NO.40(2006年4月)


生命科学は魂を抜いて成立するか(3)
――「構造主義生物学」に学ぶ――

渡辺 久義

『悪魔の牧師』を読む

 この世界に目的やデザイン、またそれを実現しようとする目に見えぬ 力といったものを、一切認めないで生命を説明しようとすれば、物質と物理力に特別 の力――創造力――を持たせるよりほかはない。過激派ダーウィニストというべきドーキンズが、最近はどう変わったのか、それとも変わっていないのかを知りたいと思い、近著『悪魔の牧師』(Devil's Chaplain 2003)を読んでみた。彼の考えの核心は、(今は亡き)ダーウィニストS・J・グールドとの見解の違いを述べる次のような文章によく表われている。

見解の分かれるのは次のような問題である――「進化において遺伝子の果 す役割は何か? それはグールドの言葉を使うとすれば、「簿記(book-keeping)なのか、原因作用(causation)なのか?」…グールドは遺伝子を単に「帳簿係」と見て、他のレベルで起こっている変化を受動的に跡付けるだけのものとした。私の見解では、遺伝子が他の何であるにせよ、それは帳簿係以上のものでなければならない。そうでなければ自然選択は働きようがない。もし遺伝子の変化が身体に対して、あるいは少なくとも自然選択が「見る」ことのできる何ものかに対して、いかなる原因的力をも持たないとしたら、自然選択はそれを引き立てることも打ち捨てることもできない。いかなる進化的変化もそこから生ずることはない。

 ここで言われているのは、進化において遺伝子が原因として働く、そうでなければ自然選択が働きようがない、自然選択がこの「原因」に働きかけることによって初めて進化的変化が起こる、だから遺伝子という物質のもつ能動的創造力は自然選択のチェックを受けることによって発動する、ということだろう。それとも自然選択のチェックという物力との相互作用から、遺伝子に創造力が生まれると言っているようにもみえる。

 いずれにせよ、遺伝子そのものに生命世界を創り変えていく力があるという、なんとも不思議な――よく考えると不気味な――話だが、時代とともにドーキンズも変わってきたのではないかという予想に反して、今も彼の考えは全く変わっていないことがわかるであろう。これが生物の現状維持や「小進化」の仕組みの説明としてならまだ分かる。しかしこれは「大進化」すなわち生命の飛躍的発展の説明であろう。しかもドーキンズのこの本を読む限り、進化が少しずつ徐々に起こるという漸次変化主義(gradualism)も全く変わっていない。
 セルモンティなどの言うように、そもそも遺伝子は「保守的」なもので、変化が起こればこれを修正しようとする傾向をもつものだというのが真実だとすれば、遺伝子変化が進化の原動力だとするドーキンズ流ネオ・ダーウィニズムは、真っ向からこれに刃向かう理論だということになる。シカゴ大学の生物学者ジェイムズ・A・シャピーロ(James A. Shapiro)はこう言っている――

 これまでの理論では進化的変化の源とされていた、まさにその偶然的な遺伝子変化に対して、細胞がいかに徹底して自己を守るかということが分かってきたのは、近年の驚きであった。その校正や修正システムが働くことによって、生きた細胞はランダムな化学や物理の力の受動的な犠牲者とはならない。細胞は力の限りを尽くしてランダムな遺伝子変化を抑制しようとし、修正システムの活動を調整することによって、背後にある局所化された変異可能性のレベルを一定にする能力をもつのである。
 (www.bostonreview.net/br22.1/shapiro.html)

構造主義生物学

 ドーキンズ流ネオ・ダーウィニズムの柱となっている考え――遺伝子そのものが進化の原因である、それは時間をかけて徐々に変化する、しかも無方向に変化するといった考え――と真っ向から対立するのは、柴谷篤弘や池田清彦といった人たちの「構造主義生物学」である。今、柴谷の同名の書(東京大学出版会、1999)に拠って、私の理解しうる限りのことを説明してみる。
 セルモンティと同じく柴谷も、目に見えないものを仮定しなければ生命の本質は説明できないとする。「根源的な存在は、事実の関係性についての一定のきまり、すなわち『構造』なので、それは目に見えないものである」、「生物学で一番根本的なものは、何らかの目に見える実体であるよりは、その実体の存在をかげで支えている、目には見えない、あるいは容易に見えにくい『構造』の成立とその存続である」といった文章に明らかである。
 生物種というものは突如として現われ、変わらず存続し、やがて(消えるものは)消えていく、というのが常態であることを認めざるをえないとすれば、これを言語学者ソシュールが言語を歴史的でなく共時的に捉えたときの「構造」(関係性)という概念によって眺めればどうか、という着想は一つの鋭い洞察であろう。
 まず、世界に存在する多くの多様な言語がどのようにして始まったかは謎であるが、ひとたび一つの言語が出来てしまうと、それはその言語を使う者にとって拘束として働き、容易に変わらない、また変えてはならないものである。もちろん外来語を取り入れるといった非本質的な部分は別 として、その言語の基本的な語彙、文法、音韻体系といったものは変わらず、また変えてはならない。まずこれが、ダーウィニズムの主張とは逆の、生物種の安定を保証する遺伝子の安定ということに似ている。
 万一その基本的な部分に、何かの外因によって変化が起きそうになっても、その言語はたちどころに自動的にそれを修復しようとするだろう。これはシャピーロの指摘する遺伝子のもつ自動修復システムと似ている。そのように考えれば、日本語が徐々に英語に変わっていくということがあり得ないように、生物種が他の生物種に徐々に変わっていくということもあり得ない。
 またソシュール言語学で、言葉とその言葉の指すものの関係が恣意的で必然性がないと言われるように、(4文字で綴られる)遺伝子暗号にも、それが指令するアミノ酸やタンパク質組み立てとの間の、必然的な関係があるわけではない。つまり「メ」という言葉には実体としての眼との必然的な――「メ」でなければならないという――関係はなく、日本語という全体構造によってきまる対応関係があるだけである。同様に遺伝子暗号の中に、もし「メ」という情報(あるいは指令)があるとすれば、それが単独に働いて眼を創るのでなく、その指令を受け取り、またその指令を実行に移そうとするものとの全体構造(約束)の中で働き、その生物の眼が発現へと動き出すということであろう。
 DNA情報とは、セルモンティによれば(二月号)、その生物が「すでに知っていることを呼び起こすだけのヒント」だという。ネオ・ダーウィニズムが主張するように、遺伝子が専制的に自分の一存で、周囲に関係なく何かを発生させるのではないようである。それは次のような実験から明らかである。

違った種類の動物でいくらか異なった塩基配列をもち、発生にかかわる(同一の)遺伝
子を、違った動物のあいだで交換してみて、それでもその発生遺伝子としての機能がうまく発揮されるかどうかを、検定することができるようになった。いま種A(たとえばショウジョウバエ)と種B(たとえばネズミ)のあいだで、相同の(塩基配列がわずかしか違わない)発生遺伝子を交換すれば、その遺伝子(たとえばA)は、(1)もとの種Aの発生経路を現すか、(2)あらたに組み入れられた種Bの発生形態を具現化するか、(3)あるいはまったく機能できなくなるだろうか。この問いにはすでに答えが与えられている。結果 はいくつかの系で一様に(2)であった。

 ある遺伝子がほかの種類の動物の中で働くときは、遺伝子は自分自身の出自の種ではなく、「宿主」となった種の発生の過程を再現し、宿主の体をつくるように働く。つまり、遺伝子は自己に特異な形態ではなくて、宿主に特異な、あるいは宿主に存在している形態発現・調節機能に特異な形態をつくるにすぎない。ネズミの遺伝子は、だからハエの体の部分をつくるのに使われ、それ自体だけでネズミの体の部分をつくるわけではない。

正反対の解釈

 遺伝子の構造主義的解釈とは、遺伝子が主体性をもち、「自分の外の世界をリモート・コントロールで操縦しながら」次々と生物を乗り替え乗り捨て、自分は永遠に生きていくというドーキンズの「利己的遺伝子」像を、そっくり逆さまにしたものと言ってよいのではないだろうか。
 だとすると、これだけ対照的・正反対の自然界の解釈が存在する生物学の世界を、我々はどう考えたらよいのだろう。しかも一方は「公認」の正統派理論とされて、教科書記述ももっぱらそれによる。ところがそれは、他方の陣営からは「二十世紀のビッグ・ジョーク」(セルモンティ)とまで言われ切り捨てられる。これは珍風景としては済まされない。我々の魂にかかわる何ものかが、ここで争われていると考えなければならない。
 この構造主義生物学というものの存在は、少なくとも、自分たちを批判する者をすべて、宗教だとかクリーショニズムだとか言って片付けようとするダーウィニストに、考えさせるだけの材料にはなるだろう。
 ではこの構造主義生物学を、インテリジェント・デザイン理論と呼んでいいのだろうか。ID理論とは、唯物論や還元主義を否定するあらゆる理論を取り込む幅の広いものであるから、これはID理論だといってよいと思う。「構造」とは明らかに一つの「デザイン」である。柴谷教授は構造を「論理回路」とも呼んでいるが、これはマイケル・ビーヒーの鞭毛のモーター構造と同じで、一気に出来上がったものであり徐々に出来たものではない。そもそも「構造」というのは定義によって、一気に出来上がったもののことである。そのことをこの本でも、手話の体系が短期間で完成するといった事例をあげて説明している。
 完成品として一気に出現する(としか考えられない)生物種あるいは生命世界そのものを、一気に生ずる(無時間的)「構造」として理解するのが構造主義生物学であろう。柴谷の「構造」にしてもセルモンティの「地下茎」にしても、目に見えない存在を前提にしている。およそ生命の問題を考えるのに、「目に見える実体の存在をかげで支えている」何らかの隠れた次元――物理学者D・ボームの言った「内蔵秩序」はこれだろう――を想定しなければ、どうにも解決の道は開けてこないだろう。目に見える自然界のことは目に見える自然界の次元で説明できるはずだ、という自然主義(唯物論)科学者の哲学は成り立たない。
 生物の起源(「系統樹」の根元)にあるのは「生きた生物」ではない、という生物学者カール・ウェーゼ(Carl Woese)の言葉を前に引用したことがある――「普遍的な共通 の先祖は実体ではない、モノではない、それは一つの過程である。」

職業的科学者の問題

 この『構造主義生物学』という本で、私にとって特に面 白いのは次のような叙述である。

かれら[非職業的知識人]には、生活の糧とは切れたところで物事を考える自由があるから、また、自身でその分野で論文を書く必要が必ずしもないから、自由に還元主義からはずれてゆくことができる。けれども職業的科学者にとっては、たとえ自分で勝手にはずれてゆかなくても、同じ職業的科学者のあいだから、たとえば遺伝子還元論パラダイムからひどくはずれた言説をなす者が現れ、その勢いが増すことは、自分自身の生活(研究とはいわない)の基盤を掘りくずすことになるから、単に「保守的」ということとはまた違った意味で、そのような職業的異端にたいしては、積極的に身を守り、敵意をあらわにすることもまれではない。科学的真実ではなしに、生活がかかっていることが、現実に存在するむしろ意外な理由である。科学者が真理を求めるものである以上、こういうことは、まったく予想と正反対なことであるが、しかし、ここでも追い求められているのは、真理ではなく、じつは生活である、ということに注目すれば、ことのなりゆきは少しも不思議ではないだろう。

  私もこのことは分かっていたつもりである。しかしこれを「職業的科学者」であって今は自由な身の人の口から聞くのは貴重である。問題は、一人ひとりの科学者にそんなつもりは全くないのに、全体としては一つのイデオロギーに加担することになり、それが世間一般 の文化の体質を作っていくことである。これが学者仲間の理論作りという「道楽」に終わるのならよい。しかしこれが世間に流出し、我々の子供の唯物論教育に根拠を与えるということになれば、我々は黙っているわけにはいかないのである。

『世界思想』No.366(2006年4月号)

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