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知ったかぶりに訪れる終末
―ゲスト・ブロッガ−James Le Fanu (Why Us?: How Science Rediscovered the Mystery of Ourselvesの著者)による

James Le Fanu
June 7, 2010

哲学者Thomas Nagelは、「生命に関するあらゆることを進化生物学を過大に用いて説明する愚かしさ」という記憶すべき言い方で慨嘆している。この考え方では、生命世界には特に驚くべきことも異常なことも不思議なこともなく、すべてはランダムな遺伝子変異に働きかける自然選択という、同じ既知の唯物論的過程によって、何十億年にもわたって今あるように進化してきただけだと説明する。

こうした知ったかぶりは当然ながら長く続きはしない。20年かそこら後には歴史家や批評家は、よくも科学は、生命の限りなく複雑な世界の説明として、これほどの単純な理論を――しかもこれほど長年にわたって――支持してきたものだと不思議がることだろう。

こうした幻想の崩壊をもたらすものは、科学そのものの内部からしかやってこない。現在のゲノム科学における当惑させる意地悪なもろもろの発見は、後から振り返ったとき、決定的な役割を果 たしたと見られるであろう。以下これを明らかにしよう。

ほぼ60年の間、科学は、「二重螺旋」の優美な単純さに惑わされて、「生命の秘密」をたやすく手にすることができるだろう――その捻じれた紐に沿ってつながった遺伝子の指令を解読でき、生物を作るプログラムが理解できれば――と信じてきた。

1970年代中ごろ以来、現代遺伝学の技術の大攻勢が、それをやってのけることを約束してきた。そしてそれは2001年、サイエンス誌の言う、人間の遺伝子の完全な配列決定の「驚嘆すべき達成」によって頂点に達した。いわゆる「人間ゲノム計画」で、それは「我々の遺伝子による遺伝と、生命の冒険の他の参加者と並んで我々のおかれた場所の秘密を解き明かす」可能性をもったものであった。それ以来、遺伝子配列読み取りの技術は格段に迅速かつ廉価となり、ゲノム科学時代を招来し、主要な研究センターが毎週メガバイトという基本的生物学データを供給することによって、広範囲にわたる多様な生物の何百というゲノムの配列を決定した。何十種ものバクテリア、14種の菌類、9種の異なった植物種(大豆、大麦、キャサバ、米、小麦等)、昆虫(蚊、蜜蜂、蝿)、魚(ふぐ、ゼブラフィッシュ)、数種のミミズ、ウニ、鶏、我々の仲間である多くの哺乳動物(マウス、ラット、猫、犬、豚、羊、牛、そして我々に最も近いチンパンジー)その他各種動物。

したがって我々は、当然の権利として、10年前にサイエンス誌が予想したように、「遺伝子による遺伝の秘密」、特に、二重螺旋に沿ってつながった化学物質の遺伝子に暗号化された指令が、どのようにしてバクテリアと菌類、植物と魚、マウスとチンパンジーや人間をたやすく区別 する、莫大な種類の形態や属性を生み出すのかについて、格段に知識が増えていいはずである。のみならず、ゲノム同士を比較することができるのだから、現行理論の要求する進化による変形のための原材料となる、無数の小さなランダムな遺伝子変異もまた明らかになってよいはずである。

しかし、そういうことにはならなかった。実際、我々は10年間の遺伝子科学の後で、意地悪くも、この問題について可能と考えられていたよりはるかにわずかのことしか知らないのである。しかも指数関数的にである。というのは、新しく決定されたゲノムが現れるたびに、「ゲノム研究所」のSteven Salzbergが言っているように、生物種同士をこれほどたやすく区別 する「身体と振舞のこれら莫大な違い」の源という「途方に暮れる問題」はさらに複雑になるばかりなのである。

これら「途方に暮れる問題」の最たるものとして彼が引証するのは、「人間ゲノム計画」の最も驚くべき発見に典型的に現れた「遺伝子数のジレンマ」、すなわち我々人間が、長さ1ミリほどの虫C.elegans(土壌に生息する線虫)とほぼ同数の、2万個ほどの遺伝子しかもっていないという事実である。この虫は(我々の60兆個に対して)ほんの1000個の細胞でできており、循環系統も内部骨格ももたず2週間の寿命しかない。この時以来、新しく配列の決定されたゲノムの一つひとつが、遺伝子数と生物学的複雑さの間に何の関係もないという驚くべき事実を、さらに強調することになった。この点で、蝿や鶏はこの小さな線虫の3分の1の遺伝子しかもたず、他方、米や大豆のような植物はその2倍の遺伝子をもつのである。

さらにそれ以上に「途方に暮れる問題」は、さまざまな種の間で、マスター(あるいはhomeotic=類似)遺伝子の相互交換の可能性が明らかになったことである。たとえば蝿の顕著な特徴である複眼を統御する同じ遺伝子が、非常に異なった哺乳動物のカメラ眼に対しても同じ働きをする。この種の間での互換可能性は、我々人間がマウスと99%まで同じ遺伝子を共有すると知ったとき極点に達する。どうしてこれほど些細な遺伝子の違いがこれほどの形態の違いを生み出すのか。これは遺伝子制御と「なんらかの関わり」があって「発生の過程での異なった時間と場所で遺伝子がオンになったりオフになったりする」に違いない、といった仮定をするぐらいしか説明のしようがないのである。

ここに含まれる意味は明らかである。生物学者は理論上、この地球上のすべての生物の遺伝子配列を決めることができる。しかしこれはただ、すべての生き物がそれで作られている細胞のタンパク質や酵素のナットやボルトを説明する、遺伝子の同じ中核的セットを、すべての生物が共有していることを確認することになるだけだろう。しかしそれを超えたところに本当に興味ある問題――「形態」の問題――象と蛸、蛍と狐をいともたやすく区別 しているものは何かという問題は、理解できないまま残るであろう。

もちろんそこには遺伝的指令があるに違いない。でなかったら、何千万という我々の仲間の種が、これほどの正確さをもって世代から世代へと自己複製できるわけがない。しかし最近のこうした驚くべき諸発見を考えてみると、なぜ我々がミミズや蝿とこれほど違ったものになるのか、全くわからないと認めざるをえない。

こういった変則的で困惑させる問題に対する標準的な科学の反応は、確かに「それ」は最初に考えていたよりもはるかに複雑であることは認めるが、それでもやはり、もっと多くの生物学的データが蓄積され、もっと多くのゲノムの配列が決まれば、最後には、それはブルドーザーのように現在の困惑を踏みつぶしていくだろう、というものである。そうかもしれない。しかしもっと確かなのはその逆で、科学がさらに進歩し、ゲノムがさらに多く読み解かれていくにつれて、遺伝子指令の類似性と生命世界の多様性の間の解決できぬ 不一致は、ますます顕著になっていくだろう。

なぜそう予想されるかを尋ねても無意味かもしれない。しかしその説明は、生命現象とは理解できるものだという約束をこれまで長らく掲げてきた、二重螺旋の単純な優美さにあるに違いない。その構造の単純な優美さは、考えてみれば、それが単純だからではありえない。単純でなければならないのである――もし細胞が分裂するたびにその遺伝的指令を複製しなければならないとしたら。

そしてその単純でなければならないという要請によって、二重螺旋は、絡み合った紐に沿って並ぶ1次元の化学物質の遺伝子の内部に、たとえば蝿を、人間や他の現存しまた死滅した数千万という種からこれほどたやすく区別 し、独特の3次元の形態や属性を決定するこれらの生物学的複雑性を、凝縮させたのである。そう考えると二重螺旋の見かけの単純さは、その計り知れない深遠さのしるしとなる。あるいはバーミンガム大学の遺伝学教授Phillip Gellが20年も前に予言したように、「我々の知識の溝は単に埋まらないというだけでなく、原理的に埋められないものである。我々の無知は避けられないものとして残るであろう。」

こういったすべての事情から得られるのは、科学は、その領域の外に存在するに違いない説明を求めて、間違った所に探求を進めてきたという強い印象である。それは二重螺旋に沿って並んだ化学的遺伝子のあの単調な配列から、生命世界の豊かさを呼び出すと考えられる、何らかの強い潜在力でなければならない。

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