Evolution News & Views

ダーウィンにとって迷惑なダーウィン弁護者

Michael Flannery
March 14, 2011

David Klinghofferが最近ワシントン・ポストに好論文を寄せた。「進化論のもう一人の発見者はダーウィン分裂をいかに癒すことができたか」(How Evolutionary Theory’s Other Discoverer Could Heal the Darwin Divide)という論文だが、これは予想された通 り、ダーウィン弁護者たちの例の、非礼、論理的過ち、歴史的事実の間違いを如実にさらけ出す反論を引き出すものであった。とは言え、これらのコメントが型通 りの予想されたものであったという事実は、彼らの空虚さが露呈される典型的な例を確認するためだけでも、応答する価値はあるだろう。

これら「コメンテーター」の恥となるような粗野で幼稚な罵詈雑言に答えても意味がない。しかし中には、いくつかの中身ある観点も試みられていて、これは応答に堪える。そこでこの種の見解のうちの、次のような議論の怪しげな性格を暴いてみることにする――

クリングホッファーの論文は重要ないくつかの事実を無視している。第一に、ウォーレスは彼の最初の著作では、人間も他の動物と同じように自然選択に従うと躊躇なく主張している。ダーウィンは彼の最初の本[種の起源]ではこの問題に直接触れることはなかったが、その理由は、1)それはこの理論の他の前提から自然に導かれるものであった、2)彼は世人に時間を与えて、人間の進化を扱う前にこの考え方に慣れさせようとしたのであり、後の著作[人間の由来]でそれを行ったのだ。これに対してウォーレスは次第に霊的特質(spirituality)に興味をもつようになり――たとえば霊媒に尋ねるとか――また、社会・政治哲学と生物進化の混同を助長した張本人であるハーバート・スペンサーの著書に魅せられるようになっていった。優生学の隆盛に寄与したのはこの風潮であって、ダーウィンの思想ではない。ダーウィンは、彼の理論が人間社会にどの程度まで適用できるか常に懐疑的であった。ダーウィンの著作が優生学思想の原因だというのは絶対に間違いであり、それは遺伝学と遺伝子学の完全な誤解に基づくものである。ウォーレスよりダーウィンにより大きな責任があるというのはもっと大きな間違いだ。現代科学は、生物学的な人間と人間の脳は、動物と同じ原理に従って進化してきたし現在も進化していることを、絶えず確認しつつある。だからクリングホッファーの論文はある種の魅力はもつものの、その歴史解釈には欠陥があり、その裏にある画策は成功していない。その結論を受け入れるためには、このダーウィンの理論の基本的前提を無残に覆すような、信念の飛躍が要求される。ウォーレスは魅力ある人間だった。しかし彼も同じ過ちを犯したのだ。

この取りとめもない文節は6つの主張をしている――1)ウォーレスはもともと人間も自然選択に従うものだと主張していた、2)ウォーレスがこの見方から離れるようになったのは、「霊的特質への興味」が増していったことによる、3)ダーウィンでなくハーバート・スペンサーに、社会ダーウィニズムや優生学といった忌まわしい思想の責任がある、4)ウォーレスは「スペンサーの著作に魅せられていた」、従って優生学に対し、ダーウィンよりもっと責任がある、5)科学は、「人間と人間の脳」も動物と同じように進化による変化をしてきたことを「確認」している、6)自然界のある特質がインテリジェント・デザインの証拠を示しているという主張は、「信念の飛躍」を要求する。

さて、この主張の一番目は取るに足らないことであり、残りは単純に虚偽である。以下にその理由を述べる――

主張1: だからどうなのだ? 多くの科学者は、彼らが後に間違いだったと気づく信念から出発する。実はこれが科学的発見そのものの特徴である。ダーウィン自身も最初は、種の固定性と個別 的創造をすら信じていたと言っている。重要なのは研究者の出発点でなく到達点である。

主張2: これは間違っている。確かにウォーレスは、心霊現象は真面 目な科学の対象とべきだする心霊学者に転向したが――これは心理学者ウィリアム・ジェームズ、物理学者William Crookes, 数学者Oliver Joseph Lodge, ノーベル賞を得たLord RayleighやCharles Richet らに共通する――ウォーレスが自然選択の働きを制限したのは、ダーウィン自身の有用性の原理(自然選択の中心原理)は、人間精神のより高い能力、動物の感覚能力、生命の起源といったものを説明できないと考えたからである。ウォーレスの心霊学への興味は無関係である。

主張3: これも間違い。スペンサーが社会ダーウィニズムの大唱道者であったという事実によって、ダーウィンがその起源と結果 に対する責任を免れはしない。社会ダーウィニズムの最も深刻な形である優生学は、ダーウィンのいとこのフランシス・ゴールトンが『種の起源』を読んで得たものに基づいている。ゴールトンがその著Hereditary Genius(遺伝の守護神、1869)においてこの大胆な考えを展開するに至った背景には、次のような事情がある――「私が当時書いたものだけでもダーウィン氏の承認を得るのに十分だったのだから、この本で私が提出した更に増大した証拠が否定されるとは思えない。(p.2)」ダーウィン自身は見えてくる展望に尻込みしたかもしれない。しかし彼の『人間の由来』(1971)は、ゴールトンのダーウィン解釈が本質的に正しかったことを示すものと言える。他の点ではダーウィンに同情的な伝記作者Adrian DesmondやJames Mooreでさえ、次のように認めている――「〈社会ダーウィニズム〉はしばしば、何か外在的なもの、純粋なダーウィン資料集成にあとから付け加えられ、ダーウィンのイメージを傷つけようとする醜い出っ張りであるかのように言われる。しかし彼のノートブックを調べれば、競争、自由取引、帝国主義、人種の根絶、男女不平等といったものが、最初から方程式に書き込まれていたこと、すなわち〈ダーウィニズム〉とは常に、人間社会を説明すべく意図されたものであったことが明らかになる。(Darwinism, p.xxi)」彼らのより最近の伝記Darwin’s Sacred Cause(ダーウィンの神聖な大義)でなされているダーウィンの自己責任を問う試みは、上の観点を更に確証するものとなっている。

主張4: これは明々白々の虚偽! ウォーレスがスペンサーの初期の著作(特に1851年のSocial Staticsにおける人間の自由擁護)に「魅せられて」いたことは事実である。しかしこの二人は次第に遠ざかっていく。ウォーレスは人間の道徳についてのスペンサーの還元主義的説明を決然と拒否した。スペンサーの酷薄な個人主義と「適者生存」的社会秩序の観念は、ウォーレスには不快だった。また、ある程度ウォーレスを土地の国有化思想に導いた経済学者ヘンリー・ジョージの考えを、スペンサーが拒否したことも、ウォーレスには不快であった。Ross A. Slottenによれば、「〈社会ダーウィニズム〉という言葉をウォーレスは決して使ったことはなく、彼はそれに反感を示した。スペンサーの思想もまた重みをもたなかった。なぜならアウグスト・ワイスマンが証明したように、誕生後の獲得形質は遺伝するものではなかったからである。(The Heretic in Darwin’s Court, p.437)」スペンサーが、1894年、英国科学振興会で行われたソールズベリー卿の、進化論を目的論的に解釈する演説に反対するようウォーレスに持ちかけたとき、ウォーレスはこれに沈黙することによってスペンサーを怒らせた。

そればかりかウォーレスは、大声でしばしば優生学に対する徹底した嫌悪を表明した。彼は優生学のことを「傲慢な科学者の聖職者的策謀の余計な干渉にすぎない」と評している。ウォーレスはゴールトンの「適切な」結婚を奨励する積極的優生学にも懐疑的であった。「これはあまり害にはならないかもしれないが、決して善なる方策だとは言えない」と彼は言った。もっと深刻なのは「知恵遅れの人々の隔離」や「不適応者の断種(不妊)措置」の要求であった。これは心身不全者の嬰児殺しに発展するだろうとウォーレスは怖れた。彼はこのような措置を「あらゆる点で危険で嫌悪すべきもの」と呼び、結婚に対するどんな干渉にも反対の抗議をし、これを「全く不必要であるだけでなく、それがなくそうとしている一時的な悪よりも、道徳と人類の福祉に対してもっと大きな危険の種となるものだ」と論じた。「私はすべての読者の方々が立ち上がり、これよりもっと簡単な問題さえ扱う能力がなく、実行すれば確実に悲惨な事態を引き起こす、偶然に選ばれた一群の人々による、この問題のどんな法制化にも反対されることを信じている(Social Environment and Moral Progress, pp.142-144)」このウォーレスの抗議以上に、力強く、先見の明ある抗議を考えることができるだろうか!

主張5: この主張も全く根拠がない。人間の心と動物の心が同じ進化の過程によって生じたものだとする確実な根拠は何もない。人間と霊長類の振舞いや認識機能を結び付けようとする努力は、BolhuisとWynneが最近、論文“Can Evolution Explain How Minds Work?” (進化は心の働きを説明できるか? Nature, 19 April 2009)で論じたように、すべて失敗する。過去20年にわたる研究のすべては、「人間から見た過大解釈の混乱(a flurry of anthropomorphic overinterpretation)」を生み出しただけである。一連の新しい神経学的技術と人間ゲノム計画によって武装していた1990年代は、人間の心という秘密がついに解明されるだろうという希望に燃えていた。しかしJames Le FanuがWhy Us? で指摘したように、「脳の10年間」は失望させる結果 を生み出した。ネイチャー誌編集者のJohn Maddoxは、「我々は脳の理解において一世紀前と変わらないようだ」と嘆いた。ダーウィンに同情的なChris Smithのような人々でさえ、「クォリアつまり現象または感覚としての意識の理解には、一世紀前のダーウィンより近づいていない」と認めている。「絶えず確認しつつある」と言っている人間と動物の脳の機能の共通 性は、いまだに科学者共同体全体に認知されてはいない! 主張5はせいぜいとところ希望的見解であって、確立された事実ではない。

主張6: ここで「信念」という語は間違って使われている。本当の「信念の飛躍」とは、偶然のランダムな過程や盲目の法則性が、生物の生命に必要な統合された情報システムの複雑性(人間の脳の複雑性はとんでもない話として)を生み出すことができると信ずることである。他のどんな場合においても、特定された複雑性が何らかの知的作用者を必要としたと考えるのは、当然の想定であり言う必要もないことである。スティーヴン・マイヤーはこう言っている――「経験の教えるのは、大量 の特定された複雑性あるいは情報が、ある工作物、あるいはその原因の物語が知られているある物に内在するときはいつでも、間違いなくインテリジェンス――インテリジェント・デザイン――がその物の起源において役割を果 たしているということである。(Signature in the Cell, pp.376-377)」このインテリジェンスが何であるかは、含まれる意味は大きいとしても、全く別 の問題である。しかし何らかのインテリジェンスが要請されるのは、単純に、目前の現象の要求する論理的推論である。

そこで結論は明らかなようだ――もしクリングホッファーのワシントン・ポストに寄せた論文をめぐって「欠陥」があるとしたら、それは自分の欲求する考え方に特権を与えるために、常識的判断では知的で考え深い論者たちの悪口を言う人々の、軽薄で軽率な、根拠の乏しい主張にこそある。彼らのきまった商売道具は人身攻撃であり、また半真理と妄想のどこか中間に浮いている作り上げられた現実である。ウォーレスとの一貫した、しかし親友としての不一致を10年以上も維持し続けたダーウィンは、この種の「支持」を恥と思うであろう。この人たちがダーウィンにとって迷惑な支持者であることは間違いない。

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