NO.4 (2003年4月)


「デザイン理論」は科学と神学をつなぐ

渡辺 久義   

科学で見えてきた神

 Designという英語は、設計、計画、意図、目的といった概念すべてを含んでいる。日本語で「デザイン」と言えば、図案、設計というだけの意味であるから、これとは違う。だからIntelligent Design という言葉が、神の手、神の計画、目的論的世界観といったものを暗示する(決して明示はしない)ものとして、自然主義(すべてを物理力によって説明しようとする)の対立概念として、旗印のように浮上してきたのは肯けるのである。日本語にはこれに当てはまる言葉がないということが、日本の学界からこういう思考法が生まれてこない一因であろうかと、考えざるをえない。
 日本人のほとんどはキリスト教的な家庭に育ってはいない。けれども何のためにこの宇宙が存在し自分が存在するのか、といった疑問が、子供時代に頭の中を一度もよぎったことがないという人は少ないであろう。しかし日本人の場合、神の創造という考えが風土的に存在しない上に、自然主義的な思考法だけがこの社会では唯一制度的に許されていることを感じ取るようになると、せっかく頭に浮かんだそういう疑問も、まるで恥かしい子供じみた疑問であったかのように、意識の上から消え失せるのである。少なくとも私自身の体験ではそうである。
 しかし私の子供時代と現在とでは、少なからず事情が変わってきている。ちょうど通信と交通の手段が飛躍的に発達したことによって地球が小さくなったように、宇宙そのものも小さくなった。我々の宇宙はたった百三十七億年(この数字はごく最近NASAの観測に基づいて推定された)前に誕生したばかりで、今も膨張しつづけているというビッグバン仮説は、私の子供時代には存在しなかった。時間の始まりとか空間の限界という昔なかった考え方にも次第に慣れてきた。ちょうど青い宝石のような地球を両の手のひらにのせていつくしむ図柄があるように、宇宙そのものもいわばdweller-kindly(住む者にやさしく配慮された)というべき、身近なものとして次第に実感されるようになってきたのである。地球上の生物界が、弱肉強食の厳しいだけの世界だという考え方が次第に薄れていったように、宇宙が冷たい物理法則に支配されるだけの、人間などに無関心な非情な存在だという考え方も、今は次第に薄れつつある。
 このことはいったい何を意味するか。ビッグバン以前に時間はなかったのか。なかったとは言えない。とすればそれは我々の時間ではない。我々の次元を超えた次元の時間と考えるよりほかはない。時間空間的に限定された我々の宇宙が、我々の次元を超えたものによっていつくしむように抱かれている、というイメージは感傷的で空想的なものだろうか。そうではない、現実的な像である。ここから帰結されるものは何か。神である。現実的存在としての我々と我々の宇宙を創った神である。かりに一神教に好意をもたぬ者であろうとも、この神を認めないわけにはいかない。西欧世界においてほぼ過去百五十年間、知識人の間でコケにされてきた神、わが国でもそれにならって明治以来、その名さえ口にすることを(古代ユダヤ社会とは全く逆の理由で)憚ってきた神、その神がいま過去数十年の科学的観測の帰結として、有無を言わさぬ形でおのれを開示してきたのである。

有限だった宇宙

 インテリジェント・デザイン運動が今この時期に勢いを得てきたことの背後には、以上のような宇宙像の変化があったであろう。すなわち宇宙が有限でしかも意外に若く小さいものだったという事実、何ものかこれを、外から包み支えているものを想定しなければならないこと――こういうところからくる宇宙像が、科学そのものの前提を見直すこの運動を促進したであろう。つまり、果てしなく遠く、冷たい法則だけが支配していると考えられた宇宙では、必然と偶然(この後者は二十世紀になって物理学にも導入された)だけが自然界に働く要因であり、デザイン(アリストテレスの言葉でいえば、目的因と形相因)がそこに入り込む余地はなかった。
 デザイン派と、戦闘的ダ―ウィニストであるリチャード・ドーキンズなどに代表される自然主義派の根本的な違いは、前回に引用したデムスキーの言葉にあったように、我々の宇宙が自己完結的なものであるか否かというところにある。これは解釈の問題であって、どちらが正しいかを証明することはできない。ただ、どちらがより合理的であるかの選択はできる。デザイン派にとってどうしても納得できないのは、なぜこれまでの科学を始めとする知的活動のすべてが、この自然界は自己完結したものでなければならないという独断的前提のもとに進められ、それ以外の前提を全く認めようとしないのか、ということである。なぜ生命や心(精神)を扱う学問までが、この小さな有限の世界の内部の要因のみによって組み立てられねばならないのか。なぜこの宇宙が自己完結したものでなく、外からの入力が働いていると仮定することが許されないのか、という疑問である。我々の宇宙が外(次元的な外)に向かう通路をもっているはずがないという断定はどこからくるのか。考えてみれば不思議なことなのである。

恐るべき「微調整」

 我々の宇宙は百三十七億年前のビッグバンと呼ばれる出来事によって創成された。今これに異議を唱える者はほとんどいない。ではそれは偶然によるのか、必然によるのか、デザインによるのか。宇宙自己完結論者は、当然のようにこれを偶然か必然、あるいはその組み合わせと考える。(ジャック・モノーの『偶然と必然』は進化の要因としてその二つしか考えてはいけないと説く本だが、これをビッグバンにまで拡張解釈して考えてもよい。)デザイン論者はこれを外からの(超)知的な働きによると考える。ところでビッグバンは、チェルノブイリの原発爆発事故のようなものとは全く違う。「ビッグバン」という名前がそういう印象を与えるが、これはもともとこの説が初めて提唱されたとき、反対者がからかってそう呼んだものが定着したものであるという(ヒュー・ロスによる)。
 これが外からの知的な働き(すなわちデザイン)によるものと十分に推定され得るのは、「爆発」の当初から、将来、今あるような生命と生命環境を作り出すために必要な、恐るべき精度でファイン・チューニング(微調整)された物理的数値がいくつも重なっていて、そのすべてがクリアされなければ(すなわち、どの一つがわずかに狂っていても)今あるこの世界は作られていなかったという計測的事実による。ヒュー・ロスの『創造者と宇宙』(連載初回に紹介した)によれば、それは強い核力、弱い核力、重力、電磁力それぞれの常数、重力常数に対する電磁力常数の比、陽子に対する電子の質量比、宇宙の膨張速度、光速など三十五項目に及ぶ。
 素人の私にはその途方もない数値の精度については、どう考えればよいかもわからないのだが、この本から一部を引用してみよう。

 もう一つのパラメーターできわめて繊細なのは、重力常数に対する電磁力常数の比率である。もし重力に対する電磁力の割合が、10___(十の四十乗分の一)でも増すならば、大きな恒星しか形成されないだろう。逆にそれが10___でも少なくなれば、小さな恒星しか形成されない。しかし生命が宇宙で可能になるためには、大きな星も小さな星も存在しなければならない。大きな星が存在しなければならないのは、その熱核炉の中でのみ、生命に不可欠な元素の大部分が作られるからである。太陽のような小さな星も存在しなければならない。それは小さな星だけが、生命をもつ惑星を維持するのに十分なだけ長くまた安定して燃えるからである。
 10___とは次のようなものである――それぞれが北米大陸の大きさ、月にとどく高さに並べ積み上げた十セント硬貨の山が十億個あるとし、目隠しをした人が最初の試行によって、一個の赤く塗った硬貨を選び出すと考えよ。

 ここで私が思い出すのは、仏典に出てくる「一眼の亀と浮木」のたとえ話である。海底に暮らしている片目の亀が千年に一度海面に浮上してくる、するとそこに世界に一つしかない穴のあいた浮木があり、亀の頭がすっぽりそこにはまる。これは人が人間として生まれてくること、またその人間が仏法に出遭うことのむつかしさ、有り難さを言ったものである。この話などを読むと、仏典を書いた昔のインドの人々は「人間原理」を直観で知っていたのだろうかと思えてくる。

なぜ素直になれない

 それはともかく、我々の宇宙が作られたときの驚くべき「微調整」の事実を、(作られたのでなく)自分で自分を作った宇宙が自分で自分を偶然(意味も目的もなく)調整したのだと解釈すべきなのだろうか。ダ―ウィニストならそう主張するはずである。なぜなら宇宙の創成も生命(人間)の創成も本質的には同じである。ダーウィニズムに従えば、そういったことはすべて偶然であり無目的に起こったことである。その結果として現在、絶妙の生命体と生命環境がこの地上に出現していようと、いなかろうと、そんなことに特別の意味はない、ということになる。これをニヒリズムという。この世界に働く要因からデザインを追放すれば、必然的にニヒリズムにいたるのである。
 デザイン論者はそうは考えない。人間が自分で自分を作ったのでないように、この宇宙も自分で自分を作ったのでなく作られたものだと考える。何よりも、当然そう考えざるをえないような状況証拠が半世紀も前と比べたら、出揃ってきたではないか。そういう目で周囲を見渡せば、いたるところにデザインが満ちあふれているではないか。
 最近NHKテレビなどで、自然界の不思議を紹介する番組が多くなったように思う。「造化の妙」という言葉で日本人が昔から言い習わしてきた、よくぞここまでと誰もが驚嘆するような、絶妙で合目的的な自然界の仕組みが、生物学者などの研究によってますます明らかになりつつある。誰もがこれをデザインされたもの、目的をもって考案されたものと認めるだろう。無目的・無方向な自然選択によって、そういうものが勝手にできたとは思わないだろう。
 ところが、これをデザインだと言っても思ってもいけないことになっているのである。自然界にそういう要因は働いていないことになっているのである。だから解説者は必ずこれを、自然界に働いている自然力(すなわち必然と偶然)によるかのごとく説明するのであって、決してこれを外から入力されたデザインだとは言わない。彼らは自然界の巧妙さとは言うかもしれないが、神の巧妙さとは絶対に言わないようにしている。なぜもっと素直になれないのだろうか、と思うのは私だけではないだろう。私は特に子供に対しては、「神様はすごいことをやるもんだね、これが本当の神業というものなのだ」と教えるのが一番よいと思う。そんな非科学的なことは子供に教えられないと、ダーウィニストは言うだろう。そして世間も大方はそれに従う。けれども彼らの科学の前提とは何なのか。それは、「生命も含めたこの宇宙のすべては物理力・自然力によって説明できる。たとえ困難があってもそれで押し通せ。宇宙は自己充足的なものでなければならないのだから」という至上命令である。
 なぜそんなふうに断定し、自分で自分を縛るようなことをしなければならないのか、というのがデザイン論者のぶっつける疑問である。だからインテリジェント・デザイン運動は神から始まるのではない。自然界をもっと自由な立場で合理的に説明しようとすると、結果として神に行き着くということにすぎない。

科学と神学をつなぐ

 ウイリアム・デムスキーの『インテリジェント・デザイン――科学と神学をつなぐもの』(Intelligent Design: The Bridge Between Science & Theology)の冒頭にはこうある。

 インテリジェント・デザインとは次の三つのものである。すなわち、知的要因(intelligent causes)の結果を研究する科学的な研究プログラム、ダーウィニズムとそ  の自然主義的遺産に挑戦する知的運動、および神の行為を理解する一つの方法。インテリジェント・デザインは従って、科学と神学を横断するものである。

 数年前になるが、テレビで見た忘れられないシーンが二つある。一つは司会者が何人かの若者に向かって「あなたはどうしてこの世に生まれてきたと思うか」と訊ねたとき、彼らが異口同音に「偶然でしょう」と答えた場面。もう一つは、奇病から癒えたあるタレントへのインタヴューで、彼がいかに難病からの快癒が奇跡的であったかということを「神の力が働いたようだった」と言った後で、恥かしそうに「そういうことを言っちゃいけないのでしょうが」と小さな声でつけ加えた場面――。ダーウィニズムの負の遺産がいかに浸透して強力であるか、わかろうというものである。

『世界思想』No.330 (2003年4月号)

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