NO.48



日本的霊性とダーウィニズム
 ―進化論受容に現れる民族性―


日本人の自然観

 数学者の岡潔(1978年没)という人は晩年かなり精力的に講演活動をしたようだが、その一つにこんなことを言っている。

東洋では自然を無生物だなどと思ってやしない。これは直観なんでしょうね。老子の自然学というものは、自然を無生物だなどと思ってやしませんし、日本の古事記だって国は神が生んだとして、生物と無生物の間に区別 を置いていない。これが正しいでしょう。これは直観でしょう。西洋人だけが無生物だと思うらしいですね。欧米人は無生物から生物が生まれる、と、無生物が生物を生む、つまり体が心を作るという風にしか思えない。それから五感で分からないものはないとしか思えない。この二つの非常な間違いを初めから持っているんですね。…身体だけ見ましても、人の身体は非常に数多くの細胞から成っている。その細胞の配列は実に精緻を極めたものです。単細胞がこんな生物、身体に進化した。これ実に不思議ですね。あなた方は、人が自分でここまで向上したんだと思いますか? そんなこと思えんでしょう。造化が向上させてくれたんだとしか思えないでしょう。造化が単細胞を向上させて人の身体にまで持ってきたのです。じゃあ、そうして一旦、人というものができてしまったら、後は造化の手を離れて自分だけでやれるか。振り返ってみますと、赤ん坊が生まれるとき、最初は胎内に単細胞として現れますね。それが細胞分裂を起こして、そして人の身体になるんですね。これは人が自分の力でやっているんでしょうか? そんなこと思える人いないでしょう。やっぱり造化にやってもらっている。だから一旦、人になってのちも、絶えず造化によって人の五体を作ってもらっている。こう考えた方がずっとよく分かるでしょう?

 「造化」という言葉は「造化の妙」という熟語としてしか使わなくなったが、これは造物主の意味である。岡潔は、こういう考え方が日本人には昔から当たり前のことで、西洋から唯物主義という馬鹿な考えが入ってきてからおかしくなったのだと言う。「西洋人は馬鹿だから」と彼は繰り返し言うが、その馬鹿な西洋人の真似をしなければ利口になれないと思っている日本人が歯痒くてしようがない、という調子で彼はしゃべり続ける。
 「物質から生命は出てこない」と、西田幾多郎も書き物の中で何回となく繰り返している。これはむしろ当たり前のことである。西田が何度も念を押さなければならなかったのは、唯物進化論のようなものがますます幅を利かせるようになっていく当時の雰囲気を感じていたからであろう。唯物進化論が当たり前だと言う日本人が、もし本当に心底からそう思っているとしたら、恥ずかしいことである。
 科学雑誌「サイエンス」の八月十一日号に、進化論の一般 的受容について国別に行った統計調査が載っている。日本は三十四カ国中五番目で、最も易々と進化論を受け入れている民族のトップクラスにいる。アメリカは(トルコに次いで)最も抵抗を示して受け付けない国である。なぜそう答えたのか一人ひとりに尋ねてみれば、おそらく教科書もNHKの番組もそうなっている、「非科学的」なことを言いたくない、といった返答が返ってくるであろう。それはそれで分からないでもない。自分だけ変わったことを言いたくないのが日本人の特徴でもある。しかし、「本当に生命は物質から出てくると思うか」ともう一度念を押されて、それでも「当然だ」と答える日本人が多いとしたら、私はこれは由々しい問題だと思う。

生物学者の思い上がり

 ダーウィニストの総帥ともいうべき故スティーヴン・J・グールドは、かつて「生物学は神の似姿としての人間の地位 を奪い去った」と言った。これを真に受けて、自分のいのちはどこから来たのか、自分とは何ものかといった問題について、岡潔や西田幾多郎は信用できないから、グールド先生やドーキンズ先生にお伺いを立てるとしたら、これはお門違いもいいところである。生命とは何かという問題は、そもそも生物学者に聞いてみる問題ではない。自分で考えるべき問題である。これは生物学者に決めてもらうことではない。
 ところが生物学者の中には、自分たち仲間が集まって、「生命とは物質と物力に還元できる物質現象の一つだ」と決定すれば、それが世間一般 の基準になると思い上がっている者たちがいる。そしてこの「専門家」の決めたことを押し頂く愚かな一般 大衆がいることによって、唯物進化論の愚民化体制ができあがる。これは天文学者が集まって、冥王星を惑星の座から格下げすることに決めるのとは全く意味が違う。その目的は学界で余計な混乱が生じないようにするためで、国際的に度量 衡を統一するのと同じことだろう。しかし生命は物質から生じたとか、宇宙に目的はないとか、人生に意味はないとか、ダーウィン進化論は証拠の有無に関係なく真理である、といった専門家仲間の合意を、それがニュートラルな科学的結論であるかのように一般 大衆に見せかけるとしたら、それは告発されてしかるべきである。
 生物学者が集まって決めることができるのは、そのアプローチ、すなわち生命への接近の方法である。近代科学では、主題を対象化し数量 化するのが最も有効ということになっているから、生命にも対象化し数量 化しうる側面がある以上は、その方法を取ることに何の問題もない。問題が生ずるのは、その最初に採ることに決めた唯物論的アプローチが、研究の結果 であるかのように錯覚するときである。そしてその方法からくる多少の成功に自惚れて、自分たちが生命の秘密を握っているかのように錯覚するときである。
 生命は神秘である。この神秘という言葉は堂々と使われるべきである。あたかもこれが科学者として恥ずかしい言葉であるかのように忌避するところから、すべての間違いが生ずる。例えば生物の教科書に「生命の神秘」という言葉と概念を取り入れてみよ。どれだけ記述が分かり易く客観的になり、科学的になり、親しみ易くなり、どれだけ学問への意欲をかきたてるか分からない。

「かのように」の態度

 森鴎外に「かのやうに」という短編小説がある。これは主人公が読みかけている『かのようにの哲学』(Hans Vaihinger, Die Philosophie des Als Ob, 1911)という本を中心に展開する欧外作品でも最も知的な作品であるが、その主旨は、すべての学問は「かのように」を中心に組み立てられている、すなわち自分の採っているアプローチが主題の核心に到達できる「かのように」、暫定的に考えることによって成り立っている、ということである。この「かのように」の態度、即ち、とりあえずこの方法で対象に迫ってみるという余裕ある態度がなければ、それはドグマ(独断)であって学問的態度ではなく、学問は発展しない。(ネオ)ダーウィニズムなどは最もこの「かのように」の意識が強く要求される理論であるのに、最もその意識が欠けているのは皮肉というべきである。
 なぜ日本人は日本人特有の生命観から生物の教科書を書かないか。なぜそこまで欧米の真似をしなければならないか。岡潔の言うように、我々は心の底から「自然を無生物だなどと思ってやしない」し、「無生物から生物が生まれる、体が心を作る」などと最初から思ってはいなかった。鈴木大拙の言った「日本的霊性」というものを我々は持っているはずである。
 もし、今からせいぜい二十年前までに私がそんなことを言ったら、「君の生命観は立派かもしれないが、それは科学的に通 用する話ではないだろう」という答えが返ってきただろう。今はもうそんなことは言えないはずである。例えば、何回かにわたって紹介したマイケル・デントンの著書は、いかに自然が無生物ではないかということを立証するものである。水も大気も光も火も、地球環境のすべてが生命のために驚異的にデザインされている。要するに無生物も生物の一部であって、生命的に一体をなしている。つまり「国は神が生んだ」のである。
 デントンはおそらく、日本人は民族的に、生命の唯物論的解釈などという愚かな考えは受け入れないだろうと感じたのであろう。Evolution: A Theory in Crisisの日本語版『反進化論』の日本の読者宛ての文章の中で、日本人は英語圏の人間とは違って、おおむねダーウィン進化論に批判的なのではないか、と言っている。彼が「サイエンス」の記事を見たら驚くかもしれない。
地球環境どころか、『特権的惑星』が立証したように、この宇宙のすべてが時空的に、恐るべきデザインの一大ネットワークをなしているのであって、比喩的に言えば、時空的宇宙のどこを切っても血が出るのである。
 二十年前なら「そんなことは科学的事実ではないだろう」と言った人は、教科書のあげる進化論の証拠が全部真理だと思っていたであろう。今、その十項目全部がウソないしゴマカシであることが指摘されている(『進化のイコン』――なおこの本は翻訳出版が予定されている)。世界日報の特集記事「ダーウィン進化論の終焉――科学の新パラダイムID」によると、アメリカの教科書もひそかにこれらの「証拠」を引っ込め始めているようである。しかしダーウィニストにとって具合の悪いことに、こういった進化論の「証拠」はひと繋がりのものであって、その内の一つや二つを引っ込めたり、部分的に修正したりして済む話ではない。すべてをそっくり撤回しなければならないのである。
 厄介なことに、ダーウィニストたちは押しなべて、「かのように」という暫定的アプローチを絶対に拒否する、体制維持に必死のドグマティストだから、将来これがどういう形で収拾がつくか、ハードクラッシングとなるか、ろうそくの立ち消えのようになるか予想ができない。日本の教科書もいずれ、アメリカの後追いということになるだろうから、輪をかけてみっともないことになるであろう。しかしこれも、日本人の直観として持っている生命観を軽蔑して「馬鹿な西洋人の唯物論」を取り入れたことのツケである。

体制の末期症状

  今までもダーウィニズム専制体制を北朝鮮にたとえてきたが、ダーウィニズムの終焉も北朝鮮体制の終焉と同じく、どんな形となるか目が離せない。NHK番組の「ダーウィンが来た」などは、「思想的引き締め」とも取れるが、もはや北朝鮮と同じく、この期に及んで「思想的引き締め」などをやっている余裕はなくなった。北朝鮮の「物理的対抗手段」に当たるのが、今アメリカで盛んに起こっているID派への物理的迫害である。職を追われた人、職場にいられなくなった人もこれまでに何人もいるようである。「ルイセンコ学説専制下のソ連そっくりだ」とウィリアム・デムスキー氏がしみじみ言ったというのを、ジョナサン・ウエルズ氏が引用しているが、ウエルズ氏に会って話がしたいという人も、人目を避けてこっそり会わなければならないそうである。マイケル・ビーヒー氏を学園祭に呼んで話をしてもらおうと計画した高校の生徒会長も、ひどい嫌がらせを受け、その手記がインターネットに出ている。こういった話はいくらでもあるが、いずれにせよ、ダーウィニズム体制の末期症状がはっきり現れている。
 更に見逃せないのは、無神論者団体として有名なACLU(アメリカ自由民権連合)の暗躍である。この団体は、これまでに起こった地方学区の理科授業の内容をめぐるいくつかの訴訟で、必ずダーウィン側を強力に応援している。ペンシルヴェニア州の、ID支持派が負けたことで記憶に新しい「キッツミラー対ドーヴァー」裁判でも、ACLUが大活躍をしている。この団体は単なる左翼的な無神論者団体ではない。ネオナチやKKK団を支持したことで有名な団体である。ダーウィン側の勝利は、いわば悪魔の加勢を得ての勝利であった。なぜ彼らがダーウィニズムを必死に護らなければならないのか。私はそこに、あのエルンスト・ヘッケルから続いているダーウィン進化論を利用してのwhite chauvinism(白人優越主義)を見る。あのホロコーストを招いたダーウィン=ヘッケル進化論は、ACLUなどを通 じて今も生きていると考えざるをえないのである。
 それにしても、進化論受容に現れる民族性あるいは民度ということになると、私の脳裏から離れないある文章がある。それは本連載の第二回にも引用した、出隆(いで・たかし)訳のアリストテレス『形而上学、下』(岩波文庫、一九六一年初版)の訳者解説中の一文である――「人類が猿類から発生したとは知らず、〈人間は人間を生む〉と確信していたアリストテレスにおいては、人間においてその肉体よりも霊魂の方が概念的・目的論的に優先的であり根源的であるのみでなく…」
 アリストテレスの目的論的世界観の見直しの機運が高まっている現在これを読むと、時代の差があるとはいえ、アリストテレス研究の第一人者が何ということを言ってくれるのだ、と言いたくなる。「…とは知らず」とはひどいではないか。せめて「…という説のあることを知る由もなかったアリストテレスは」と言ってほしかった。まさに言葉尻を捉えてこんなことを言うのは出隆氏には悪いが、こうしたちょっとした言葉遣いにこそ本音が現れるように思われる。要するに、無批判的受容ということである。私には、この言葉遣いに現れているようなダーウィン進化論の無批判的受容が、日本人の態度を代表するもののように思えてならない。

『世界思想』No.374(2006年12月号)

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