NO.55



何が人を腐らせ、何が蘇らせるか(2
 ―アイオワ州立大学の恥さらし―


『特権的惑星』の著者

 普通はこんなことを書いてはいけない。外国とはいえ、よその大学を貶めるようなことを言うべきではなかろう。しかしこの場合、大学のいわば総意によって、天下に恥をさらすことを選んだのだから仕方がない。
 今これを書いている数日前、アイオワ州立大学の天文学助教授ギエルモ・ゴンザレス(Guillermo Gonzalez)博士が、終身在職権(tenure)を大学によって拒否されたという報道がなされた。これはアメリカの大学の制度で、これを拒否されるということは、実質的に解雇に近いだろう。むろんこれは現在、いろんなメディアが論評中のホットニュースだから、この先流動的ではある。しかし今の時点で十分言えることを言っておきたい。
 ゴンザレス氏は、この連載で何度も紹介した『特権的惑星――いかに宇宙での我々の位 置が発見のためにデザインされているか』の二人の著者の一人である。何度も説明したように、この本は、宇宙はデザインされたもの――そうとしか考えられない――という強力な科学的証拠を提示したものである。素人の私が読んでも、その論証が厳密に科学的であることがよくわかる。この本が科学史上、最も重要な、文字通 り「画期的な」著作の一つとして、時間とともに評価されていくことは間違いないと思われる。現にすでに、そのような評価を広く受けていることは、この本を含めた彼の仕事が、「サイエンティフィック・アメリカン」「サイエンス」「ネイチャー」といった多くの有力科学誌にも引用され、注目されていることからもわかる。
 いったい何が問題なのか? 研究業績に問題でもあったのか?
 ディスカヴァリー・インスティテュート・ニュースによれば、彼の論文の数は、彼の学部の要求する終身在職権認定のための基準を、三五〇%も上回っているという。彼の仕事には次のようなものが含まれる――

● 六八篇の査読付きの科学論文 
● ケンブリッジ大学出版局出版の大学レベル天文学教科書の執筆 
● 二つの新しい惑星の発見につながった先端的研究 
● 太陽系外惑星を発見する新技術の開発 
● 多くの重要な科学出版物のレフェリー(査読者)を依頼されている

 六八篇の論文をはじめ、これらはすべてIDとは関係なく、また講義でIDを教えたこともないという。それは彼自身が「IDはまだ新しく、論争の余地があるので、天文学者仲間の支持なしには教えることはできない」と考えているからである。

執拗な嫌がらせ

  ゴンザレスへの嫌がらせは、二〇〇五年六月、スミソニアン博物館において『特権的惑星』のDVD版が一般 に公開されたとき、すでに始まっていたとジョナサン・ウエルズは言っている。かつて私もこれを感動的だと評したように、一般 の評判は非常によかったらしいが、これに対する妨害がいろいろあった。その中で、ウエルズが「余興」だと言って紹介している滑稽なエピソードがある。この映写 会のうわさを聞きつけたジェームズ・ランディという無神論者が、スミソニアン博物館に、2万ドルの賄賂を出すから、このイベントを取りやめてくれないか、と申し出たのだという。これを知ったディスカヴァリー・インスティテュート研究員の数学者ベルリンスキー(パリ在住)が、一計を案じ、ランディに手紙を送って、「実はヨーロッパでもこの映画を公開する予定なのだが、あなたがスミソニアンに払おうとした2万ドルを私にくれないか、くれたら取りやめてもよろしい、いい取引だと思うがどうかね」と言ってやったのだそうである。――もちろん返事はこなかった。
 この映写会の直後(ほぼ二年前)に、実は、アイオワ州立大学は動き出しているのである。この大学の無神論者にして(!)宗教学教授のヘクター・アヴァロス(Hector Avalos)が、「インテリジェント・デザインを科学的な営みと見せかけるあらゆる試みを拒否する」ように呼びかける意見書を、教授会の席で配布し署名を求めた。この意見書は、ID派学者たちが、「我々の惑星の位 置や、特定の生命形態や過程の複雑性は、宇宙の創造者あるいはデザイナーの存在によってしか、説明できないようなものであると主張する」という理由でもって、彼らを批難するものである。すると直ちに、百二十名近くのアイオワ州立大の教授たちがこれに署名し、やがてアイオワ州の他の二つの大学の教授もこれに署名して、四百名になったという。
 教授会の席で、こういう文書をばら撒く人間がいるのは理解できる。しかしこれに軽々しく署名する人間がこれほどいるというのは、異常というほかはない。この文書はゴンザレスの名をあげてはいないという。しかしゴンザレスを指すのは明らかであった。科学的データをどのように解釈しても自由なはずであるのに、ある解釈はよいが、それ以外の解釈は許さないというのは、明らかに学問の自由を踏みにじるものである。
 これは狂気の沙汰というほかはない。しかし集団的に理性を失わせるものが、この問題の背後にはあるということである。賄賂を使ってでもID派学者を黙らせたいと考える、ジェームズ・ランディのような連中が、これほど大勢いるということである。宇宙にデザインが存在してはどうしても困るという人々が、大学にはこれほどいるのである。彼らは、サルのタイプライターからソネットが生まれなければ、どうしても困る人々である。しかし彼らは、自分たちが決議をして同僚のゴンザレスを否定すれば、あとは心安らかに暮らせると思っているのであろうか? 
 アヴァロスという無神論者の宗教教授は、「アイオワ州立大学無神論・不可知論協会」の創設者でアドバイザーだという。この協会は「人は宗教なしに、充実した、生産的な、倫理的な人生を送ることができると信ずる学生たちに、教育的な援助組織を提供することを目的とする」ものだという。ドーキンズのようなタイプの戦闘的無神論者だが、こういう人物がアイオワ州の大学ではリーダーシップを取っているのである。
 終身在職権の認否は、いわば人を生かすか殺すかという重要な決定だから、決定が三段階になっているらしいが、そのいずれにおいてもゴンザレスは否定されたという。従って、学問上の意見が自分と異なる者を許せないという決定は、この大学の総意によるものである。何という了見の狭さであろうか。何という小人(しょうじん)の集まりであろうか。何という自己否定であろうか。ここから引き出せる貴重な教訓がある。それは何であれ、この世の重大な決定を唯物論者・ダーウィニストに委ねたりすれば、世界は必ず方向を誤るという鉄則である。
 しかしアイオワ州立大学の名誉のために言っておくと、教授の全員がこれに同じたわけではない。シュワイングルーバー(Dave Schweingruber)という社会学の教授が、ある地方新聞にこう書いた――「アヴァロスがゴンザレスの仕事に反対するのはなぜだろう? 彼はデモイン・レジスター紙に対し、自分は聖書学者だから、IDが宗教であって科学ではないことがわかるのだ、と言っている。だからアイオワ州立大は、非公認のバイブル学校や中世の異端裁判所と、一つの共通 点をもっている――この大学の聖書学者たちは、天文学者に研究の仕方を教えることができると考えているのだ。」そして結論として、「魔女狩りは、科学的探究のモデルにはなりえないものだ」と言っている。これによってわずかながら、救われた思いがする。

ゴンザレス博士の陳述

 以下に、この事件に関して行われた記者会見のときの、ゴンザレス博士の陳述を、少し長いが重要なので、記録されている部分全部を引用してみる――

  私はギエルモ・ゴンザレスと申します。アイオワ州立大学の天文学助教授です。同じアイオワ州立大にヘクター・アヴァロスという、自他共に認める無神論者の宗教教授がいます。今かりに、大学にキリスト教徒の教授がいて、アヴァロスを標的にした意見書を配布し始めたと想像してみてください。その意見書にはこう書いてあります――無神論は宗教プログラムには、およそそぐわないものである。だから無神論の科学的あるいは哲学的証拠を示してみせるような、いかなる教授も、大学の名誉を傷つけるものであるから、彼がそうするのを許してはならない――。
 この意見書に署名をする人はここにいますか? 私は決して署名しません。「私はあなたの意見には同意しないかもしれない。しかし、あなたがそれを言う権利は、死を賭してもこれを護る」と言ったのはヴォルテールでした。ところが私は、まさにそのような意見書の標的にされました。しかもそれは、私が終身在職権の候補になる直前のことでした。
 もう一人の州立大教授ジョン・パターソンも、私に対する中傷キャンペーンをやりました。彼はエイムズ・トリビューン紙に投稿し、ディスカヴァリー・インスティテュートのある資金拠出者の名をあげ、私が神権政治の確立を目論んでいると言いました。彼は、私がタリバンにつながりがあるとさえ、ほのめかしたのです。
 私は子供の頃、家族と一緒に、ほとんど着の身着のままで、キューバから逃れてきました。私たちは自由を求めて合衆国へやってきました。だから、私が他の人々と全体主義政府の樹立を企んでいるというパターソンの中傷は、私を非常に傷つけるものです。
 私が経歴をこれほどに攻撃されるような、何をしたというのでしょう? ジェイ・リチャーズと私は、『特権的惑星』という本を書き、そこで私たちは、科学的証拠から、宇宙にはデザインがあるという主張をしています。これは聖書とか、何か個人的な神秘体験などに訴えているのではありません。我々の論証はまた、テストすることができます。宇宙の創造者という観念は、反証することはできませんが、我々の個々のデザインの論証は反証可能です――科学研究から、今、川のように押し寄せてくる、太陽系外惑星、銀河系、そしてもっと大きな宇宙に関する厖大なデータに基づいて、それは可能です。しかし私は、教室でデザインの論証を教えたことは一度もありません。なぜなら、それは天文学を学ぶ学部学生にとっては、まだ新しすぎるからです。
 そういうわけで、教師としての私の役割において、私は私に対する攻撃の理由となるようなことを、何もやっておりません。私はただ、科学的証拠が必然的に私を導くところへ赴くための、そして公開の学問の場で、私の結論に対する論証を提供するための、自由を求めるだけです。

学者の倫理感覚

 おそらくこれは、彼の名著とともに歴史に残る陳述である。学問する者の最も純粋で誠実な態度がここに現れている。しかし、今までの唯物論者・ダーウィニストの言行から判断するかぎり、彼らはこういう言葉を聞く耳をもたない。おそらく彼の著書や論文を読みもしないだろう。謙虚に耳を貸すくらいなら、最初からこのような狂気じみた行動には走らないだろう。学者の世界にそんなことがあるのだろうか、と学者というものに敬意を払う世間一般 の人は、不思議に思うかもしれない。しかしこうした例から、およその実情がわかるであろう。「IDというのは、お話にならない、ひどい理論なんだってねー」「あいつらは科学というものがわかっていないのさ」といった会話を取り交わして、お互いに安心し優越気分にひたるという構図は、世間どこへいっても変わらない。アイオワ州立大学で起こっていることは、どこの大学でも起こりうることだと私は思う。
 教授会や大学そのものが、小人の馴れ合い組合になったら、大学はおしまいである。そして大学の小人組合を構成するのは、この事件(これだけではない)が典型的に示すように、唯物論者・ダーウィニストである。同じスミソニアンの研究所を舞台にして起こった、スターンバーグ迫害事件(これには政府が介入して調査した)というのがあるが、これなど話す方が恥ずかしくなるようなものである。
 こうした学者はいったい何を護ろうとするのか? 彼らは、王将(真理)より飛車(己の理論)を可愛がる者の典型である。ある将棋の高段者が、「あなたが将棋を指していて、最も喜びを感ずるのはどういうときですか」と尋ねられたとき、彼は言下に「大駒を捨てるときです」と答えた。いかに大切にしてきたものであろうと、捨てるべきときがきたら、潔く捨てなければならない。いつまでも恋々としがみつくのは、大局の見えない小人の証拠である。君子は豹変すると言われるのは、時がくれば、今までの自分を一気に否定する勇気をもつ、という意味である。
 学問は武士道に通ずると言ってもよいだろう。真理のためには己を捨てる覚悟を常にもっていなければならない、ということである。これが学問する者の倫理感覚であろう。自然界は謙虚な者にしか姿を表わさない。『意味に満ちた宇宙』の著者が言うように、理論は真理探究の貴重な道具であるが、あくまで真理が優先する。自然界を己の理論でねじ伏せてやるというような傲慢な者に、自然界は姿を見せないであろう。

 

『世界思想』No.379(2007年7月号)

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