科学の方法によって検証できないものであるから、科学ではない」と宣言した。(*25)

仮説をテストする可能な一つの方法は、それと調和一致する証拠を見つけることである(いわゆる「証明」)。しかしほとんどの科学者は、たとえ占星術者が時に証明可能な正しい予言をしても、占星術を非科学的とみなす。可能なもう一つの仮説テストの方法は、それと調和一致しない証拠を見つけることである(いわゆる「反証」)。しかし科学哲学者ラリー・ローダン(Larry Laudan)が指摘するように、これは「あらゆる明らかに虚偽の主張をする、おそまつな説を、「科学的」として許容するという都合の悪い結果 をもつ。」(*26)

科学は、証明とか反証とかいう言い方では十分に定義できないので、これを「方法論的自然主義」という言葉で定義する人々もある。この見方によれば科学は、超自然的原因によるものを除いた経験的証拠に依存するから、自然的説明のみに限定されることになる。IDを批判する人々は、それは超自然的デザイナーを持ち込むもので、従って検証不可能であり、科学的と認めることはできないと主張する。ID弁護者はこれに反論して、IDは経験的に観察可能な結果 からデザインを導き出すのであって、その原因性は、人間の知能が超自然的でないのと同じく、超自然的である必要はないと主張する。

方法論的自然主義は、形而上的(存在論的、哲学的)自然主義、すなわち自然が存在するすべてで、霊とか神といった超自然的実体は存在しないという見方とは区別 される。前者は科学の限界について言うものだが、後者は現実世界のすべてについて言っている。しかし哲学者の中には、科学者たちは現実のすべてが彼らの方法によってとらえられるかのように振舞う傾向があるので、この区別 は実際には役立たないと論ずる人たちがいる。哲学者のデル・ラッチ(Del Ratzsch)が書いているように、「もし科学を自然的なものに限定し、科学は原則的にすべての真理に達することができるかのように振舞えば、無言のうちに哲学的自然主義を取っていることになる。…方法論的自然主義は、時にそう思われているような謙虚なものではない。」(*27)

哲学者たちは、科学の定義についてだけでなく、インテリジェント・デザインのような特定の仮説を締め出すためにその定義を利用することの当否についても、見解が異なる。それが本物か偽物かは、科学の定義に訴えることによって決まるかのように言う場合があるからである。ローダンによれば、焦点は「世界についての主張の経験的・概念的な信用度に当てられるべきである。これらの主張のいわゆる「科学的」な地位 は全く無関係である。」(*28)

科学

インテリジェント・デザインは経験的に検証不可能だから非科学的だという言明のほかに、ID批判者たちはまた、経験的な証拠も間違いであると論ずることがある。

例えばマイケル・ビーヒーは、人間の血液凝固カスケードに見られる還元不能の複雑性はインテリジェント・デザインの証拠であると考える。しかし1997年、生化学者ラッセル・ドゥーリトル(Russell F. Doolittle)は、一つのグループのマウスからこのカスケードの一つの構成部分を取り除き、別 のグループのマウスから別の構成部分を取り除けば、両グループとも機能する凝固システムを失うことが、実験の結果 わかったと書いた。しかし、とドゥーリトルは主張した、「これら二つのマウスの系統を交配させてみると、すべての現実的目的のためには、これら両方の遺伝子を欠いたマウスは正常だった!」そして彼は結論して、「還元不能の複雑性についての主張とは裏腹に、タンパク質の全部品は必要ではない、」だから血液凝固のカスケードは、ダーウィン進化のコンテクストの中で説明することができる、と言った。(*29)

しかしビーヒーによれば、ドゥーリトルは自分の議論を根拠づけた科学論文を間違って理解していた。二つの不正常なグループのマウスを交配させたとき、その子孫は正常ではなく、機能する凝固システムを欠き、ひんぱんな出血に苦しんだ。ビーヒーの結論は「血液凝固の進化ということについての詳しい説明は科学文献には全くなく、ダーウィン側の抗議にもかかわらず、このシステムの還元不能の複雑性はダーウィニズムにとって重大な問題となる」というものであった。(*30)

生物学者ケネス・ミラー(Kenneth R. Miller)は、バクテリアの鞭毛が還元不能の複雑性をもつというビーヒーの主張に反対する。ある種の病原菌は、相手の細胞に毒液を注射するタイプ3分泌システム(TTSS)と呼ばれる構造物をもつ。このTTSSは他のバクテリアのもつ鞭毛装置の、あるサブセットに似ている。これをとってミラーは、TTSSは全体としての鞭毛の一部を用いた別 の機能をもつのだから、鞭毛は還元不能に複雑なものではないと主張する。彼は「これが意味するのは、鞭毛についてのインテリジェント・デザインの主張は失敗したということだ」と結論する。(*31)

ビーヒーはこれに応えて、還元不能に複雑なシステムは、他のコンテクストにおいて他の機能を果 す部分(部品)をもつことがあると言う。例えば、機械工は船外モーターを分解し、ガソリン・エンジンを単独で動かすこともできるが、船外モーターはそれなしには機能しない。ビーヒーによれば、ミラーは「このシステムのロータリー推進機械としての機能から、そのシステムの一つのサブセットの、膜を通 してタンパク質を移送する能力へと、焦点を切り替えている。しかし鞭毛の部品を取り去れば、このシステムのロータリー推進機械としての能力は、今まで論じてきた通 り、確実に損なわれるのだから、ミラーの見解とは逆に、鞭毛は確かに還元不能の複雑性を示すのである。」(*32)

ミラーはまた、生命起源についての研究からくる証拠は、知的デザインこそDNAの豊かな情報をもつ配列の起源の最上の説明だとする、スティーヴン・マイヤーの仮説を退けるものだと言う。「RNAワールド」仮説によれば、生命は、比較的単純なタンパク質やRNA分子の非生命混合物が、自己複製を始めたときに始まったものである。この仮説に基づいてミラーは、その後は自然選択がこの混合物を洗練して、最初の生きた細胞を――知的デザインの必要なしに――創り出すのに十分な情報を蓄積し始めたのだと論ずる。(*33)

マイヤーはこれに応答し、ミラーの言うようなタンパク質やRNA分子は、すでに複雑で特定された情報を保持しているが、その起源は説明されていないと主張する。その上、念入りに統制された実験室環境で知的にデザインされた分子によってさえ、RNAワールド研究者たちは、生きた細胞の特定された複雑性に近似的な、いかなるものも創り出していないと言う。マイヤーによれば、インテリジェンスのみが、RNAやDNAのもつ大量 の生物学的情報を創り出すことができると分かっている、唯一の原因である。(*34)

ID批判者たちはまた、科学者世界の合意によって、ダーウィン進化論が圧倒的に支持され、IDは拒否されていると指摘する。アメリカの多くの科学学会はその旨の声明を出している。(*35) ID唱道者たちはこれに対し、科学において重要なのは証拠であって多数意見ではなく、科学者の合意がしばしば信頼できないものであることを、歴史は示していると反論する。

批判者の反対理由には、IDは科学的に生産的であることはできない、その理由は、可能性のあるメカニズムを探究するかわりに、IDは単に「神がそうしたのだ」と言って探究に終止符を打つからだ、というのがある。ID理論家はこれに反論し、生物をデザインされたものとみる科学者は、生物を導かれない自然過程の、偶然の副産物とみる科学者の見落としていたメカニズムを発見するだろう、と予言する。

教育

教育におけるインテリジェント・デザインをめぐる論争の多くは、これを聖書の創造論と混同するだけでなく、ダーウィン進化論を批判するだけの理論と考えるところからも生じている。進化論批判はたしかに、「説明のフィルター」や「最上の説明の推論判断」によってデザインを導出するための第一歩ではあるが、人は(多くの科学者がそうしているように)デザイン理論を唱えることなしに、ダーウィン進化論を批判することができる。

カンザス、オハイオ、ペンシルヴェニアの各州は、アメリカの教育論争が最も表面 化した州である。カンザス州教育委員会が1999年に理科基準の改定を行ったとき、何人かの委員が、大進化(macroevolution、新しい種や器官や体設計の起源)をめぐる科学界の論争の事実を教育内容に入れたいという希望を述べたが、ダーウィン派の委員たちはこれを拒否した。妥協の結果 として、進化にあてるスペースは増えることになったが、そこには小進化(microevolution、存在する種の内部での変化)だけが含まれていた。これを受けてダーウィニストたちは、カンザス州は進化論を教えるのを禁止した、もしくは創造論教育を義務付けたと主張した。インテリジェント・デザインは問題にはならなかった。次の教育委員選挙では、ダーウィン派の候補者がカンザス州教委議席の多数を占め、2001年、州教育基準を改定して大進化を含めることになった――そこに科学界の論争についての文言は全くなかった。

2002年、オハイオ州教育委員会は、理科基準を改定してダーウィン進化論の代替理論としてのインテリジェント・デザインを取り入れるべきかどうか議論した。委員会は結局、新しい理科基準を採用し、「いかに科学者たちが、進化論の諸相の吟味と批判的分析を、現在も継続しているかを説明する」ことが、教師に求められることになった。しかしこの基準は次のようにも述べていた――「この基準の意図は、インテリジェント・デザインの教育や試験を命ずることではない。」ところがダーウィニストたちは、カンザスにおけるように、この委員会は創造論を教えることを命じたと吹聴した――この場合それはインテリジェント・デザインを意味した。

2004年、オハイオ州教委は、ダーウィン派が多数派ではなくなった。そこで委員会は再び科学基準の見直しを決定した。2005年、何人かのID唱道者からの証言を聞いた後、委員会は、ダーウィン進化論の証拠の批判的分析を要求する基準を採用したが、インテリジェント・デザインの研究は命じなかった。ダーウィニストたちが委員会に対し、IDを科学カリキュラムに挿入したといって批難したとき、委員会はこう強調した――「このカリキュラム基準は、学生が現代進化論の最上の証拠について学ぶことを求めるものだが、同時に、科学者たちがこの理論に対し科学的批判を展開している領域をも学ぶことを求めるものである。…我々はまた、この科学カリキュラム基準は“インテリジェント・デザイン”を含まないことを強調するものである。」

2004年、ペンシルヴェニア州、ドーヴァーのある地方教育委員会が学校当局に対し、ダーウィン進化論を学ぼうとする公立の高校生徒に、次のような声明文を読み聞かせることを求める方針を決めた――「ダーウィン理論は一つの理論であるから、新しい証拠が発見されるごとに、テストされ続ける。この理論は事実ではない。この理論には証拠の存在しないギャップが存在する。理論とは、幅広い観察結果 を一つにまとめる、よくテストされた説明と定義される。“インテリジェント・デザイン”はダーウィンの見方とは異なる一つの生命起源の説明である。参考書『パンダと人間』(Of Pandas and People)が、“インテリジェント・デザイン”とは実際にどういう内容のものかを理解しようと興味をもつ学生諸君のためには役立つであろう。いかなる理論に対しても、学生諸君は自由な心をもって接することが望ましい。」(*36)

シアトルにあるディスカヴァリー研究所の「科学と文化センター」(CSC)は、ドーヴァーの教育委員会にその教育方針を撤回するように勧めた。(CSCはダーウィン進化論をめぐる論争を教え、インテリジェント・デザインを進んで論ずる教師の権利を保護することは提唱するが、教育委員会がIDを教えるように命ずることは勧めない。その理由は、そういうことをするのは「ただこの理論を政治化するだけであり、この理論の長所の公平で自由な討論が、学者間や科学者共同体の中で行われるのを妨げることになるからである。」(*37))ところがドーヴァー教委は耳を貸さず、結果 、アメリカ自由民権連合(ACLU)が連邦地方裁判所にこれを提訴した。2005年12月、裁判長ジョン・ジョーンズ(John E. Jones)三世は、ドーヴァーの教育方針は合衆国憲法第一修正箇条(政教分離の原則)に抵触するという判決を下した。ジョーンズは「IDは興味深い神学的議論であるが、それは科学ではない」と結論し、ドーヴァー教育委員会は、「科学的進化論を否定したり誹謗したりすること」を教師に要求したり、IDを論ずるように要求してはならないと命じた。

ID批判者たちは、この判決を完全な勝利として歓迎したが、(*38) 法学教授(にしてID批判者)のジェイ・ウェクスラー(Jay D. Wexler)は「裁判官がその文書見解の中で、IDが科学であるかないかを法の問題として決定すべきかどうか」を疑うと述べた。(*39) 法学教授(にしてID弁護者)のデイヴィッド・デウォルフ(David K. DeWolf)は、法学者(にしてCSC共同創設者)ジョン・ウエスト(John G. West)とともに、この裁判官の判決文のIDに関するセクションの90パーセント以上――いくつかの事実の誤りを含めて――は、ACLUが一ヶ月前に提出した「事実報告と法の結論」からの丸写 しであることを指摘した。(*40)

2006年2月、半ばドーヴァー判決に影響されたオハイオ州教委が、この州の理科基準からダーウィン進化論の批判的研究を削除した。数ヵ月後、ダーウィン支持派委員がカンザス州教委の多数派を回復し、2007年2月には、新しく結成された委員会が、カンザス州理科基準からも進化論の批判的研究を取り除いた。その間一方では、サウスカロライナ州が、進化論の批判的分析を要求する理科基準を採用していた。(*41) しかし多くの報道とは逆に、これらの州の基準で、インテリジェント・デザインを教えることを含むものは一つもない。

神学

ダーウィン進化論とインテリジェント・デザインの論争には、いくつかの神学的問題が関わってくる。『種の起源』第二版においてダーウィンは、生命は「初め創造者によって、いくつか、あるいは一つの形(form)の中に吹き込まれた」と書いた。(*42) しかし書簡の中で彼は、「生物の多様性や自然選択の作用にデザインがないのは、風の吹く方向にデザインがないのと同じことに思えます」と書いている。そして最後にこう言った――「私はこの宇宙を盲目的な偶然の結果 と見ることはできません。しかし私はその細部においては、善意あるもののデザイン、また、いかなる種類のデザインの証拠も見ることはできません。」(*43) ダーウィンの考え方では、ある神がこの宇宙と法則をデザインしたかもしれないが、進化の産物(人間のような)はデザインされたものでない、ということかと推測される。

一世紀後に、古生物学者ジョージ・ゲイロード・シンプソン(George Gaylord Simpson)は『進化の意味』の中でこう書いた――「人間は、彼のことなど念頭になかった、目的のない、自然の過程の結果 である。人間は計画されたものではない。」(*44) 分子生物学者ジャック・モノー(Jacques Monod)は、DNA変異の化学的根拠の発見とともに、「ダーウィニズムのメカニズムはついに確固たる土台の上に築かれた」だから「人間は自分が単なる偶然であることを理解しなければならない」と宣言した。(*45) そして古生物学者スティーヴン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould)は、ダーウィン進化論は「神の似姿に創られた最高作品という我々の地位 を奪い去った」と書いた。(*46)

多くの人々にとって、これらの言明は、神はそもそもの初めから人間を計画していたと説くキリスト教の創造教義(聖書的「創造論」と混同してはならない)と矛盾するものである。2005年の就任法話で、法王ベネディクト16世は、「我々は進化の偶然的で無意味な産物のようなものではありません。我々の一人びとりが神の思いの結果 です」と言った。(*47) 哲学者のアルヴィン・プランティンガ(Alvin Plantinga)によれば、ダーウィニズムの主張するのは「人間はある重要な意味において単なる偶然的なもので、いかなる計画も、いかなる予見も、いかなる心も、いかなる想像力も、人間の出現には関わっていないということである。しかしもちろん、どんなキリスト教的有神論者も、そんなことを一時でも真面 目に受け入れることはできない。」(*48) IDは、神の存在とか、人間が神の似姿に創られたという主張を必然的にはしないが、それはデザインを肯定することによって、こうした神学論争に関わることになる。

もう一つの神学的問題は、摂理(providence)、すなわち神は宇宙を創造しただけでなく、これを支え導き続けているというキリスト教的教義に関わる。導かれない自然的過程がすべてを十分に説明するという唯物論的な見方は、この教義に矛盾することになる。

キリスト教徒の中にはこの矛盾を解決しようとして、自然的因果 の連鎖は切れ目がないが、それが持続しているのはただ神がそれを摂理の力で支えているからだ、と論ずる者がある。地質学者キース・ミラー(Keith B. Miller,福音派クリスチャン)はIDについて、それは「神が物理的因果 の過程を妨げるべく介入する」「穴埋めの神」(God of the gaps)といわれるアプローチだと批判する。ミラーは言う――「私は神がすべての時間にわたって関わっていると考える。これに対してID主導者は本質的に、我々の現在の科学的理解にギャップを見つけようとし、それを神の働きの証拠として用いようとするものだ。」(*49)

ID主導者のウィリアム・デムスキー(同じく福音派クリスチャン)はこれに反論し、自然的原因だけで事足りると想定する十分な理由はないと言う。そこには単に我々の限られた理解力の作り出したものでない、現実のギャップがあるかもしれない。デムスキーは「論争の中心問題」を次のようなものと考えている――「自然(物的原因の閉鎖系として定義された)は、我々の周囲の情報豊かな生物学的構造物をもたらすのに必要な、すべての源泉を含んでいるという意味で“完全な”ものであろうか? それとも、自然はこれらの構造物をもたらすのに、何らかのデザインの寄与を必要としているのだろうか?」その場合でも、デザインは必ずしも神を必然的なものとはしない、とデムスキーは指摘する。

更にもう一つの神学的問題は、神義(弁神)論(theodicy)すなわち悪の問題に関わる。キリスト教神学は、人間の道徳的悪を、人間が自由意志を誤用したときに生じた堕落から来るものとする。しかし人間の自由意志から離れた「自然悪」――動物の捕食、病気、自然災害など――についてはどうなのか? もし神が完全な善であり完全な力だとしたら、どうして神はこのような悪に満ちた世界を創造したのだろうか? 

ダーウィンはこの問題に深く悩んだ。植物学者アサ・グレイ(Asa Gray)への手紙で彼はこう言っている――「この世界はあまりにも悲惨に満ちているように思えます。私には、善意ある全能の神が、意図してヒメバチを創り、それが生きた青虫の体の中に入ってこれを食べるように明確に計画していたとか、猫がネズミを弄ぶように計画していたとか考えることはできません。それが信じられないので、眼は明確にデザインされたものと信ずる必然性を私は認めないのです。」(*50) 生物物理学者コーネリアス・ハンター(Cornelius G. Hunter)によれば、ダーウィンが彼の自然選択説を公式化する動機となったのは、一つはこの問題であり、それは細部を偶然に任せることによって「自然の悪に対する神の責任を免除した」のである。(*51)

IDに対する批判の中には、それは偶然を排除することによって再び自然悪に対する神の責任を問うものだ、というのがある。しかし「説明のフィルター」は偶然の現実性を認めている。だからこそそれは、デザインを推論導出する前に、偶然に基づいた説明を除外しているのである。その上IDは、(世界の必ずしもすべてでなく)ある特徴にデザインを検出することができると言っているだけである。それは神の万能についての神学的主張ではない。

1997年、スティーヴン・ジェイ・グールドは、ダーウィン進化論を巻き込むすべての神学的論争は、間違った考えからきていると書いた。その理由は彼によれば、科学と宗教は「それぞれの教権(magisterium)、すなわち教えの権威の領分を持っているのであって、これら二つの教権は重なり合うことはない(これを私はNOMA――non-overlapping magisterial――の原理と呼びたい)。科学の網は経験的宇宙をとらえ、…宗教の網は道徳的意味や価値の問題の上にかかっている」からである。(*52) グールドにとって、客観的事実の世界は科学、従ってダーウィニズムに属し、宗教は主観的な価値判断に限定されている。

しかしID主唱者のフィリップ・ジョンソンは、NOMAは「実は科学の教権から流出する権力行使である」と言ってこれに反対する。NOMAの観点からすれば、「神学は何の知識をも提供しないがゆえに、認証さるべきいかなる地位 も与えられない。“進化の事実”だけでなく、この宇宙について知られている他のすべてと、人間がどのようにして存在するようになったかを発見したのは、科学――唯物論的前提に基づく科学――なのである。モダニズム神学者のなしうるのはただ、唯物論によって提供された物語に神学的スピンをかけることだけだ。」(*53) ジョンソンによれば、NOMAを受け入れることは神学を明け渡すこと、そして形而上的(哲学的)自然主義を喜び迎えることに相当する。


注と引用文献
精選参考文献(ID支持の本、反IDの本)
リンク(ID支持のインターネット・サイト、反IDのインターネット・サイト)

については、英文オリジナルのサイトを参照されたい――
http://www.newworldencyclopedia.org/entry/Intelligent_Design

[この記事(オリジナル)は2008年4月3日に最終修正されている。]

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