NO.28(2005年 4月)


宇宙は閉鎖系か開放系か
――新しい時代の迫る選択――

渡辺 久義   

有神論的現実主義

 「宇宙は閉鎖系か開放系か」というタイトルで、最近私はインテリジェント・デザインを紹介する話を、ある勉強会の席でさせていただいた。このタイトルは一年以上も前から決まっていたものだったが、全く変える必要を感じなかった。
 ID理論はつまるところ、この選択の問題に帰着するのである。すなわち自然主義(科学的唯物論)が、このビッグバンによって始まった宇宙を一つの閉ざされたシステムと考えるのに対して、ID理論はこれを開かれたシステムと考えるのである。これを無神論(atheism)に対する有神論(theism)と言ってもよいのだが、これらの言葉のもつ旧来のニュアンスを避けるためにも、この物理学の概念を利用した方がよいと思われる。有神論・無神論といった言葉も時代とともに概念上のずれが生ずる。ID反対論者が殊更にこれを無視して、ID派が古臭い神信仰を蒸し返していると言いたがることに気付くべきである。(これはわが国の憲法や教育基本法の宗教条項に関する論議でも同じことだから、そこをよくわきまえていなければならない。)
 ID論者もそれぞれ個性があるが、フィリップ・ジョンソンなどは自分の立場を「有神論的現実主義」(theistic realism)だと明言する。「現実主義」とは合理主義、合理精神ということであって、「啓蒙主義」以来、神などという得体の知れないものを持ち出さないで説明することが合理精神だとされてきたものを、ジョンソンはひっくり返しているのである。そういうことを必然たらしめる時代がきていると考えるべきである。
 今、「啓蒙主義」以来の無神論的合理主義にとっては、きわめて不利な時代が到来していると言うべきであろう。なぜなら今、時空には始まりがあり、宇宙は膨張しながら有限であるというビッグバン説が、ほとんど事実になったからである。これも比較的最近までそうでもなかった。何とかして神の宇宙創造のようにみえるこのビッグバン説を避けようとして、無神論的科学者からいろんな理論が出されたが、どうやら時間とともにこれらの理論も消えていったようである。これもIDのような理論の出現を必然的なものにした重要なファクターである。
 自然主義もID理論もこの時空有限説は等しく受け入れている。その上での対立である。自然主義の方は、この宇宙の生成には、自然的要因すなわち必然(法則)と偶然のほかに何の力も働いていないと主張するわけだから、宇宙は(未知とはいえ要するに自然的要因によって)自分で自分を爆発的に創り出し、自分で自分を進化させ、無生物から生物を創り出し、より複雑で高度な意識をもった生命体を次々と創り出していったと主張していることになる。要するに宇宙は、自分を創ることから自分を高度化することまで、すべて自力でやってのけた自己完結体すなわち閉鎖系だということになる。
 しかしいったいこの我々の世界に、自分で自分を創るものがあるだろうか。そういうことが頭の中だけでも考えられるだろうか。宇宙といえども物理的には一つのモノであるに違いない。その宇宙だけは例外だというのであろうか。しかもそれだけではない。宇宙は自分の創りだした物質である高熱のガスのようなものを材料にして、今こうして宇宙の成り立ちを考えている高度な意識をも創り出したことになる。
 これは通常の理性がとうてい受け付けない考え方である。しかしその通常の理性の受け付けないことを、受け付けられたことにしておこう、というのが自然主義である。なぜそう言うのであろうか。それは「神」を受け入れるよりは、そのほうがよほどましだから、というわけである。しかし本当にそのほうがよほどましであろうか。
 これに対してインテリジェント・デザイン(あるいは有神論的合理主義)は、宇宙は自分を超えるものに向かって開かれた開放系だと主張する。自分を超えるものというのは、ちょうど三次元が二次元を超えるように、次元的に超えるものという意味である。我々はこれをイメージとしてとらえることはできないが、あえてイメージ化するなら、より高次の世界に、へその緒でつながっていると考えても、あるいは全体がそれに包み込まれていると考えてもよい。そのより高次元の世界からの「入力」なしに我々(この宇宙)は存在することができないと考えるのがIDである。この場合、「入力」というコンピューター用語がふさわしい。それは外から与えられるエネルギーのみならず情報をも意味するからで、生命の遺伝情報はここから入ってくると考える。またモノに還元できない生命も意識もここから発すると考えるのである。

正しい前提に戻す

 このような想定が古い神概念を蒸し返すことであろうか。確かにこの考え方は未知あるいは神秘の世界を認めることになる。しかし未知や神秘の世界に向かって我々の世界が開かれていると考えること、進化とか文明とか学術の進歩とかいわれるものはそこに向かって近づいていくことだと考えることが、理性に反する不合理な非科学的なことであろうか。
  むしろ、要因には自然的要因しかありえず、その中にすべての秘密が隠されているはずだから、自然主義がすべての鍵であって、宇宙の起源も遺伝情報の起源も、生命や意識の起源も、物理化学的に解明できるはずだという前提で自然研究をすることの方が、はるかに不合理で愚かしいことであろう。ちょうどアメリカ政府が、賢明にもSETI(地球外知性探査計画)から手を引いたように、ほぼ百パーセント幻であるものを追いかけることに、金や労力を使うべきではないのである。 
 これは自然研究をあきらめるということではない。間違った前提に立って自然研究をすることに見切りをつけるということである。ID批判の立場の学者のよく言うGod-of the-gaps――つながらぬ部分を神のせいにして切り抜けること、「苦しいときの神頼み」に当たる――ではなく、ものの見方を正しい軌道に乗せるということである。
 まずそのことによって、今まで見えなかったものが見えてくるということがあるだろう。「思い込み」と言われるものが「見れども見えず」という状態を作り出すことは誰でも知っている。そのよい例が古生物学者による化石調査である。ダーウィニズムという絶対の信念に立って化石の地層を調べる古生物学者は、しゅ種が連続せず断絶しているという否定できない事実に直面すると、これを「失敗」として「見るべき成果なし」と報告するだけで、論文にもならないのだという。これはマイケル・デントンの著書に依りながら前に述べたことがある。デントンは、注目すべきはこの断絶の事実であって、「自然は断絶し飛躍する」というのがむしろ自然界の法則であることに気付かなければならないと言うのである。
 確かにある程度までは、間違った前提に立って、労力や金を使うということも学問としてやむを得ないことである。しかし見切りをつけるべきときには見切りをつけるのが賢明というもので、今、ダーウィニズムに代表される自然主義(宇宙閉鎖系主義)はまさにそういう時期にきている、というのがIDの主張なのである。フィリップ・ジョンソンは『危機に立つ理性』(Reason in the Balance, 1995)の中で次のように言っている――

 生物学という学問は、遺伝情報が本当は始めから存在するインテリジェンス知性の産物だということが判明したとしても、生き残るだけでなく繁栄することだろう。生物学者は彼らの独断的な唯物論をあきらめ、「生命合成スープ」というような不毛な仮説を捨てるべきである。悪い考え方を放棄することは、得になるだけで損にはならない。生物学が十九世紀の唯物論につながれていた鎖から解き放たれるなら、この学問は、いかに遺伝情報の中に具現しているインテリジェンス知性が、物質を通じて生命体を機能させるかを発見するという魅力ある仕事に取り掛かることができよう。そうなれば化学物質の生命への進化といった考え方は、かつての錬金術――問題のよりよい理解がその無益さを明らかにしたとき捨てられた――の道をたどり、科学は新しい地平に立つことになるだろう。

 自然主義生物学を、卑金属から貴金属を抽出しようとする錬金術にたとえるのは巧妙である。錬金術者も、自分の方法が正しいはずだと信じて長年にわたって努力してきた。しかしそれに代わるより有効な化学という方法が出現したために、自らに見切りをつけたのである。今まさにID理論がその化学に当たる。それは絶対的というわけではない、仮説としてより有効・より合理的ということである。

超次元への開放系宇宙

 仮説としてより有効ということは、より広範囲の問題を取り込んで説明する能力をもつということである。この宇宙をより高次の世界に向かって開かれた開放系と解釈する方が、自己完結的に閉ざされていると解釈するよりも、我々の解決すべきより多くの問題に対応することができ、より多くの問題との有機的なつながりが生ずるのである。ジョンソンの言うように、宇宙を開放系と解釈するからといって生物学のなすべきことがなくなるわけではない。それどころか生物学は、今までつながりのなかった他の問題、たとえば生命の価値とか生きる目的といった問題を取り込み、生物学は生命学としてより豊かな研究ができるであろう。そこには死後の生命といった問題とも関連が生ずる。
 お前の生命や心の根源は物質だと言われて、納得できる人は少ないだろう。自分の生命や心は、何らかの自分を超えたものの生命や心とつながっていると考える方が、考え易いのである。死後の生命というものが全くありえないという人も少数であろうが、そういうことを言い張る人は、あの世とか神とかでなく開放系宇宙を視覚化してみればよい。宇宙が高次元世界へと開かれていれば、私自身も高次元世界へと開かれているのである。
 ところで開放系とか閉鎖系とかいう問題は、物理的な意味では、系の外側とのエネルギーのやり取りがあるかないかという問題である。宇宙が外に向かって開かれているというような言い方をしてきたのは、むろん物理的(空間的)な外側をいうのでなく、次元的な外側である。そのことが誤解されてはならない。
 物理的には、我々のこの宇宙は閉鎖系であろう。生まれたものは死ななければならないように、時空的に始まったものは、いつか時空的に終わらなければならないだろう。物理的に言えば、熱の落差はなくなる一方であり、いわゆる熱力学の第二法則によって、エントロピーの最大値、「熱死」を迎えねばならないだろう。ところが、この宇宙(といっても実は地球だけに集中している)は明らかに、生命や意識の高度化へ向かって進化している。この矛盾をどう考えるか。なぜ宇宙も人(小宇宙)も、生まれ成長してまた死ぬのか。
 実はこの矛盾も、超次元への開放系宇宙という仮説(すなわちID理論)から、解決が導き出されると私は考える。私の考えはこうである。この地上最高の生命(つまり人間)を通じての宇宙生命の高度化とは、意識がより大きく覚醒していくことである(脳や体の複雑化はそれを可能にするものにすぎない)。これを「霊的に覚醒していく」と言ってもよい。我々の太陽はいずれ燃え尽きるだろう。仮にそのときまで我々人類が生きていて、太陽の死とともに死ぬとしよう。そのとき物理的宇宙と我々の肉体はなくなるが、覚醒しきった霊は生きているのである。そして我々の霊(意識)の発祥地である高次元世界へと自然に吸収されるのである。これは宇宙と人類が、そんなふうにデザインされているのではなかろうかという仮説である。これは一人の人間(小宇宙)についても同じである。我々は生まれてきて死ぬまでの間に、可能な限り自分を霊的に覚醒させて死ぬようにデザインされていると考えるべきではなかろうか。
 人はこれを奇妙な考えだと笑うかもしれない。しかし、この熱力学法則と進化の矛盾を解くのに、あくまで宇宙を閉鎖系と考えた上で、その内部に生命進化の未知の「法則」やデザインの能力が内在すると仮定して四苦八苦するスチュアート・カウフマン(Stuart Kauffman)やポール・デイヴィス(Paul Davies)の仮説よりは、はるかに辻褄が合うのではなかろうか。

『世界思想』No. 354. (2005年 4月号) 

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