NO.33(2005年9月)


誰にもわからぬ起源問題
――わかったことにするダーウィニズム――

渡辺 久義   

科学パラダイムの対立

 「最初の細胞がどのようにして生じたのかは誰にもわからない」――ジョナサン・ウェルズは、『進化の聖画像』(Icons of Evolution)の中の一章をこう書き出している。これはID(インテリジェント・デザイン)派の共通見解だと言ってよかろう。「誰にもわからない」とは不遜な断定ではないかとも思われるであろう。しかしこれが、生命の起源の問題について、人知の到達しえた結論であると言ってよいのではなかろうか。
 これは無知による、あるいは研究調査の不備不足からくる結論ではない。ビッグバン以前のことが科学ではわからないように、わからないと言ってよいのではないか。ID理論に沿って考える限り、そこに超自然が関与した、あるいは自然と超自然が接触した、という言い方が可能であろう。「どのようにして」? それはもしかしたら霊視能力者にはわかることかもしれない。しかしIDが経験的な証拠に基づく科学である以上、それは「わからない」と言うしかない。
 テレビによく出てくる自信満々の反IDの科学者女史が決まって言うのは、「自然界のことを研究するのに超自然を持ち出すのはおかしいではないか」というもので、いかにも正論のように聞こえる。しかし自然は超自然の関与なしに、自然の範囲内では説明できないからこそ、ID理論が出現したのである。超自然の関与なしに自然は説明できないという経験的認識と、わからないことを超自然(神)のせいにしてごまかすこと(God-of the-gapsという)とは全く別である。
 しかしテレビや新聞の討論は、そういった点にまで切り込むことはない。これは一つには、ID批判側が踏み込むことを避けようとするからで、議論は表面的な感情的対立の域を出ない。批判側の議論は決まって、IDとは宗教勢力あるいはクリエーショニズムが科学の仮面をかぶって出てきたものにすぎない、というものである(クリエーショニズムは、アメリカでは科学無視の聖書絶対主義を意味するようである)。
 まず銘記すべきは、今回の論争は八十年前の「スコープス裁判」のときとは違って、科学対宗教でなく、科学対科学、すなわち科学のパラダイムの対立だということである。ID批判者の多くは、これを旧態依然たる科学対宗教の論争と決め付けて、IDを切り捨てようとする。だが、そもそも科学と宗教の概念そのものが、昔と同じままでいるわけではない。八十年前には、この二つははっきりと対立するものであったかもしれない。今、少なくともそういう構図は過去のものになりつつある。
 フィリップ・ジョンソンの本に、この認識の違いの面白い話が出てくる。ジョンソンがID運動のきっかけとなった『裁かれるダーウィン』(Darwin on Trial)を出版したとき、進化論の重鎮ともいうべき(故人となった)スティーヴン・J・グールドによる、敵意むき出しの書評が出たのだという。それはそれでよいとしよう。私の注目を引くのは、グールドが言ったという、いかにも物わかりのよさそうな「自分たちダーウィニストが宗教に敬意を払うと言っているのだから、そちらも科学に敬意を払うがよかろう」という意味の提言である。
 ジョンソンの立場に立って言わせてもらうとすれば、私なら「馬鹿を言え」と言うであろう。ダーウィニズムとIDの関係は、そんな対等の取引をする関係ではないのである。そもそもIDは宗教ではない。より大きな科学のパラダイム、すなわちより包括的な世界把握の枠組みである。そしてそれは、ダーウィニズムのような自然主義(唯物論)の立場を対立者として位置づけながら、これを包み込むことができる。言い換えれば、それはダーウィニスト以上にダーウィニズムを知る立場である。これを二次元世界と三次元世界の違いに譬えることもできる。三次元世界は二次元世界を包摂するが、逆は不可能である。

最初から完成品が

 さてそこで、始めの「最初の細胞がどのようにして出来たのかは誰にもわからない」という命題に戻る。細胞には――マイケル・デントンに拠ってかつて説明したように――原核細胞と真核細胞の区別があるだけで、原始的な細胞というものはないのである。すなわち、どちらにしても、恐ろしく複雑な構造をもつ(ことが次第にわかってきた)細胞が、最初から完成された形で現れたということである。これは細胞だけではない。(最初から完成品が現れたことをマイケル・ビーヒーが立証した)最初の鞭毛、最初の鳥(の翼)、最初の眼、そして何より最初の人間など、すべてについて言える。
 こういった起源の問題は、考えれば考えるほど「わからない」、しかし間違いなく歴史上の事実である。この「わからない」は「今はわからないがそのうちわかるだろう」といった相対的なわからなさでなく、絶対的なわからなさである。それは正直なところ気の狂うような事態である。
この気の狂うような事態、気分の悪さを、一気に解決して我々を安堵へ導いたのがダーウィンの進化論であった。それは子供でもわかる、きわめて単純な理屈であった。こんな簡単なことを思いつかなかったとは何とうかつであったことよ、と当時の人々は目を覚まされ、同時に欣喜雀躍した。その気分は百五十年を経た今日にまで及び、ダーウィニストたちは、この理屈が真理であってくれることを、今日までひたすら願い続けてきた。
 その願いがあまりに強いために、証拠との不一致は無視され、見えみえの不合理も不問に付され、立証は常に未来へと持ち越されてきた。しかし立証はついに実現しなかった。そこでダーウィニストは、『進化の聖画像』が明らかにしたように、わずかの証拠にもならぬ証拠を更に加工してまで、教科書に繰り返し載せてきた。人々は、物事をすっきりさせることが科学の第一使命でなければならないと考え、証拠がないという嫌な事実を認めるよりも、頭(理屈)をすっきりさせて安心する方を優先させた。これが、ダーウィニズムという明らかに屁理屈というべき理論が、今日まで正々堂々と世間をも学界をも支配してきた理由である。
 「インテリジェント・デザイン」は、最初の細胞が具体的にどのようにして出来たのかを説明しようという理論ではない。それは、ジョンソンのいうように、考え方を正しい軌道に乗せようという提唱である。錬金術には見切りをつけようというという提唱である。そしてその提唱の根拠を、理論的に明確にするのがID理論である。
 ダーウィニズムの特徴は理論が先行する、あるいは理論が絶対であるから、ちょうどかつて教条主義マルクシズムがそうであったように、事実に合わないとか現実には無理だろうといった申し立ては抑圧されてしまう。そして、わからないこともわかったことにしようという、自己欺瞞的安心感が優先される。これが先々月号に紹介したNHK講座の、時計の部品を箱の中に入れて何億年も振りつづけていれば、いつかうまく組み合わさるということもあり得るでしょう、といった説明によく現れている。自己欺瞞的安心感とはいえ、それは安心感であり、「科学」を貫き通したという自負は残るのである。

カンブリア爆発の驚異

 しかし、生物学上のビッグバンと言われ、ほぼ五億三千万年前に起こったとされる「カンブリア爆発」という驚くべき出来事について、いったい我々はどう考えたらよいのだろうか。この事実は、一九九五年一二月四日号の「タイム」誌にも特集され、一般の人々の知るところとなった。にもかかわらず、(公認ダーウィニズムの支配下にある)教科書はその記述を避けるか、ごまかそうとすることについてはすでに述べた。
 以下、私の知りえた範囲で、この生命史上の特筆すべき出来事をやや詳しく説明してみる。
 カンブリア紀とは古生代最古期で、英国ウェールズ地方(古名カンブリア)にその地層があることからその名があるのだが、最近、カナダ、グリーンランド、中国、シベリア、ナミビアに、保存状態のよい豊富な同じ地層が発見され、「現在我々が生命体と呼んでいるものが、驚くべき生物学上の一大狂乱となって、ほとんど一夜にしてこの地球を一変させたことが、最近の発見によって明らかになった。…何十億年もプランクトン、バクテリア、藻類といった単純な生物が地球を支配していた。そして突如として、生命体はきわめて複雑なものになった。」(「タイム」)
 「カンブリア爆発」以前に、多細胞生動物が全く存在しなかったわけではないらしい。カンブリア化石よりやや古い時代の多細胞生物が、最初、南オーストラリアのエディアカラ山中で発見され、今は世界の各地で発見されている。英国の古生物学者コンウェイ・モリス(Simon Conway Morris)によれば、「エディアカラ化石」の少なくとも一部は動物であった。しかしカンブリア紀に現れた多くの生物種のほとんどは、エディアカラに先祖を持つものではないという。「わずかのエディアカラの生き残りを除けば、エディアカラ生物の奇妙な世界と、カンブリア化石の比較的見慣れた世界の間には、歴然とした境界がある」(コンウェイ・モリス、一九九八)。それはあまりにも奇妙であるので、これを独自のkingdom(動物界、植物界、鉱物界などの「界」)をなすものとする説もあるという。いずれにせよ、カンブリア紀の生物の前身にはなりえないということである。ジョナサン・ウェルズによれば――

 カンブリア紀の直前に、他の二つの多細胞動物の兆候がある。一つは、いかなる現代のグループとも似ていない小さな化石からなる「小さな殻を持つ動物系」、もう一つは、多細胞の虫の残したものらしい匍匐跡の化石である。しかし後者と、そしてわずかのエディアカラ群の生き残りであるかもしれないものを除いて、カンブリア紀の動物とそれらに先立つ生物を結びつけるいかなる化石上の証拠もない。現在十分に記録文書のある前カンブリア紀の化石記録は、ダーウィン説の要求する漸次的枝分かれの長い歴史のようなものを何一つ提供しない。

 前カンブリア紀の動物は骨も殻もなく、体が柔らかいか小さかったために化石として残らなかったのでないか、という可能性を言う人もあるが、その可能性は全くないという。かなり柔らかく小さいものでも、化石として残っているのだそうである。「爆発は現実である。それはあまりにも大きく、化石記録の欠陥によって(連続性が)見えなくなっているということはありえない」(古生物学者ヴァレンタインとアーウイン)。

完成した形で出揃う

 ウェルズは、この爆発について真に驚くべきことは、突如として多くの生物が出現したことよりも、現存する生物のほとんどすべての「門」――phyla 生物分類(界門綱目科属種)で「(動物)界」の次にくる、最も基本的な形態の違いによる分類――が、すでに絶滅した多くの「門」を含めて、一気に完成した形で出揃ったことだと言っている。ダーウィン説からすれば、これは一本の樹の幹(共通の先祖)から枝が次々に分かれて、進化の最後に到達すべきものである。だから、ダーウィンの有名な生物進化の「系統樹」は、実は逆さにする方が現実に近いのだという。
 分子レベルでの系統発生研究の先駆者であるカール・ウェーゼ(Carl Woese)は、普遍的な共通の先祖が生きた生命体であったという考えを捨てるように勧める――「共通の先祖は一つの実体ではない。それは過程である。…従って普遍的な系統発生の樹は、根元が現実の生命体の樹ではない。」(強調引用者)
更に別の生物学者ドゥーリトル(W. Ford Doolittle)の達した結論はこうである―― 
「分子系統発生学者が「真の系統樹」を発見できなかったのは、彼らの方法が不適切だったからでも、間違った遺伝子を選んだからでもなく、生命の歴史が樹の形でうまく表現できないからである。」
「しかし普遍的な共通先祖が生命体でなかったとしたら、はたしてそれを「先祖」と呼べるのだろうか」とウェルズは言っている。こういった人々はすべて科学者である。これはまさに、科学が超自然(形のない現実世界)に遭遇した瞬間と言えるのではなかろうか。これはいわば、はじめにデザインがあった、創意工夫があった、ということではあるまいか。
 自然界に対する洞察力のすぐれていたゲーテが、すべての植物の親(原型)としての「原‐植物」(Urpflanze)というものを想定したことはよく知られている。「原‐植物」とは具体的にどんなものかと尋ねられたとき、ゲーテは、それは形が有るともいえるし無いともいえる、と答えている。これは曖昧とかごまかしといったものではないと私は考える。生命の始まりには、自然(見える世界)と超自然(見えない世界)の接点あるいは融合点を仮定せざるをえないからである。
IDは経験的・実証的科学である。したがってそれはゲーテのようなことは言わない。「わからない」と言うだけである。しかしそれはゲーテのような世界を強く指し示すのである。

『世界思想』No.359(2005年9月号)

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