NO.52



調和する統一思想とデザイン理論(4)
 ―無限の叡智を読み解く叡智―

 

唯物的還元主義の貧困

 ものを把握するには一つの観点がなければならないが、我々の生きるこの宇宙を大掴みにしようとするときに、唯物論的還元主義などというものがそうした観点になりうるかといえば、絶対になりえないのは明らかである。それは無神論的観点でなく有神論的観点でなければならない。無神論が科学の前提でなければならないと思っている科学者は、ここで必ずこう言う(アメリカのテレビ討論などを見ているとパターンがある)――「有神論とあなたが言うのは宗教の神のことですか? ああそりゃだめだ」
 これは浅はかというよりほかない。有神論的観点といってわからなければ、こう言い換えよう――科学者に必要なのは、自然界に現れた叡智を読み取ろうとする叡智的態度である。叡智(英知とは書きたくない)という言葉は唯物論文化のおかげで、ほとんど死語に近いが、これは復活させなければならない。そこには宇宙の底知れぬ 神秘と、それに対する謙虚さというニュアンスがある。謙虚ということを敗北であるかのように思っているのが現代の唯物論科学者である。講演会の壇上から、現代科学は必ず生命を造るようになると真顔で言い、私が聞き返すと、そんなことは当然であるかのように答えた「気鋭の」科学者がいる(ただし十年近く前のこと)。
 古代ギリシャ人が人間の傲慢(ヒュブリス)を戒めたのはなぜか。これを現代の唯物論科学者に当てはめて言えば、それは傲慢の罪というよりむしろ、自分で自分の可能性を摘み取ってしまうことの罪である。対象を唯物論的に限定すれば、自分自身をも限定することになることに気付かなければならない。
 ここに紹介しようと思うのは、ディスカヴァリー・インスティテュート所属のBenjamin WikerとJonathan Wittの共著になるA Meaningful World: How the Arts and Sciences Reveal the Genius of Nature(『意味に満ちた宇宙――いかに芸術と科学が自然界の叡智を顕わすか』二〇〇六)であるが、この本のポイントは、自然界に読み取れるのは「デザイン」だけでなく深い「叡智」(geniusはそう訳すべきだろう)であり、これを読み解いていくのが科学だという観点である。これはID理論を一歩進めた見識であり、その結果 が「統一思想」に近いものになっていることは注目に値する。二人の著者が『統一思想要綱』を読んだとは思えないから、これは考え方を正しい軌道に乗せれば自然にそうなるということなのだろう。
 まず自然界と芸術作品が、原理的に同じものであることを強調する点で両者は一致する。芸術作品でも、特にシェークスピア作品とのアナロジーが強調され、中でも最後の劇である『テンペスト』に、神の叡智に最も近いものを見ているのは、私自身がかねがね考えていたことと一致する。
 唯物論者には、自然界と芸術作品のアナロジーなど理解できないであろう。なぜなら彼らの解釈では、この宇宙で考えることのできるもの(インテリジェンス)は人間だけだからである。では、そのインテリジェンスはどこからきたかと問えば、それは物質からきたと言う。しかしそれだけでは誰も納得しないので、「自然選択」という不思議なものを持ち出してきて説明するのである。
 しかしそういう独断を捨てて、この本の論証を虚心にたどるなら、自然界と芸術作品のアナロジーの有効さに、誰もが納得できるであろう。これを逆に言えば、この本の示すような観点を理解できない者は、自然界もシェークスピアも共に「読めない」ということになる。「自分は科学者だからシェークスピアなど何の関係もない」とこれまで言ってきた「二つの文化」論争以来の問題が、はからずもここで解決される。シェークスピアを読めないような者は自然界も読めない。逆に自然界を読めないような者はシェークスピアも読めない、ということになる。ただしこれは個人の能力の問題でなく、文化のあり方の問題なのである。

宇宙は意味に満ちている

  統一思想の「統一」の意味の多層性の中にはそれが含まれる。科学と宗教が分裂していてはおかしいように、科学と文学(芸術)が分裂していてもおかしいのである。それでは両方とも生きた知識とはならないし(つまり共倒れ)、情熱をもって世界を読むということもできない。それで学問が発達するか? 
 我々の文化の基調となっている唯物論的還元主義は、宇宙そのものにも、そこに生きる人間存在にも意味を認めようとしない。対象をも自分自身をも物質に還元し、そのようにして自らをものが見えぬ 状態に追い込んでおきながら、それを忘れて、さも大変な真理を発見したかのように、「我々科学者から見れば、宇宙の存在は偶然で、人生には意味も目的も価値もないのだ」などと吹聴する。これが唯物論とりわけダーウィニズム支配の我々の歪んだ文化の姿である。こうした異常な文化のあり方を正常化するには、この『意味に満ちた宇宙』という本の示すような、健全で常識的なものの見方を取り戻す以外にない。
 我々の宇宙が意味に満ちみちていることが、近年ますます明らかになり、これを読み解くには、多くの分野の知見や方法を動員しなければならないのだと著者(たち)言う。

こうした知的な道具を幅広く用いなければならないのは、二つの理由による。まず第一に、宇宙は意味に満ちみちており、その知恵(巧妙さ)の証拠はあふれかえるほどなので、その豊かさを捉えるには多くの専門的訓練が必要になるということが一つ。もう一つの理由は、我々の目標はある呪縛を解くこと、すなわち独断的唯物論という徹底的にしみこんだ習慣のもたらす、一種の知的盲目状態を破ることにあり、この盲目状態はほとんどあらゆる学問分野を覆いつくしているからである。(二十頁)

  「呪縛」という言葉は私もこの連載で何度か使った。まさにわれとわが身を縛っている金縛り状態、例えば生命起源の謎を解こうとするのに、目に見えるものしか考えてはいけない、といった掟を設けて自分を狭く限定するのが我々の唯物論文化である。多くの専門分野にわたって論じなければならないのは、一つの統一的視点がそれを要求するからであって、知識をひけらかすためではない。ある観点を取ることによって、すべての分野の知識が整理され統合されて、宇宙そのものがそうであるところの有機的全体として頭に入ってくるということを、彼らは示そうとしている。そういった啓蒙のためにはこれは不可避である。

宇宙を有機的に捉える

 『統一思想要綱』ではこれがもっと徹底している。目次を見れば、原相論、存在論、本性論、価値論、教育論、倫理論、芸術論、歴史論、認識論、論理学、方法論、とあらゆる分野にわたっており、それぞれの領域について旧来の諸説が分析・批判され、一貫した独自の見方によって全体を統合していく。こういった精神活動のすべてが、宇宙構造そのものとの有機的関係において、有機的一体として捉えられなければ、「知識」にはならないのである。博学・物知りというようなこととは、ほとんど関係がない。
 ワイカーとウィットによるこの本でも、シェークスピアからユークリッド幾何学、元素の周期表、それに天文学、数学、物理学、生物学まで論じられているが、すべて「生きた知識」のためである。彼らは経歴から見ても文学を専攻したとは思えないが、作品の分析は的確であり、現代に流行する文芸批評の本質の把握も的確であり、なぜそうなったのかを生物学と関連させて見事に説明している。シェークスピアをある還元主義的方法によって「解体」し、「シェークスピアとは所詮これだけのもの」などと言うのは、生命をDNAやタンパク質に還元して、「生命とは所詮これだけのもの」と言いたがる現代生物学の愚かしさと同根のものだと言う。それは底知れぬ 叡智を前にしてこれを謙虚に読み解こうとする者の態度ではない。文学研究者も生物学者も、この本の提示する観点によって目を開かれ、現代の知的風土、すなわち自分自身が何であったのかがわかるのである。
 唯物論的呪縛を破るためには、叡智に満ちた宇宙という作品を読み解くための叡智を、宇宙と共有しているという自覚がなければならない。世界も自分も同じ創造者の性質を分有しているという観点がなければ、決してものは見えてこないのである。
 アインシュタインの有名な言葉に、「宇宙について最も理解できないことはそれが理解できることだ」という逆説がある。人間が頭の中で組み立てた最も主観的なものであるはずの純粋数学が、なぜ外界――特に観察の及ばない外界――を優美に解明することができるのだろうか? こうした謎は、この本や統一思想の観点からしか解くことができない。『意味に満ちた宇宙』の著者は次のように言っている。

最も肝要であるがしばしば見落とされている次のような問いを、ここで発することができる――「我々人間のもつ数学的抽象能力と優美さに対する鑑賞能力が、自然についての知識を与えてくれるなどということを、いかなる権利をもって我々は期待できるだろうか? もし宇宙自体がランダムに生まれたもので、我々人間のことなど頭になかったとするなら、そして我々自身の推理能力や美への愛も同様にランダムに生まれたものであるとしたなら、我々が〈データの意味を解き明かす〉道具として、数学の有効性に期待するというようなことが、道理上できるだろうか?」(一〇〇頁)

 統一思想の「認識論」はこの謎を明瞭に解き明かす。それは根源的一者の属性であるロゴスによって宇宙がまず構想され、それが現実に形を取って創造されるのだが(創造の二段階構造説、芸術家と同じ)、そのとき宇宙でなく人間の創造が目的として先にあったから(創造の愛動機説)――つまり最初から「人間を頭において」宇宙が創造されたから――人間は外なる宇宙を認識できるように、その構造を理解できる思考様式(論理、言語、数学)を最初から与えられている。つまり我々人間は、宇宙の構造原理である同じロゴスを与えられて生まれてくる。簡単に言えば、我々は宇宙の作者のロゴスを分有している。そう考えるならば、純粋数学が宇宙の構造を解き明かすことができるという事実に、何の不思議もないことになる。

叡智で叡智を読み解く

 我々骨の髄まで唯物論的思考の染み付いている者からすると、こういった考え方は、ただただあっけにとられるばかりかもしれない。しかしこういった考え方があらゆる分野を統合する整合性をもち、現実世界に適用しても有効であるとすれば、我々は頭を百八十度転回させてみる必要があるのではなかろうか。しかもこうした仮説を支持するような科学的観察データが次々に現れてきている。この連載で何度も取り上げ、前号にも引用したマイケル・デントンや、『特権的惑星』の実証がそれである。『特権的惑星』の結論は、我々はこの上なく理想的にデザインされた宇宙観測所のような、しかも宇宙に一つだけの生命の可能な、奇跡的な星の上にいるということである。天文学(とそこから始まる諸科学)は最初から、創造者の予定として「お膳立て」されていたということである。環境的にそうであるだけでなく、我々の頭脳も――たとえ特定のすぐれた頭脳を通 してであれ――宇宙構造を読み解くことができるようにできているのである。
 こうしたことは純粋に神秘あるいは驚異なのであって、唯物論科学者が傲慢に決め付けるようなことではない。ダーウィニスト流に解釈すれば、我々人間がうまくやっているのは、サルどもに差をつけて――あるいはヘッケルの立場で言えば――黒人や黄色人種どもに差をつけて、勝ち残った結果 であるから、我々の成功の栄光は我々自身に帰せられるべきだというであろう。しかしそういう自己解釈によって何かがわかってくるだろうか。本質的なことは何もわかってこないのである。ダーウィニズムがまさにそうであるように、それは自分をも対象をも袋小路に追い込むだけである。
 底知れぬ叡智から与えられた叡智によってその叡智を読み解いていく――これが最も謙虚であると同時に、最も有効な態度ではないのか? この態度は科学者だけでなく芸術家にも教育者にも、我々の生き方そのものにも求められるであろう。最も有効な知にいたる方法は同時に美や善にいたる方法でもあるということ、科学の根底に倫理があるということ――これは我々が最も待ち望んでいた視点ではないのか? 
 数学の有効性の神秘は、有名な物理学者ユージン・ウィグナーによっても表明されている。「自然科学における数学の理不尽な(unreasonable)有効さについて」という論文(前にも一度言及した)で、ウィグナーは次のように言っている。

自然科学における数学の途方もない有効性は、ほとんど神秘と言ってよいものである。…それに対する合理的な説明はできない。…数学の言語が物理法則の公式化に適合しているというこの奇跡は、我々が理解することもできず、またそれに値する者でもない驚くべき贈り物である。

「我々はそれに値する者でない」という謙虚さは、叡智を受け継いだ者の叡智の証である。

 

『世界思想』No.377(2007年4月号)

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