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ヒトラー/ダーウィンを超えて――進化論的道徳アナーキズム

David Klinghoffer
January 6, 2012

我々は絶えずダーウィン護教論者から、ナチスのイデオロギーがダーウィンの理論や書きものから来ていることを指摘したといって、お叱りを受けている。この系譜は疑いの余地がない。しかしこれに関連するもっと大きな事実がある。ヒトラーはとうの昔に死んでおり、ナチ式のファッシズムも基本的には死んでいる。残って大いに活動しているのは、進化論的道徳アナーキズムで、これは道徳的批判の客観的実在性を否定し、道徳の発達を単に進化の過程だとするものである。

その恐るべき例として、先日ある人がHuffington Postに投稿し(リンク)、結婚についてまさにそういうことを言っている。彼によると、結婚は進化する制度で、全く永続的な特質をもたず、道徳的規範を設ける権威を何一つもたないものだという。彼はもちろん重要な点を見落としている。すなわち、結婚に関するしきたりや期待のあるものは、時間と共に変化したにもかかわらず、一つの大きなことが、千年紀を越え世界の文化を越えて、定数として残っている。それが何かは自分で判断されたい。

それはさておき、ウェブサイトCredoにおいて、我らの同僚Richard Weikartが、もし倫理が進化論的思考に委ねられたとしたら、どういうことが起こるかについて、一連の明晰な論文を書いている。第一回掲載分は「進化論はキリスト教倫理にどう逆らうか」(リンク)だが、私は、これはキリスト教でもユダヤ教でも他のどんな伝統的道徳体系でも同じだから、特にキリスト教という必要はなく、わずかにタイトルだけに異論がある。概要は次の通 りである――

進化論はいかなる客観的道徳をも覆すという考えが、学問の世界に浸透している。ダーウィンはこれを『人間の由来』(The Descent of Man)で教えた。そして多くの現代の進化論者たちがこれに合意している。昨夏、私はオックスフォード大学で行われた「道徳の進化と進化の道徳」という会議に出席した。この会議での基調講演者の一人は、今日の最も著名な科学哲学者の一人Michael Ruseであった。彼が1985年、「社会生物学」の唱道者E.O.Wilsonとの共著の論文で、「我々が理解しているような倫理は、我々の遺伝子によって、我々が協力するように我々に押し付けられている幻想である」と言ったのは有名である。ルースはこの考えをその後何度も確認している。

このオックスフォード会議で、私は進化論的倫理の歴史について論文を発表し、ダーウィンから今日までの多くの進化論者が、進化論的な倫理を採り、客観的な道徳を排斥していることを示した。実は、私が進化論的倫理の研究に興味をもつようになったのは、1990年代始め、ドイツの社会主義者によるダーウィニズム受容について学位 論文を書いているときであった。このテーマについて研究を進めるうちに私は、科学者も他の学者も含めた多くの進化論者が、キリスト教倫理をある種の進化論的倫理によって置き換えようとしていることに気づいた。ある者たちは、全道徳体系を進化論に基づいて構築しようと計っていた。これが間違いだとして退ける者たちもいた。しかしダーウィン自身を含めて大多数の者が、道徳の起源を進化論的過程によって説明しようとしていた。

また、1990年代初期、私がアイオワ大学の大学院生だったころ、二人の著名なキリスト教徒の知識人が大学へやってきて護教論について講演した。彼らは二人とも、客観的道徳は存在し、神の存在の強力な証拠となっていると論じた。講演後の質疑応答のとき、聴衆の中の世俗主義者たちが、客観的道徳が存在するという彼らの主張に反対した。世俗主義者たちの主たる論点は、道徳は自然選択によって発達したものであり、したがって有神論的起源をもつものではない、ということであった。

倫理が進化論的過程を通じて起こったという主張は、キリスト教道徳をはじめあらゆる客観的道徳を排斥するために今日の世俗主義者が用いる、最も広く見られる議論の一つである。Richard Rortyのような、いかなる客観的真理をも認めないポストモダニストの哲学者たちでさえ、皮肉なことに、客観的道徳を認めない彼らの主張が、進化論に根拠を置くものであることを認めている。明らかに、ポストモダニストの見解では、他のどんなものも事実という呼称に値しないが(特にキリスト教やキリスト教道徳)、進化論だけは事実のようである

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