NO.15(2004年3月)


生命をどのように捉えるか
――哲学のない科学に発展性なし――

渡辺 久義   

我々の根源は何か

 少し前に『世界思想』に立場の近いある雑誌で、アメリカに批判的なある論者が、「何しろアメリカというところは知的に遅れたところだ、その証拠にいまだに進化‐創造論争などというものをやっているのだから」というようなことを言っているのを読んだことがある。もちろん進化ということに決着済みではないか、と言っているのである。そんなふうに言う人は、この問題を自分で考えてみたこともなく、考える力もないことを白状しているにすぎない。我々の立場から言えば「日本というところは知的に遅れたところだ、何しろ進化‐創造論争というものが起こったことがないのだから」と言わなければならない。
どちらにくみ与せよというのではない、そういう問題に悩むこともなく、あたかもそんな問題など存在しないかのように生きていられるということが、哲学的に貧困だということである。イラクの問題も、北朝鮮の問題も、過激フェミニズムの問題も、教育崩壊の問題も、みなこの「我々の根源は何か」という問題に淵源があるではないか。すべてが宇宙解釈の問題から発しているではないか。対岸の偏狭な一神教国の問題などではないのである。
 むろんリチャード・ドーキンズやカール・セーガンのような「知識人」で、アメリカ人の大多数が唯物論的進化論を信じないのは嘆かわしいことだ、と言って嘆く人もいる。けれども彼らは彼らなりの哲学をもっていて、特にドーキンズなどは確信犯的なところがあって、それなりに面白いのである。同じ意味で、純粋なフェミニストも共産主義者もそれなりに面白い。つまり彼我の対立構図をはっきりさせてくれるという意味で面白いのである。しかし、それが全く問題にもならない国というのは異常と言わざるをえない。
 インテリジェント・デザイン論者たちはすべて、そういう哲学的な、究極的に生き方すなわち倫理に通ずる問題意識をもち、それを正確に言い表そうとする人たちであって、相手を言い負かして快哉を叫ぶような人たちではない。彼らの多くが科学の世界に身をおく以上、それは普通以上に深刻な悩みでなければならないのである。

科学で生命を作る?

 私の知人で国立大学の理系の教授をしている若い人がいる。著書もいくつかあってその方面ではかなり影響力をもっているらしい。この人が数年前、ある小規模な講演会で、「いつかきっと我々科学者が生命を作るようになるはずだ。それが増殖し、進化し、文明を作るように計画することもできるだろう」と語ったことがある。私が「それはコンピューター・シミュレーションでの話でしょう」と質問すると――ドーキンズが進化などいとも簡単だといって引証するのはそれである――「いや現実の話です」と当然のように彼は答えた。
 他の人はどう反応したか知らない、私は唖然としたのである。唖然とする私(の無知に)唖然とする人もいるのかもしれない。が、ともかくこういう荒唐無稽な(と失礼かもしれないが、ひとまず言っておこう)考えにどう対応してよいかわからないのは、一つには生命というものの定義がはっきりしていないからである。しかし定義よりもっと奥に哲学がある。そしてその哲学は科学に先んずるものである。そういうことを考えたことのない科学者が「生命を作る」などと言っても、我々は鼻白むだけである。「あなたの考える生命とは何ですか」とまず尋ねなければならない。しかし本当は、尋ねられるより前にそう主張する本人が、正確な言葉で(というのは学者だから)、それを言わなければならないのである。

生命をどう捉えるか

 これは彼だけの信念とは思えない。彼のような信念をもつ科学者は大勢いるのであろう。私の一番言って欲しいことは、そもそも生命というものをどう捉えているのかという哲学の部分なのだが、それはこの「生命を作る」という言い方にすでに現れている。むろん彼は自分が作ると豪語しているわけではない。作れるはずだと言っているのである。だから彼に限らない、近代科学の無言の前提(アサンプション)であるこの「はず」を吟味するところから始めなければならない。彼はそんなことを考えたことはないであろう。
 例えば「永遠の生命」あるいは「死後の生命」といわれているものがある。むろん科学者としては、そういうものを肯定も否定もできないだろう。しかしそういうものを幻想だとして必死になって排除しなければならないような生命観、つまりそういうものの可能性をすら取り込めないような生命仮説なら、仮説として失格であろう。しかもそれはいわゆる科学の生命観の難点の一例にすぎない。
 現在でも、物質から生命を合成しようとするオパーリンやミラーのような研究をしている人が、あるのかないのか私は知らない。それはそれなりに有意義な研究だろうと思う。ただ、物質は生命を成立させる必要条件にすぎず十分条件ではない、という前提に立って研究をするか、それとも物質さえあれば生命を作るのに十分であるという前提に立って研究を進めるかは、大きな違いである。この二つの異なった立場の研究者が、同じ研究室で全く同じことをやっていたとしても、見るところが違っており、そこから生ずる成果にも大きな違いが出てくるはずである。前提が違えば、同じ現象に違ったものを見たり、見えているものが全然見えなかったりする、ということを我々は体験上知っている。
 「生命を作る」と例の友人の科学者が言うのは、もちろん結婚して子供を作るという意味ではない。現存するものとは全く別の新しい生命体を作るという意味であろう。その場合二つの意味が考えられる。全く原理的に違う(例えば、遺伝子が全く別、炭素も水も使わない、といった)生命なのか、それとも、現存する生命の原理の上に立つ、しかし全く新種の生命体(例えば新人類)を、胚発生段階から子孫代々まで繁栄するように、うまくプログラミングするということなのか。おそらく前者のようなことは考えていないであろうから、後者であろう。
 おそらく彼は、遺伝子という生命の基本となるものを人類が取り押さえた以上、これをうまく操作すれば、原理的に、望みのどんな生物でも作れるはずだと考えているのであろう。これは、生命体はその構成要素に還元できるのだから、逆にその要素を組み立てれば生命ができるはずだという単純な考え方――いわゆる還元主義――であるが、これが比較的最近まで、生物学者の一般の考え方であったようである。

一体的な生命と環境

 やはり今回も、紹介し続けているマイケル・デントン(Michael Denton)の『予定された自然』(Nature's Destiny)に拠って事情を説明してみよう。一時期、自分たちの力によってどんな生物でも作り出せると狂喜しかつ怖れた科学者たちが、自己規制のガイドラインを作ろうと集まったのが、一九七五年、米国で開かれた「アシロマー会議」であった。その頃の学界、民間を通じての興奮ぶりは並大抵のものではなかったという。

 人間が世界を作り変えるというこのシナリオは、通俗科学の世界だけに限られたものではなかった。すでに一九七二年に、バッファローのニューヨーク州立大学の理論生物学センター所長で、すぐれた細胞生物学者のジェームズ・ダニエリ博士の次のような発言が広く引用されていた――「やがて二、三十年もすれば、しかしもしかすると十年ということも十分ありうるが、科学者たちは新しい種を作り出すようになり、百億年の進化に相当するものを一年で実現することが可能になるであろう」。

 そう言われたら誰しも興奮しない者はいないであろうが、それは糠喜びにしてかつ杞憂であったことが、程なくして判明することになる。

 そのようなことがあって後、人々の間には、遺伝子工学の到来によって人類は、超人間とかその他いろんな奇怪な新生物のいる、すっかり作り変えられた世界、遺伝子地獄へと導かれるのではないかという怖れ、あるいはヒステリーとさえいえるものが広まった。しかしそれから二十年の後、これらの恐怖が根拠のないものであることが判明した。…大型ネズミとか(イチゴの)霜防止バクテリアのような現実に実現した遺伝子工学の例は、見かけほど重要な意味をもつものではなかった。それらは遺伝子工学といえるようなものではなく、車のエンジンをデザインし直すというよりは、チューニングし直すのに似た、比較的些細な手直しにあたるもので、すべての生命体に組み込まれてすでに存在する変動の可能性を利用したにすぎなかったのである。…
 今日までの遺伝子工学によるいかなる成果も、最初の原理からの新生物の創造とか、すでに存在する生物を、自然環境で競争して生き残れるように根本的にデザインし直すこととは、およそ程遠いのである。この夢は遠い未来へと持ち越されたのだ。

 すなわち、ここ二、三十年の間に生命についての考え方が大きく変わった、いや変わらざるをえなかったとみなければならない。パラダイムの転換を強要されたと言ってもよいであろう。それは生命体と生命環境で作る生命世界というものが一つの調和をなす生き物だという認識であり、そこにあえて人工的な異物を挟み込むなら、ちょうど我々の体内に異物が入ってきたように異常をきたすということである。そして我々の体が外からの異物を排除しようとするように、自然界も異物を排除しようとするのだと考えてよいだろう。「超人間とかその他いろんな奇怪な新生物」が作れないどころか、一つの植物でさえわずかの変化をしか許容しないということは、そういうことを意味する。

ホーリズム

 もしそういった全体的調和体の一部分をあえて変えれば、いずれ他のどこかに障りが生じてくるということである。これが遺伝子組み換えや遺伝子治療が、期待されたほどのことはなく、あまり話題にもならない理由である。少なくともそういったものに過大な期待をかけることは間違っている。我々の体の部分の入れ替えでも同じで、我々の体が問題なく許容するのはせいぜい型の合った血液ぐらいではないか。臓器移植などの場合は、たとえ成功はしても、長期にわたって体の他の場所に全く支障を及ぼさないということはないようである。生命体をデザインし直すのが困難な理由は、「その構造が恐ろしく複雑だということよりも、むしろそれらがあまりにも強力に統合されている(intensely integrated)ので、その構成要素を個々に取り出すことも、取り替えることも簡単にはできないという現実にある」とデントンは言っている。
 生命とは要するに、ホーリスティック(holistic全体論的)な現象である。このholism (wholismとも綴る)という概念が、生命のパラダイム転換の鍵概念であるにもかかわらず、いまだにあまりよく理解されていないようである。この言葉は語源的に「(完)全体」(whole)「神聖」(holy)「健康」(health)「癒し」(heal)のすべての意味を含んでいる。有機的に統合された全体であるということが、すなわち健全でもあり神聖でもあるということである。一個の生命体も全体としての生命界も、原理的に同じである。人間の恣意によってみだりにその一部を乱すということは、全体が不健全になること、神聖を汚されることを意味する。(私はこのことを『善く生きる』(世界日報社)で詳しく論じた)
 デントンは、十九世紀初頭のジョルジュ・キュヴィエの次のような言葉を思い起こすべきだと言っている。

 すべての生命体は一つの全体(whole)を形成する。…それはそれ自身の固有のシステムであり、その各部分が相互に照応し、相互の反応によって同時的に同じ一定の活動を作り出すように作用する。これらの部分のいずれも、他の部分に変化を及ぼすことなしには、形を変えることはできない。

 問題なさそうにみえたあのクローン羊の「ドリー」でさえ、早死にしたことは記憶に新しい。羊は人間と比べて際立った「個性」をもっていない。つまり個体としての独立性がより小さいのである(魚や蟻により近い存在である)。その羊でさえ生き残る力が弱いのであれば、人間のクローンがまともに生きられるわけがない。人間のクローンを作りたくてうずうずしている生物学者を多くの国は規制しているようだが、いま新しく提起されている生命パラダイムに立ってこれを見るならば、結果は見えているのであって、うずうずする必要も規制する必要もないと言うべきであろう。そこから飛び降りればどうなるかほぼわかっている実験を、あえてやってみる必要はないのである。

たった一人の私

 私という人間はこの宇宙にたった一人であるべく予定されていると解釈すべきであって、私のクローンは宇宙にとって排除すべき「異物」であると考えなければならない。人間原理的=目的論的=デザイン論的パラダイムに立てばそういうことになる。本誌に連載中の渡辺芳雄氏の講義にある言葉で言えば、あなたや私は「個性真理体」であって、宇宙はたった一人のあなたや私を生み出すべく、何億年もかけて準備してきたのである。

『世界思想』No.341(2004年3月号)

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