NO.42(2006年6月)


生物教科書といかに付き合うか(1)
-学生を愚弄する進化論記述-

進化論という体制

 ダーウィニストであり反ID(インテリジェント・デザイン)派の急先鋒ユージェニー・スコット(Eugenie Scott)女史が、論争で決まったように言う言葉がある。それは「IDを教室に持ち込んだりするのは、学生に対するディスサービス(disservice)ですよ」というものである。ディスサービスというのは「不為」ということで、せっかく進化論教育が定着しているのに、これを批判するようなことを言って学生の頭を混乱させるべきではないということである。
 なるほど確かにディスサービスかもしれない。しかしそれはちょうど、男尊女卑が社会の常識になっているときに、男女平等思想を子供に教えるのがディスサービスになるようなものである。反社会的な、おかしな思想を学校で吹き込まれた子供は、社会に出てから笑われ、いじめられ、不利益を蒙るだろう。それでは子供がかわいそうだ。
 進化論教育というものが、少なくとも今までのところ、ちょうどそういう立場にあったと言ってよい。それはまた、これまで何度か言ってきたように、共産主義国の「体制」と同じである。体制に従うことが身の安全を保証し、出世の条件ともなる。体制への忠誠のためなら、少々のウソや歪曲やこじつけ、事実の無視はむしろ積極的に許容される。
 これは何よりも我々の生物の教科書に現れている。周知のように生物の教科書では、「公認」学説である進化論以外の観点からの記述は許されない。今私が見ているのは高校用「生物」の教科書四種類だけだが、現行の生物教科書を批判する池田清彦著『新しい生物学の教科書』(新潮文庫)を参照しても、これでほぼ全体を推し量 ることができそうである。
生物の教科書では「進化」という章を設けて、かなり詳しく説明しなければならないことになっているらしいのだが、その記述自体から見えてくるものがある。それは進化論という「体制」――つまり思想統制体制――維持の姿勢の強引さと、同時にそこに必然的に伴う綻びである。
執筆者たちは勿論、進化論者なのであろう。しかし進化論者といえども、進化ということについて完全に納得していて、これを学生に喜び勇んで説明してやろうという執筆者はまずいないであろうから、その記述は歯切れが悪く、おしなべて曖昧で、不誠実で、説得力のないものになっている。本当のところ自信はないが、教科書にはそう書くことになっているから書いた、というようなものが説得力をもつはずはない。少し見る目をもった学生には容易に見透かされるであろう。そういうものを読まされるほど苦痛なことはない。これ以上の学生に対する「ディスサービス」はない。いくつか例をあげてみる。
 
カンブリア爆発は無視
 
「現在地球上に見られる多様な生物は進化の産物である。一五〇年以上の長い期間にわたる研究のすえ、進化の証拠やしくみについては、多くのことがわかってきた。」(東京書籍、二〇〇五)

 ここに限らず、教科書で使われる「進化」という言葉はすべてその曖昧さを利用している。進化を単に「時間をかけての変化、多様化、複雑化」と取れば、最初の文章に異を唱える者はいない。しかし進化をダーウィンのいわゆる「変化を伴う血統的下降」(descent with modification)と取れば、この文章に疑念をもつ学者はかなりいるはずである。後の文章については、「一五〇年の研究の後にも、進化の証拠や仕組みについて確かなことはまったく分かっていない」と考えている学者の方が多いだろう。しかし進化論「体制」のもとでは、こう書かなければならないのである。

 「進化の中間段階を示す化石生物の存在は、進化が連続的に起こったことを示すものと考えられる。」(第一学習社、二〇〇五)

  これなど、相当に大胆不敵で「公認」の虎の威を借りなければ言えないことである。生物種のグループをつなぐ、あるいは中途半端な構造をもついわゆる中間化石(移行化石)が見つからないからこそ、進化論争が絶えないのではないのか。「連続的に」と言っているから、いわゆる漸次進化(gradualism)を当然視していることになるが、ではなぜ、ダーウィニストであるエルドリッジ(Niles Eldridge)やグールド(Stephen J. Gould)らが「断絶平衡説」(punctuated equilibrium)などを唱える必要があったのか。

「生物が共通の祖先からしだいに形を変え、さまざまな仲間に分かれていくことを進化という。」(啓林館、二〇〇五)

  これは最後の「進化という」というところを「ダーウィン進化という」としなければ、正しい記述とは言えないだろう。これは明らかにダーウィンのいわゆる「系統樹」を頭に置いた記述であるが、これに疑問が投げかけられていることを全く伏せているからである。生物学者のジョナサン・ウエルズ(Jonathan Wells)は次のように言う。

  もしすべての生き物が一つの、あるいはわずかの起源的生命体の、漸次的に変形した子孫であるとするなら、生命の歴史は枝分かれする樹に似ていることになろう。不幸なことに、そのような公的宣言にもかかわらず、この予言はいくつかの重要な点で間違いであることが分かった。
化石の記録は、動物の主要な種類が、共通の先祖から枝分かれしたのでなく、「カンブリア爆発」においてほとんど同時に、完全な形をとって出現したことを示している。ダーウィンはこれを知っていて、彼の理論に対する深刻な反論になるものと考えた。しかし彼は、それは化石記録の不完全のせいで、将来の研究がまだ見つかっていない先祖をきっと見つけるであろうと考えた。
しかし一世紀半にわたって続けられた化石の収集は、問題をますます悪くするだけであった。わずかな違いが最初に現れて、それからより大きな違いが後に現れるのではなくて、一番大きな違いがまさに出発点で現れるのである。化石研究者のある者はこれを「トップダウン進化」と呼んで、ダーウィン説の予言する「ボトムアップ」のパタンとは矛盾すると言っている。にもかかわらず、ほとんどの現在使われている生物教科書は「カンブリア爆発」のことを記述さえせず、いわんや、それがダーウィン進化論へ疑問を突きつけるものであることを指摘したりはしない。

 「カンブリア爆発」(Cambrian explosion)については、池田清彦氏も指摘するように、わが国の教科書も触れないか、触れてもいい加減に済ませているようである。その理由は明らかで、ここに言われているように、ダーウィニズム体制にとって都合が悪いからであろう。

動物門の起源

教科書を裏読みする

 以上に挙げたような例は、進化論教育というものの行きがかり上「仕方がないこと」かもしれない。しかし「仕方がない」では済まされない深刻な問題が生物教科書にはある。
 ここで私は「生物」を取っている高校生諸君に、一つ実行していただきたいことがある。諸君はおそらく、「進化」の章は面 白くもなく試験にも出ないので(?)、ロクに読まないのではないか。そこでとにかく、一度これをきちんと読んでみていただきたい。そしてその上で、上に引用したジョナサン・ウエルズの文章の出所である「不適者生存」というエッセイ全体を読んでみてほしい。
 ウエルズは二〇〇〇年にIcons of Evolution (『進化の聖画像』)という衝撃的な本を出し、「科学は今、ダーウィン理論の柱となっているものの多くが、虚偽あるいは人を誤らせるものであることを知っている。しかし生物の教科書は、相変わらずそれを進化の現実の証拠として掲載しつづけている。これはこうした教科書の理科基準の、何を意味するものであるのか?」という疑問を、生物学界というより社会全体に突きつけた。残念ながらこの本は今のところ邦訳がない。そこで、この本の要約ともいえる「不適者生存」(原題はSurvival of the Fakest、最たるニセモノの生き残り)というネット上で簡単に読めるエッセイがある。これともう一つ、同じ著者による「オオシモフリエダシャク再考」という論文を併せて読んでみていただきたい(www.dcsociety.org)。俄然、生物が面 白くなるはずである。
 これらの論文は、特にIDや創造論の立場から批判しているわけではない。単純に、「驚くべきことが生物の教科書では起こっている、いったいどうなっているのだ」という素朴な驚きから生まれたものである。
 まず「オオシモフリエダシャクの工業暗化」という記事。これは伝統的にほとんどの教科書が写 真入りで載せているようであるが、これは池田氏の前記の本でも言われているように、即刻、記載を中止すべきものである。その根拠は、上記ウエルズの「オオシモフリエダシャク再考」という厳密に論証した論文一本で十分だと私は思う。詳しくはここで述べないが、明色と暗色のシモフリ蛾が木の幹に止まっている写 真そのものがニセモノであるという。しかし意地悪な言い方をすれば、これが教科書から消える前にしっかり見ておいていただきたい。ウエルズ氏はこの論文を「学生を愚弄してはならない」という文章で結んでいる。これは単なる誤記や誤解ではない。なぜこういうことが起こっているのかを、考えてみていただきたいのである。
 もう一つこれとよく似た例は、ダーウィン・フィンチ(ガラパゴス・フィンチ)についての、これも伝統的な定番となっている記載である。これは旱魃が続くと餌の実をつつくのが困難になるので、この小鳥のくちばしの平均の大きさがわずかに増し、雨が戻ればまた普通 のサイズに戻るという自然選択の「圧力」を実証した、現実の調査に基づくものである。この研究調査自体は面 白いとしても、こんなことは、シモフリ蛾の羽が黒くなったり白くなったりする現象と同様、生物の進化には何の関係もないことは明らかである(いわゆる「小進化」でさえないだろう)。
 ところがこれが、進行中の進化の好例として伝統的に教科書に用いられ、ウエルズによれば、一九九九年「アメリカ国立科学アカデミー」出版のブックレットには、これは種の起源の「特別 に説得力のある例」で、「十年に一回の割合で旱魃が起これば、新しいフィンチの種が二百年ぐらいで生まれる可能性がある」と書かれ、しかも雨が戻ればくちばしのサイズは元に戻るという事実は伏せてあるのだという。誰が考えても明らかにこれは詐欺である。
 私の見た四種類の教科書は、いずれもこれを記載しているが、さすがにこんな詐欺的記事だけは避けている。しかしこれはこのブックレットのように事実を隠してこそ進化の説明になるのに、変動の事実を正直に図で説明している教科書(啓林館)がある。これは正直なのはよいが、学生は進化と何の関係があるのか怪訝に思うであろう。しかし、フィンチが教科書に載るようになった元もとの経緯(動機、魂胆)を知ってみれば、合点がいくとともに、教科書執筆者の苦渋やダーウィニズム体制――つまり我々の文化の体制――という裏の事情も同時にわかってきて、学生の興味はにわかに活性化するであろう。これが本当の意味での学生への「サービス」というものである。一方的な「真理」のみを教え、相対化してみる手立てを学生から奪うこと、これを「ディスサービス」という。
 もう一つ、「生物学上の最も有名な偽造」と言われながら、学生は何一つ知らされることもなく、すべての生物教科書が平然と載せ続けているものがある。それはあの誰にも覚えのあるヘッケルの胚の比較絵であるが、これについては「不適者生存」の図と説明を見ておいていただきたい。教科書問題はとうていこれくらいで終わりにはならない。

『世界思想』No.368(2006年6月号)

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