NO.25(2005年1月)


インテリジェント・デザインに対する反論
――反論によって露呈する自己矛盾――

渡辺 久義   

賛否両論を闘わせる

 前号に紹介した『デザイン論争―ダーウィニズムからDNAへ』(W. Dembski & M. Ruse eds., Debating Design: From Darwinism to DNA, Cambridge University Press, 2004)という本をもう一度紹介すると、これはデザイン論に対する賛否両論を公平に載せて、読者に自由に判断させようとしたもので、編集者もプロとコンの両陣営からデムスキー(プロ)とマイケル・リュース(コン)の二人を立てて編集されたものである。マイケル・リュースはダーウィン進化論者の代表格でありながら、(前にも一度触れたように)デザイン論に対しては、筋が通っていることを認め、これを無視することはできないという立場で、一定の理解を示している人である(だからこそこの本が可能になったと言える)。当然ながら、これはデザイン論側の余裕から生まれた本であると言える。
 真っ向からデザイン論を不倶戴天の敵とするダーウィニストがこの本で四人登場する。その一人がフランシスコ・アヤラ(Francisco Ayala)で、この人の反論がどういうものであるかについては前号でかなり詳しく述べた。残る三人のうち、ケネス・ミラー(Kenneth R. Miller)とロバート・ぺノック(Robert T. Pennock)の議論を検証しながら、そこに何が見えてくるのかを見ていこうと思う。
 まず、ケネス・ミラーの攻撃の矛先は、マイケル・ベーエの鞭毛(flagellumバクテリアが液体中を泳ぐのに用いる鞭状のもの)の仕組みの研究に向けられる。すでに紹介したように(二〇〇三年五月号)、ベーエのこの有名な研究(他に血液凝固の仕組みの研究などもある)が、インテリジェント・デザイン論の拠り所の一つとなっていることは確かである。最初におさらいすると、これは積み木細工のように、徐々に積み重なって出来ると解釈することもできる進化過程(例えば骨の変形)でなく、複雑な器官で各部品(構成要素)がすべて同時に連携して働いて始めて機能する装置(脊椎動物の眼がよい例)が、ダーウィニズムの盲目的漸次進化という考え方では説明できないことを、鞭毛を例にとってその分子レベルの仕組みを解明することによって証明しようとしたものである。
 眼が一気に創られたというのは、自然主義の立場に立つかぎり不思議なので、現実にはそう考えざるをえないのである。しかしダーウィニスト――ダーウィン自身は別――はそういう考え方を一笑に付すのであって、眼は徐々に出来たと主張してやまない。結局これはどちらの側も証明ができないために、水掛け論に終わっていたのである。
 べーエがダーウィン説ではこういったことが説明できないことを証明できたのは、鞭毛を働かせる仕組みがほんのわずかのタンパク質の部品(三十数個といわれる)から成っていて、そのどの一つが欠けても全く鞭毛として機能しないことを発見したからであった。彼はこれを数個の構成部品から成る(ネズミを挟んで捕らえる)バネ式ネズミ捕り器に例えて説明する。これは簡単な装置だが、それを構成するどの一個の部品が欠けても全くネズミ捕りとしての機能を果さない。彼はこれを「還元不能の複雑性」(Irreducible Complexity)と呼んで、これが生命界には満ちあふれているとした。
 彼の狙いは、明確な目的をもったある程度以上に複雑な装置なり器官なりが、ダーウィニズムが唱えるように盲目の自然力のみによって徐々に出来るものでないことを、反論しようのない分子のレベルで証明することにあった。そこには何らかのデザインすなわちデザイナーの手が働いていることを認めざるをえないのである。

「還元不能」説が崩れた?

 べーエのこの研究が少なからぬ話題を呼んで、科学者による検証の作業が行われた。すると、べーエの主張することがウソだということが判明したのだとミラーは言う。ウソといっても全面的なウソではなく、「還元不能」という主張が崩れたのだという。なぜかというと、鞭毛の装置に必要な三十数個の分子のうちの、幾つかの分子が集まった段階で、ある全く別の機能を果す装置が出来ることが可能だということが突き止められたからだという。それは鞭毛のモーター装置とは縁もゆかりもない、悪玉バクテリアのもつ毒物発射装置で、ミラーによれば「疑ってもいない宿主の細胞膜を通してこれらの毒物を注射することを可能にするいやらしい小さな装置」であるという。ミラーはこれを次のように説明している――

 従って、鞭毛装置を構成する全タンパク質のより少ないサブセットで、りっぱに機能するTTSS[毒物発射装置のこと]の細胞膜を突き通す部分ができることが今や明らかとなった。単刀直入に言えば、TTSSは鞭毛の基礎から取った一握りのタンパク質を使って、その汚い仕事をするのである。進化論の観点からすれば、この関係は何ら驚くべきものではない。実際、進化過程の日和見主義(opportunism)が、斬新で新奇な機能を作り出すために、タンパク質を混ぜたり合わせたりするのである。ところが還元不能の複雑性の説によれば、こういうことがあってはならないことになっている。もし鞭毛が本当に還元不能に複雑なものならば、十や十五の部品は言うに及ばず、一個の部品が足りなくても、残るものは「定義上機能不全」になるはずである。しかるにTTSSは鞭毛の部品の大部分を欠いているにもかかわらず、十分に機能するのである。
… …
 それ[還元不能の複雑性説]は、バクテリアの鞭毛が還元不能に複雑であるがゆえに、それは理論的にさえ進化したとは言えないという主張を理屈付けるために考え出されたものである。ところが今、より単純な機能するシステム(TTSS)が鞭毛のタンパク質部品の中から発見されたことによって、還元不能の複雑性の主張は崩れ去った。そしてそれとともに、鞭毛がデザインされたといういかなる「証拠」も崩れ去ったのである。

 これがおかしな議論であることは、少し考えてみればわかるであろう。まずべーエが主張しているのは、部品の全部が揃わなければ鞭毛として機能しないということである。部品のサブセットで全く別の機能をもつものができるかどうかは、関係のないことである。これを挟み式ネズミ捕りに例えて言えば、木製の板はそれだけで、例えばまな板として使えるだろう。板にバネをつければ、跳び箱の踏み切り台として使えるだろう。さらにバネの先に何か面白いものでもつければ、子供のおもちゃになるだろう。しかしこれらはすべてネズミ捕り機能とは関係がなく、ネズミ捕り器はこれ以上一つたりとも部品を省くことのできない装置の例であることに変わりはない。
 べーエもそういった反論をしたらしく、もしサブセットで別の立派な目的と機能をもつものができるのなら、それはデザインされたものが二つに増えたことになって、デザイン論を補強することになるだけではないか、というような反論をしたらしい。しかしミラー(と彼の支持者たち)は引き下がらず、「還元不能」と言っていたその主張が崩れた以上、デザイン理論も成立しなくなった、と言っているのである。

「自然」なのに「選択」

 これだけでもおかしな理屈であるが、問題はもっと別 のところにある。まずミラーがダーウィニズムの特質を「日和見主義」と規定していることである。この同じ言葉は、先月号に取り上げたアヤラも「自然選択の日和見的な(opportunistic)補修屋的な性格」というふうに使っていたから、これはダーウィニストの公的な規定と考えてよかろう。彼らの考えでは自然界には目的も方向性もないのだから、「日和見主義」ということになるのである。つまり、生命界は場当たり的に、その時その時に環境が選んで残してくれるものを生かしながら進化するのだから、何ができるかはわからない、踏み切り台ができたかと思えば、次には子供のおもちゃができ、次には思いもかけず、ネズミ捕り器という便利なものができチャッタ、というふうに進化するのである。
 しかしもっと可笑しいことがある。それはダーウィニストが自然界には目的も計画もないと言っているのに、そのあとから「斬新で新奇な機能を作り出すために(in order to produce new and novel functions)」と言っていることである。これでは目的性を認めていることになる。しかしそこを追求すれば彼らは、「それはあたかも目的のようにみえるだけで実際は目的ではない」と答えるであろう。私は単に意地悪で言葉尻をとらえてこんなことを言っているのではない。こんなふうに言葉の無理をしなければならないほどに、ダーウィニズムは矛盾した教説だと言っているのである。
 そもそも「自然選択」(natural selection)という用語がいわば魔法の言葉なのである。なぜなら、ここで「自然」とは無目的、無意志という意味であるが、「選択」は必ず目的と意志をもってするものだからである。これをoxymoron(撞着語法)だという人たちがいるが、言われてみるとその通 りである。(William S. Harris & John H. Calvert,“Intelligent Design: The Scientific Alternative to Evolution”なおこの論文は、インテリジェント・デザインを非常に要領よく紹介する三十ページほどのもので、英語の読める方にはおすすめしたい。IDnetというウエブサイトに出てくる。Oxymoronとは「小さな巨人」とか「曲がった直線」といった類の言い方のこと)
 べーエの指摘するデザイン性は、「還元不能の複雑性」ということだけにあるのではない。鞭毛のモーター装置を構成する一つ一つの部品がまず目的に合ったものでなければならない。他の目的に応用されうることを認めたとしても、部品自体がデザインされたものでなければならない。さらに必要な部品のすべてが一つの場所に集まってきて、正しい順序で組み立てられなければならない。こういったことがもし意志をもたない、すなわち「日和見的」な自然の力のみによって起こるのだとすると、その確率は事実上ゼロでなければならない。このことに対しては、ミラーはこんなふうに言っている――

 原核細胞の中の、複雑な構造物を作るタンパク質の局所集中や自己組み立ては、一般 に、タンパク質自体の元々の構造のなかに組み込まれた信号(signals)によって決まるのである。同じことはおそらく、鞭毛を構成する三十幾つのタンパク質や鞭毛の組み立てに必要なほぼ二十個のタンパク質のアミノ酸配列についても言えるであろう。従って、すべてのタンパク質の配列が正しければ、局所集中や組み立て作業は自動的に行われる(take care of themselves)であろう。

 おそらくその通りであろう。しかし、それぞれのタンパク質が自分の内部に信号を組み込まれているということは、それぞれのタンパク質が目的や意志や方向性を付与されているということではないのか。だからそれはタンパク質にデザイン性が組み込まれているということであろう。自動的に作業が行われるとしても、それはもともと信号(指令といっても同じであろう)を組み込まれ、それに従っているからで、それは指令を与えた者の意志によって動いているのである。要するに単なる物理化学的要因だけでなく、プラス・アルファの要因によって動いているのである。
 組み込まれた信号というのは、何かを実現するための信号であろう。一つ一つの必要なタンパク質すなわち機械の部品が、一つ所に集まってきて組み立て作業を始めるのは、鞭毛の機械装置を作れという指令を受けているからである。なぜその指令の要因をデザインと言ってはいけないのか。なぜ鞭毛構築にインテリジェント・デザインが働いているといっていけないのか。全く理解できないではないか。

デザイナーは認めたくない  

 デザイン論は自然界に何らかの形でデザインが働いていると主張するだけであって、どこでどう働いているかということは言っていないのである。だからミラー(や他の反デザイン論者)がデザイン論に反対する理由はないのである。ならばどうして反デザイン論者たちは、ののしるような口調でデザイン論を攻撃するのであろうか。その謎はどうやら、これらの反論を読むうちに解けてくるように思える。
 反デザイン論者も自然界にデザインが関与していることを認める――それは認めざるをえないからである。しかしデザインという事実から否応なく導き出されるデザイナー(神)の存在は認めたくないのである。要するに、タンパク質など極微のレベルのデザイン性は認めても、宇宙そのもののデザイン性は認めたくないのである。すなわち、無神論の立場を譲ることはできないのである。しかしそう考えて彼らは自分で納得できるのだろうか。
 そのことは、彼らがデザイン論を曲解して、あたかも神という異物が天から降りてきて魔術師のように自然界に介入することがインテリジェント・デザインであるかのように、自分にも他人にも思い込ませようとするところにうかがうことができる。
 しかしこれは稿を改めて、もう一人の反デザイン論者ロバート・ぺノックの議論を検証しながら考えてみることにしたい。

『世界思想』No. 351(2005年1月号)
 

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