NO.1(2003年1月)

目的論的世界観と「人間原理」

渡辺 久義   

相対化される科学

 目的論的世界観というものを、世間はどの程度受け入れる用意があるだろうか。世間一般の意識構造というものは徐々に変わっていくものであることは確かだから、例えば二十年前と今とでは、たとえわずかであろうと違ってきているのではないかと思う。こういうことはおそらく調査しようがないので、人々の言動の端々から感じ取るよりほかないものである。もし調査するとすれば、意識調査というよりむしろ無意識調査ということになるだろう。私自身を尺度とするなら、三十年ぐらい前までの私は目的論的世界観などというものは迷妄だと思っていた。ところが、二十年ほど前、私が目的論もありうると考えるようになったころ、学生にそんな話をしてみたところ、「何を馬鹿な」というようににやりと笑った二三の学生の表情を今でもはっきりと覚えている。
 今、これまで支配的であった科学信仰ともいうべきものが、薄れつつあるのは確かだと思われる。つまり科学と言えば泣く子も黙る、というようなことは少なくともなくなった。これは科学が軽視されるようになったのでなく、逆に科学というものをある程度相対化できるほどに世間全体が成長したのだと考えたいが、どうであろうか。こういう変化は、ずっとその時代を生きている者にはわかりにくいが、私などより一世代くらい先輩の人たちが若い頃に書いたものなどを読んでいると、それを感ずることがある。いわゆる今昔の感というものである。
 ここに桑原武夫氏(一九〇四―一九八八)が終戦直後の一九四六年に発表した有名な論文「第二芸術――現代俳句について」を収録した本があって、先日これを読み直してみて以来、ずっと私の気になっていたことがある。それは現代俳句についての議論でなく(これについては私はほぼ賛成できる)、この論文の科学に言及した箇所のためである。桑原教授がついでのように括弧をつけて言っている次の文章に、私はまず注意を引かれる――「彼(芭蕉)は今日吾々が見るように自然を見たのではない。また自然科学を知った吾々には彼のように自然を見ることは決してできない。」そして、この論文のしめくくりで更にこう言っている――「俳句の自然観察を何か自然科学への手引きのごとく考えている人もあるが、それは近代科学の性格を全く知らないからである。自然または人間社会にひそむ法則性のごときものを忘れ、これをただスナップ・ショット的にとらえんとする俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはないのである。」
 今の人間なら、よほど低級な論文であったとしても、俳句と自然科学を比較してこんなふうには決して言わないであろう。しかしこの論文が書かれた当時は、科学信仰が文学をとっちめるのに使われるほどに普通のことで、特にこれに引っかかるというようなことはなかったのだと、今の我々は判断することができる。「人間社会にひそむ法則性」と言っているのは「科学的社会主義」が頭にあったものと推測される。桑原氏がこの時代を代表する知識人の一人であったことを考えれば、これはほとんど意識されることのない社会全体の意識構造が、時代とともに、気付かれないままに少しずつ変わっていくことを示す一つの例証であろう。

考え方の地滑り

 では目的論的世界観についてはどうだろうか。これはもちろん機械論的世界観といわれるものに対立する。そして機械論的世界観は科学信仰に直結する。科学信仰がこのところ揺らいできたように、今、機械論的世界観もかつてほどは盲信されず、逆に、目的論的世界観はかつてほど荒唐無稽なものとは思われなくなったのではないかと思う。ものの考え方の地すべりともいうべきものがあって、私は他でもない、この地すべりを歓迎し加速させたいと思っているがために、これを書いているのである。
 考え方の地すべりは西欧では、三百年ほど前、明らかに近代科学の興隆とともに起こった。ただしそれは、今その兆しが見えていると考えられる地すべりとは逆の、つまり目的論的世界観から機械論的世界観への地すべりであった。これは「コペルニクス的転回」といわれる天動説から地動説への視点の転換によって、象徴的にうまく言いあらわすことのできる世界観の転換であった。もちろんこれはコロリと変わったのではなく、時間をかけてゆっくりと変わったのであり、だからこそひとたび変われば、それは強力に根付いたのであって、これを動かすことはきわめて難しいのだという現実を、今我々は目の当りにしているのである。
この「コペルニクス的転回」には盾の両面があった。実証的・科学的精神の勝利という側面と、地球つまり人間の宇宙での特権の剥奪、そしてついには人間のモノ化という二つの側面があった。人間や地球が宇宙で特別な意味をもった存在などではないという思想は、いさぎよさと絶望感をあわせもつ恐ろしい思想で、これがニーチェなどに行きつく近代思想一般の核になっていると考えて差し支えないだろう。しかし我々は今、そういう考え方を相対化して見ることのできる時代に生きているのではないだろうか。花は人間のために創られ、人間のために咲くと言ったら、それはセンチメンタルでかつ間違った考え方であろうか。私は読者諸氏に聞いてみたいのである。

コペルニクス的逆回転

  英語の辞書にものっているpathetic fallacy(感傷的虚偽)という、十九世紀英国の批評家ラスキン(一八一九―一九〇〇)から出て定着した言い方があって、これは「怒り狂う嵐」とか「泣き叫ぶ風」とか「微笑む花(あるいは太陽)」といったように、自然現象にすぎないものに人間の感情をもたせる詩的表現が、愚かな誤りであることを指して言う。これは「俳諧精神と今日の科学精神ほど背反するものはない」と言った桑原氏によく似て、科学の名において文学的表現を嘲笑する、今から考えればこちらのほうがよほど滑稽な、科学崇拝にもとづく考え方であった。自然現象は単なる物理現象なのだから、そこに人間のような意志や感情を読み込むことは間違いである、と果たして言えるであろうか。そんな自信は少なくとも私にはない。例えば、太陽の熱や光は一つの単なる物理現象で、たまたま太陽がそこにあるにすぎないのだから、太陽に恵みに感謝するというようなことは間違った態度である、と自信をもって言う人があるだろうか。
  やはり太陽は我々のためにそこに置かれ、花々は我々人間のために咲くのではないだろうか。「人間原理」(Anthropic Principle)という天文学者や物理学者から提起された注目すべき原理は、人間がこの宇宙で特別 に配慮された、特別の意味をもつ存在だと考えることを滑稽な幻想だとするこれまでの考えを、完全に打ち砕くものであるように思われる。科学の名において宇宙の物理的中心からはずされた人間が、科学の名において今度は宇宙の意味的中心に据えられることになったのである。これを「コペルニクス的逆転回」と言わずして何と言おうか。物理学者のジョン・ホイーラーは、『人間宇宙論原理』(J. D. Barrow & F. J. Tipler: The Anthropic Cosmological Principle, 1986)に寄せた序文の中でこう言っている。

 「永遠に生命の住まぬ宇宙を考えることはできるだろうか?」「もちろんできないさ」と古代の哲学者はこの質問を軽蔑顔に一蹴して答えたことだろう。そして出て行きがけに振り向いてこうつけ加えただろう、「そのことについて語る誰かがそこにいなければ、宇宙について語ることは意味をもたない。」
・・・・・ 
 昔の哲学者が正しかったのだ。〔近代科学が排除した〕意味が重要であり中心的でさえあるのだ。人間が宇宙に適応しているだけではない。宇宙が人間に適応しているのである。この宇宙の基本的な物理常数のどれか一つでも、ほんの数パーセントでも多かったり少なかったりしたと仮定してみよう。人間は決してそのような宇宙に出現してくることはできないだろう。これが人間原理というものの中心点である。この原理によれば、一つの生命賦与的な要因が、世界の全機構および設計の中心にあるのである。

世界観の大革命

 基本的な物理常数のほとんどがビッグバンの初めから、将来、人間と人間に適した生活環境を作り出すために、恐るべき精度でもって「微調整」(fine-tuning)されていたのだといういわゆる「人間原理」は、いまだにその受けるべき正当な注目を受けていないように思われる。先に述べたような三百年来の理由があって、そんなことがあっては困る人々がいまだに多いからである。しかしこれは当然、科学者だけの問題ではなく哲学者の問題であり、世界観の革命を意味する大発見というべきものである。すなわちそれは近代科学が一蹴した目的論的世界観が正しかったということを意味する。宇宙は最初から、人間を頭において計画的に作られたということである。「一つの生命賦与的な要因」つまりすべての生命の大元にある大生命とでもいうべきものを、どうしても措定しなければならないのである。むろん目的論の復活といっても、近代科学を経過した我々にとっては、単純にアリストテレスへ返るということではありえない。
 物理学者ヒュ―・ロスの「人間原理」についてのすぐれた啓蒙書である『創造者と宇宙――いかに今世紀最大の科学的発見が神をあきらかにしたか』(Hugh Ross: The Creator and the Cosmos: How the Greatest Scientific Discoveries of the Century Reveal God, 2001)の次のような言葉は、傾聴に値するであろう。

 宇宙の特性を研究する研究者たちと私の交わした会話において、またこの問題についての論文や著書を読んだすべての私の経験上、ただ一人として、宇宙が何らかのやり方で、生命のための適した環境となるように考案されたという結論を否定する人はいない。天文学者というのは本性上、独立心旺盛で偶像破壊的な強い傾向をもっていて、少しでも異議を唱える機会があれば、これを捉えようとする人たちである。しかし、この宇宙の微調整とか注意深い考案といった問題については、あまりにも有無を言わさぬ証拠があるために、これにあえて反論する人のことを、私はいまだかつて聞いたことがない。
・・・・・
 しかしながら昨今起こっていることは、生命を支えるための宇宙の設計ということについて天文学者が論ずるようになったというだけではない。次のような言葉が使われているのである――いわく「誰かが自然を微調整した(fine-tuned)」「超知能」「いじった(monkeyed)」「人を圧倒する設計」「奇跡的」「神の手」「究極の目的」「神の心」「絶妙の秩序」「きわめて微妙なバランス」「著しく巧妙な」「超自然的作用(Agency)」「超自然的計画」「誂えて作った(tailor-made)」「至高の存在」「摂理的に考案された」――すべてこれらは明らかに一人の人間について使われる言葉である。この設計についての発見は、単に創造者が一人の人格であることを明確にしただけでなく、それがどんな人格であるかを示すいくらかの証拠をも提供してくれるのである。

 

哲学者の問い

 宇宙創成にあたっての――つまり生命体が誕生してからでなく、そもそもの初めからの――基本的な数々の物理常数が、いかに生命の、究極的には人間の存在を可能にするために信じられないほどの精度で「微調整」されているか、そのうちのどの一つが欠けていてもこの宇宙はできていなかったということ――このことを示す一覧表があるが、科学者でもない私がここに麗々しくそれを掲げることは差し控える。詳しくは前記二冊の書物を参照されるか、インターネットでAnthropic Principle を検索すれば簡単に見ることができる。面白いのはこういうことをどこまでも、(進化論の場合と同じように)偶然だと言いたがる人がいるらしいことである。宝くじが一度や二度当たった場合には、我々はこれを偶然と言うかもしれない。しかし宝くじが十回も二十回も続けて当たったとしたら、これを偶然だとは言わないのが普通である。いかに科学者としてのコケンにかかわることであろうと、ある神秘的な力がここに働いていると認めなければならないだろう。
 私は科学者たちの間に、そういうことを素直に認めるような雰囲気が醸成されることを切望するものである。今のところそれは一部の科学者に限られているようにみえる。科学者たちがこれを認めれば、一般人は簡単にその驥尾に付すであろう。それほど科学者というものは権威をもった存在である。それが度を過ぎているために、例えば「生命とは何か」というような問題は科学者にまかせておけばよいので、素人の出る幕ではない、などと考えがちである。そうではない。「生命とは何か」というような問いは、科学者の問いであるより先に、哲学者の問いでなければならないのである。

『世界思想』No. 237 (2003年 1月号) 

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