NO.50



調和する統一思想とデザイン理論(2)
 ―現状を打開する最上の仮説―


未解決の謎に挑戦

『統一思想要綱』の最新英語版New Essentials of Unification Thought: Head-Wing Thought(Unification Thought Institute, 2006) のカバーの折込みに、次のような言葉が印刷してある。

 統一思想は、いかなる困難な問題をも解決することのできる強力な鍵である。この思想を社会に適用すれば、さまざまな社会問題が解決されるだろう。この思想を世界に適用すれば、世界の問題を現実に解くことができる。そして特にこれを共産主義理論や進化論への批判に適用すれば、共産主義やダーウィニズムのあらゆる矛盾が光の下にさらされ、対立案を確立することができる。この思想は新しい生命観、新しい世界観、新しい宇宙観、それに歴史における神の働きの新しい見方を提供する。それはまた、異なった宗教教義や哲学の多様な特徴を残したまま、それらを統一することのできる統合の原理でもある。

 こんな魔法の万能薬のような思想があるのか、単なる誇大宣伝ではないのか、と人は疑って、あるいは驚いて言うだろう。もっともな反応である。そこで現在、ダーウィン派とデザイン派の論争(むしろ闘争)の中心となっている最大の謎、生命の起源という問題について、統一思想がどういう解決を提示するのか見ることにしよう。教科書に騙されて解決済みと思っている人も多いであろうこの見解決の謎に、統一思想が何らかの解決の道筋を示すことができるのか、もしできなければ放棄すればよい。ダーウィニストのように読まないで軽蔑することだけは、やめた方がよい。
 ほとんどの生物教科書は「生命は生命からしか生まれない」ことを認めた上で、しかし最初の生物はやはり無生物から生まれたと考えざるをえない、というような矛盾した説明をする。これでは説明する方も聞く方も気分が悪いだけなのであるが、ダーウィニズム体制下ではそれを口にしてはならないのである。「生命は生命からしか生まれない」と言ったのはパストゥールで、生命発生についての迷信を打ち破った偉人としてのパストゥールのこの言葉が引用されるのはよいが、彼がこう言ったとき、おそらく生命を生み出す方の生命は同じ次元の生命でなく高次元の生命(あらかじめ存在する生命)であったことについては、教科書は何も言わない。唯物論的観点からそれは都合が悪いからである。
 ここで教科書は決まって「ミラーの実験」――現在、有効性を否定されている――を引用し、あるものは「有機物が無機物から無生物的に生まれる」などと説明するが、この奇怪な副詞の原語はabioticallyで、これはダーウィンのブルドッグとして知られるトマス・ハックスリーの造語abiogenesis(無生物的発生)―― a (without)+biogenesis(生物的発生)――からきている。こういういかにも学術的な言葉を造って、「無生物から生物は生まれない事実を巧みにかわそうとした」(David Demick)のは、もう一人のブルドッグ、ヘッケルの造語phylogeny(系統発生)の場合と同じである。いずれもダーウィニズム特有の言葉の詐術である(詐術はイコンによるだけではない)。「無生物的発生」とは、これも教科書が必ずゴチックで印刷し、あたかも事実であるかのような印象を与える「化学進化」(chemical evolution)と同義である。
 そもそも生命や心がモノから発生したなどと考えること自体、理屈抜きに異常なことである。(この宇宙現実の基底として)最初から生命があったと考えることがなぜできないのか? 唯物論者は必死になってそれはできないと言う。しかし最初にモノがあったと考えるのは合理的で科学的だが、最初に生命があったと考えるのは非科学的でおかしい、などという理屈はない。なぜなら生命現象は誰が見ても、目に見える部分と目に見えない部分からなっているからである。最初に(目に見えない)生命の存在を想定することは「迷信」あるいは「宗教」になってしまうから、どんなにおかしな――分解時計の箱振りのような――説明でもこれを死守しなければならないというのなら、いっそ科学者をやめたらよいのである。いわんや、そういった奇矯な生物学者の考えを、あたかも中立の科学思想であるかのように教科書に書くなど、もってのほかである。問題がただの問題ではないことを考えなければならない。これは我々が自分や他人の生命をどう考えるか、どう生きるかに直結するのである。

生命は形だけではない

 統一原理は単純化して言えば、この世界の構造そのものを、目に見えないもの(心、内面 )と目に見えるもの(体、外面)の二面が一体化したものとして捉える。従ってこれは唯物論でも唯心論でもない。しかし我々の当面 の対立者は唯物論者だから、唯物論だけをこの観点から問うてみる。
 唯物論生物学者の言うのは――そして教科書の前提となっているのは――最初の生物(細胞)の組み立てブロックがうまく揃い、うまく組み合わさるのは確かに難しいことだが、それさえ何とかうまくいけば、あとは楽なものだというものである。言い方を換えれば、部品をうまく組み立てさえすれば、理論的には生物は造れるはずだと言っていることになる。例えばノーベル賞受賞者でハーヴァードの生物学教授ジョージ・ワルドは、かつてこう言った。

 この出来事、あるいはそれに伴う他の過程がいかに起こりそうになくても、十分な時間があれば、それは少なくとも一回はほとんど確実に起こるだろう。そして我々の知っている生命にとって、一回起これば十分である。時間は筋書きの主人公である。十分な時間さえあれば、不可能は可能になり、可能は有望となり、有望はほとんど確実となる。

 これは一九五四年の発言だから確かに公平ではない。今日、多くの学者はこれには首を傾げ嘲笑さえするだろう。ところが教科書は学生にこう考えよと今も教えている。これは途方もない詭弁であり、しかも二重の詭弁である。しかしその二重の詭弁のからくりをはっきり認識するためには、統一思想の観点がなければならない。
 これは単なる起こりにくさの問題ではない。こういう論者を論破するには確率を持ち出しさえすればよいと考える人は、相手と同じ迷妄に陥っている。サルがタイプライターを叩いてシェークスピア作品ができる確率はほぼゼロだが、俳句ができる確率ならかなり高いはずである。しかしかりにそのようにして俳句(として通 用するもの)ができたとしても、それは俳句ではなく俳句の形骸にすぎない、と私は前に述べた。そう言うためには芸術の本質が何であるかの問題が、まず了解されていなければならない。芸術とは作者の魂の形象化である。生物が「無生物的に」生まれることがないように、作品は「無作者的に」生まれはしない。
 同様に、生命の本質が何であるかを考えることなしに、生命の起源などを論ずることはできない。統一思想はその点についてこう述べている。

 今日まで、無神論者と有神論者は神の実在に関して絶えず論争を続けてきた。その度ごとに、有神論者たちは「神なしに生命が造られることはない。神だけが生命を造ることができる」と言って無神論を制圧してきたのである。いくら科学が発達しても、生命の起源に関する限り、自然科学は合理的な論証を提示することはできなかった。そして長い間、生命の起源の問題は有神論が成立しうる唯一のよりどころであった。ところが今日、その唯一の拠点が無神論によって破壊されている。科学者が生命を造りうる段階に至ったと主張するようになったからである。
 では果たして科学者は生命を造ることができるのであろうか。・・・今日、科学者はDNAを合成しうるという段階にまで至った。したがって唯物論者たちは、生命現象を説明するのに神の存在は全く必要ないと主張する。結局、神はもとより存在しないというのである。ところで科学者がDNAを合成するということは、果 たして生命を造ることを意味するのであろうか。統一思想から見れば、科学者がいくらDNAを合成したとしても、それは生命体の形状面 を造ったにすぎない。生命のより根本的な要素は性相である。したがって科学者が造りうるのは、生命それ自体ではなく、生命を担うところの担荷体(たんかたい)にすぎないのである。

 これはネオ・ダーウィニズムのDNA還元主義にまだ疑いが持たれなかったころの、ネオ・ダーウィニストの豪語を一応まともに受け止めての議論である。だからここでDNAと言っているのは、最初の細胞あるいは生物種と言い換えても同じである。要するに、生命は(芸術作品も同じ)カタチだけでは生命にならないということである。そこに命の息が吹き込まれなければならないのである。唯物論者はこういう言い方をせせら笑うであろう。しかし話は最後まで聞くものだ。
 統一思想は、生命のこのカタチの面、すなわち見えない生命を実現させる物質的な受け皿の側面 を「形状」と呼ぶ。これに対して、そこに吹き込まれる命を「性相」と呼ぶ。なぜそういう特殊な概念用語が必要かといえば、それは生命の起源というような特定の事象だけにそれが当てはまるからでなく、人間の活動をも含めた宇宙現実のすべてに普遍的に当てはまるからである。

鍵は「一元二性論」

 性相(目に見えぬデザインに当たる)と形状(デザインを実現させる物的条件)に一番近いのは、アリストテレスの形相(因)と質料(因)であろうと、前回私は言った。しかし統一思想もアリストテレスも目的論的世界観を取るという点では共通 だが、この対概念の普遍性という点で全く違うのである。
図1-1唯一論から見た性相と形状の異同性  問題はこの性相と形状という二つの側面の関係である。ここに統一思想の最大の特徴がある。もしこの宇宙に生命をつくろうという意志(構想)があり、たまたまその実現に適した材料があったので、これを利用して生命をつくり始めた、というのであればこれは奇怪な話である。物質に偶然、生命や心が生じ、手足が生えて動き出し、食べたり交尾をし始めるという唯物論者の話ほど奇怪ではないにしても、やはり奇怪なシナリオと言わねばなるまい。つまり性相と形状が関係のない異質なものであったとしたら、生物の創造とは単なる手品のようになってしまうだろう。統一思想はその『原相論』の「性相と形状の異同性」という項目に、その点をこう説明している。

 それでは統一思想の「性相と形状の二性性相論」は一元的なのだろうか、二元的なのだろうか。すなわち原相(注――根源的唯一者の属性)の性相と形状は本来、同質的なものだろうか、異質的なものだろうか。ここで、もしそれらが全く異質的なものだとすれば、神は二元論的存在となってしまう。
 この問題を理解するためには、本性相と本形状(注――神の性相と形状)は異質的な二つの要素か、あるいは同質的な要素の二つの表現態なのかを調べてみればよい。結論から言えば、本性相と本形状は同質的な要素の二つの表現態なのである。
・・・
 そのように性相の中にも形状的要素があり、形状の中にも性相的要素があるのである。したがって、原相において性相と形状は一つに統一されているのである。本質的に同一な絶対属性から性相と形状の差異が生じ、創造を通 じてその属性が被造世界に現れるとき、異質な二つの要素となるのである。

 これは統一思想の「一元二性論」として知られるものである。これが生命起源の謎の鍵を握る。こうしたことは直観に属することなので、このような引用の断片によっても分かる人は分かるであろう。しかし唯物論的・実証的にしか頭が働かず、そういうものしか科学でないと考えている人は、こういったことを軽蔑して分かろうとさえしないであろう。しかし実証的に対象化され数量 化されるものの背後に何があるのかということが直観的に分かっていなければ、対象化・数量 化自体の意味が分からないはずなのである。形而上学なしに形而下学は成り立たない。少なくとも生命や生命の歴史を、それ抜きに考えることはできないのである。

『世界思想』No.375(2007年2月号)

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