NO.44(2006年08月)



生物教科書といかに付き合うか(3)
―「理性の危機」の時代を反映する教科書―

生物教科書の注意書き

 アメリカのいくつかの州では、ダーウィン・オンリーの理科教材に抵抗の構えを示しているが、ジョージア州のある学区の教育委員会は、高校の生物の教科書に次のような注意書きを挟み込むことにしている。

この教科書には進化に関する教材が含まれている。進化論は生物の起源についての一つの説であって事実ではない。この教材にはとらわれぬ 心(open mind)をもって注意深く接し、これを批判的に考えなければならない。

 こういった措置が無神論者団体によって(宗教に肩入れする!)違憲行為として告訴され、あちこちで裁判沙汰になっているのは周知のことかと思う。平均的日本人はこれにどう反応するか。「非常識だ」と言うであろうか。しかしどちらが? 一瞬、どちらを非常識と言っているのか戸惑いしなければならないところに、我々の置かれた文化的危機が現れている。
 こういった注意書きのことをdisclaimerという。Disclaimerとは、例えばメーカーが製品に明記して、後日、責任を問われないようにするための注意書きのことである。「十八歳未満入場お断り」というのもそれである。アメリカの真似をする必要はないとはいえ、こういったものを生物教科書に挟むなどということを、我々は考えてみたことさえあるだろうか。
 「我々の置かれた文化的危機」と今言ったものを「理性の危機」(Reason in the Balance)
と呼んで警鐘を鳴らしたのは、反ダーウィニズムの闘志として有名なアメリカの法学者フィリップ・ジョンソンである。「理性の危機」は生物教科書に如実に現れる。
 例えば教科書ではないが、NHKの高校講座(総合理科「生命の誕生」)でこんな解説をしていた。物質が偶然うまく組み合わさって生命が誕生したということを言うために、時計をバラバラに分解したものを箱に入れて何億年も振りつづけていれば、いつかは時計が組み立てられることもありうると説明するのである。二人の「生徒」はこれを聞いてげらげら笑っていた。講師もこれが馬鹿々々しいことは半ば認める様子で、しかし半ばキッとなって「それ以外にどう考えろというのだ」というような口吻で話は進められた。
 これは、我々が首まで浸かって抜け出せないでいる唯物論文化(ダーウィニズムをその典型とする)が、どういうものであるかをよく表している。この説明がおかしければ、考え方の前提に問題があるのではないかと考えなければならないのに、それはダーウィニズム専制体制によって、考えることを禁止されているのである。
 生物教科書には必ず、生命が物質から発生した証拠として「ミラー(=ユーリー)の実験」といわれるものを絵とともに載せるのが伝統的習慣のようである。次のような記述は、一見して何の問題もないようだが、今までに見てきた教科書のいくつかの進化論の「証拠」と同様、何重ものたちの悪い隠蔽やゴマカシを含んでいる。

この実験[ミラーの実験]により無機物から有機物の合成が無生物的に行われることが証明された。生命が誕生する以前の有機物質の生成過程は化学進化とよばれている(東京書籍、二〇〇五)。
 
一九五〇年代のはじめ、ミラーらは、無機物からアミノ酸などの有機物が人工的に生成されることを実験によって証明した。…原始地球上では、高エネルギーによって無機物から簡単な有機物を生じた。さらに簡単な有機物は、雨に溶けて原始海洋に運ばれ、そこに多量 に蓄積するとともに、タンパク質や核酸などの複雑な有機物に変化した。これらの地質の働きあいのよって原始生命体が誕生したと推測されている。原始地球におけるこのような過程を化学進化という(第一学習社、二〇〇五)。

 

ミラーの実験の間違い

 そもそもアミノ酸など生命の「組み立てブロック」が「原始スープ」から自然に生じたことを実証したという「ミラーの実験」の有効性が、ほぼ完全に否定されているという事実を、生物教科書は隠している。これは素人の私の言うべきことではないかもしれない。しかしこの問題を徹底的に論じ、「化学進化」という概念そのものを否定したサックストン、ブラッドレー、オルソン共著の、広く認められた著書The Mystery of Life's Origin (1984) をはじめ、Of Pandas and People (IDの立場からの生物副読本)や、ジョナサン・ウエルズのIcons of Evolutionなどを読むかぎり、この実験の無効性は確実のようである。ウエルズの「不適者生存」から引用する――

その当時(一九五〇年代)それは進化論の劇的な確証であると思われた。生命は「奇跡」などでなく、いかなる外力も神の知性も必要でない。ガスを正しく組み合わせて電気を加えれば、それで生命は発生するのだ。・・・ところが問題があった。科学者たちは、彼らのシミュレーションによる原始の環境の中で、最も単純なアミノ酸以上のものを決してつくり出すことができなかった。タンパク質の創造まではほんの一歩でも数歩でもなく、大きな、おそらく越えられない溝がそこにあると思われるようになった。
 しかしミラー=ユーリーの実験に対する痛い打撃は、一九七〇年代、科学者たちが地球初期の大気は、決してミラーとユーリーによって用いられたようなガスの混合ではなかった、という結論を出したときにやってきた。地球の初期の大気は、科学者がいう「還元的」、すなわち水素の豊富な環境ではなくて、たぶん火山によって放出されたガスから成っていた。今日この点について、地球化学者たちはほとんど意見が一致している。しかし、ではこれらの火山のガスを、ミラー=ユーリーの実験装置の中に入れたらどうなるのか? 実験はうまくいかない――すなわち、いかなる生命の「組み立てブロック」も生じないのである。

 生命の「組み立てブロック」が地球初期の環境の中で自然に生じ、それがうまく生命組み立ての方へ向かうなどということが、いかに不可能であるかの根拠をOf Pandas and Peopleは七ヶ条の箇条書きにしているが、次はその一つである――

ミラー=ユーリーの実験のもう一つの問題は、実験装置の作りが、生命出現以前の諸条件と理解されているものに全く合っていなかったことである。アミノ酸や、他の単純な非揮発性の安定した有機化合物がこの装置の中に溜まったが、そこは放電の破壊的な効果 から守られていた。もしこれらのアミノ酸や他の生成物が、初期の地球がそうであったと考えられるように、絶えずこのエネルギー源に曝されていたら、それらは作られる一方から破壊されていったであろう。そしてミラーは、彼の実験で作られた溶液に、それが起こるのを見つけることはできなかったであろう。・・・
 これは初期の地球で、一つの有機分子がなんとか破壊的なエネルギーの効果 をまぬがれて生き残ればいい、という問題ではない。肝心の問題は、相対立する結果 の均衡、すなわちバランスである。エネルギーとは諸刃の剣のようなもので、両様に働く。一方でそれは単純な部品から複雑な分子を作りもするが、他方ではその同じエネルギーが出来かかった分子を壊すのである。・・・しかし化学スープの中で分子がいかに複雑になっていったかという教科書の説明は、長年にわたってエネルギーの破壊的効果 を無視してきた。ほとんどの教科書は破壊的効果に触れさえしていない。

ウソを隠すためのウソ

 これだけでも教科書記述の隠蔽とウソには唖然とする。しかしヘッケルの胚の絵についても言ったように、一つのウソは他のウソを隠すためである。これは我々の日常経験からもわかるように必然的なものである。なぜ教科書がこんなウソをつき続けなければならないかというと、それは進化論というものが「物質から生命が発生した」という独断的な前提に立っているからであり、それが真理であるためには、「ミラー=ユーリーの実験」が当初、誤って世界を興奮させたときの有効性をもつものでなければならないのである。
 いかにも科学的に教科書はこのあたりを説明するが、その論理は通 常の理性の受け付けるものではない。それは、生命に必要な基本部品がまず作られ、それに放電のような自然のエネルギーが働いて、これらをうまく組み合わせていけば、いずれ必ず生命は誕生するはずだという、あのNHK講座の箱振りの論理である。
 生命体はすべて部品(組み立てブロック)から成っていて、壊せば部品に還元できるのだから、確かに生命が成立するためにはこれらの部品と、それらを組み立てる力が働くことが必要であろう。しかしその条件が揃えばそれで生命が誕生するわけではない。「モナリザ」が誕生するためには、絵具と絵筆とカンバスとこれらを動かす物理力としての腕の力必要だが、それさえあれば「モナリザ」が生まれるわけではない。これは必要条件と十分条件の区別 をなし崩しにするというたちの悪いゴマカシである。論理学や数学なら直ちにはねつけられるような論理の飛躍や学者的良心の欠如が、ダーウィニズム体制下では公然と許されるのである。
 これは要するに、生命というものは異常に複雑だが、しかしあくまで物質の延長上にある物質の特殊状態にすぎないという唯物思想である。こういう北朝鮮の「主体思想」にも通 ずる、理性に逆らう愚劣な哲学を、自分でもてあそぶならともかく、あたかも真理であるかのように教科書の中で展開するというのは許せることではない。
 しかしダーウィニストは、「そういう生命観が間違いであるとどうやって証明するのか」と詰め寄るかもしれない。私はこういうふうに答えたい。かりに時計ぐらいの単純な細胞があったと仮定して、その部品を箱の中に入れて何億年も振り続けたところ、幸運にもうまく組み合わさって細胞ができたとしよう。しかしそれはそもそも細胞であろうか? つまり生きて機能する細胞であろうか? そうでなく、それは細胞の形骸、形だけの細胞にすぎない。
 なぜなら生命は物質から生まれるのではない。生命という目に見えないものが最初からあり、これが物的条件が整ったときに、物的側面 に支えられて顕在化すると考えなければならないのである。要するに内容と形式、心の側面 と体の側面、この雑誌の統一思想講座で使われる言葉で言えば、「性相」と「形状」の両面 を備えて一体化したものでなければ、それは生きた生命体ではないのである。確かにこれは「証明」できることではない。しかしそれは証明なしに誰もが納得できる公理である。これは宗教ではない。しかしID理論と同じく宗教的観点を排除しない生命観である。

心のない生命はない

 よく生命のような複雑なものが偶然によっては生まれないことの比喩として、サルがタイプライターを叩いてシェークスピア作品はできないという。しかし、かりにランダムにタイプライターを叩いて、万が一シェークスピアのソネットのようなものができたとしても、それは文学作品ではない。つまり生命が生まれたのではない。ID論者も普通 そこまでは言わず、一般にも首を傾げる人が多いだろうからもう少し説明したい。
 むろん、ソネット(十四行詩)がランダムにできるということはありえない。しかし十七文字の俳句ならどうか。これならランダムにタイプを打ってできる可能性はかなり大きくなる。そこで今、一応俳句として通 用するものが偶然によってできたとしよう。これは俳句ではないのか? 私はそれは俳句ではないと言う。それを立証するには、一つでなく複数の、できれば数句の「作品」を、サルにタイプで作らせてみればよい。本物の俳句なら(巧拙とは関係なく)、その作品群から作者の個性が必ず浮かび上がるはずである。しかしランダムにできた俳句からは、たとえその一つ一つが俳句として通 用するものであったとしても、一人の人間の個性が浮かび上がってくることはありえない。つまりそこに心の存在を感ずることはありえないのである。心とは心をもった者が感じ取るものであって、証明するものではない。しかし本物の俳句か、俳句の形骸かを見分けるのは、心が存在するか否かである。
 生命についても全く同じである。生命の形骸を生命とは言わないのである。「心」の関与しない俳句(芸術作品)などというものがないように、「心」の関与しない生命などというものはない。作品の中に認識できる心から、心をもった一人の作者が推定されるように、類に応じてそれぞれ認識できる心をもった生物から、心をもったその作者の存在が推定されるのである。インテリジェント・デザイン理論とは、その心の働きの表れ(痕跡)を自然界のいたるところ――細胞の内部から宇宙構成にいたるまで――に実証的に突きとめることによって、ある未知の大きな「心」の存在を推論しうるという理論なのである。「インテリジェント」とは「賢い」という意味でないことを確認しておく必要がある。

『世界思想』No.370(2006年8月号)

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