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マイケル・ルース:人好きのする無神論ダーウィニスト

David Klinghoffer
March 22, 2010

爬虫類のようなドーキンズ、不気味なデネット、独善的な(ジェリー)コインなどと違って、Michael Ruseは人柄の魅力を感じないわけにいかない著名な無神論ダーウィニストである。私は彼に会ったことはないが、ガーディアン紙の彼のコラム記事は、本質的に人がよいか素朴な、またはその両方の性質をもつ人でなければ書けないような文章である。

ルースは、ダーウィニズム信仰がどんな影響を道徳に対してもつと考えられるかを論じ、「一方では確かにこうだが、他方ではこうだ」といった考え方を示している。神は死んだのだから(ダーウィンが殺したからだが)、客観的な道徳的観念というものは存在しない。モーセはシナイ山で何も受け取らなかったのだ。しかし心配することはない! このように考えるからといって、それが悪い振舞いにつながることはない。なぜなら自然選択によって書き込まれた我々の遺伝子は、それがどれほど錯覚であろうと、道徳の公準は本当に客観的なものなのだという感覚を我々の内部につくり出すからである。それが主観的なものにすぎないと分かっていようと、善人であろうとする衝動を追い出しはしない。我々は倫理的命令に従わざるを得ないと感ずる。神の退位 はだから「深い意味のある発見」ではないのだ:――

道徳とは、あなたを社会的に協力的な人間にするため、あなたの遺伝子によって与えられた錯覚だと知っていながら、あなたをして(サビヌ人の女を強姦した)古代ローマ人のように振舞わせないようにするのは何か? それは客観的な意味のある何ものでもない。しかしそれでもあなたは、遺伝子に基づく心理的からくりの備わった人間で、そのものがちゃんと働いて、自分は道徳的でなければならないとあなたに思わせているのだ。真理は人を自由にすると昔から言われてきた。そんなことを信じてはいけない。デイヴィド・ヒュームはそのあたりをよく心得ていた。哲学的反省が、いかに、あなたの信念と振舞いには何の合理的な根拠もないことを示したとしても問題ではない。あなたの心理的からくりが、自分はまっとうで幸福な社会生活をしていると、あなたに確信させるのだから。

もちろんダーウィン弁明者は、何かこういった主旨のことを主張しなければならないのだろう。ダーウィニズム弁護計画はこのように言うことを命令するだろう。ほかにどんなことが言えるだろうか――「ダーウィニズムは真理であると同時に、社会的毒をまき散らすものだ。だからそれに慣れよ」という以外にどんなことが? そのような教えには納得させる一貫性がない。さまざまなダーウィニストが、なぜ進化論信仰は社会的良俗に対してどんな脅威にもならないかについて、さまざまな説を提供してきた。Robert Wrightはルース同様、気持のよい人柄として思い浮かぶ人だが、彼もこの問題について自分の見解を貢献する楽天的な何冊かの本を書いている。

ルースやライト(彼も個人的には知らない)が社会的良俗を主張するような感じを与えていることを、ここで話題にするのはなぜか? それは、彼らが主張するようなこと――伝統的に理解されているような、客観的な、宗教に基づく道徳が存在しないことについて、我々は夜も寝られないほどに心を悩ます必要はないということ――を主張することは、もしあなたが好い人であったなら、はるかに容易いことであるからだ。

実際、世の中には善良であることがあまり難しくない人たちがいる。それに対して、いろんな局面 で自分の邪悪な衝動に苦しめられる人たちもいる。ユダヤ教の「タルムード」にこれに関連する話が載っている。賢者アバイエ(Abaye)は、ある結婚していない男女が、密会のための場所を探しているらしく、一緒になって人のいない野原の奥へと入っていくのを見た。彼らが罪を犯すことを妨げるために、このラビは二人の跡をつけて何マイルも歩いた。しかしその結果 は、彼らが友好的に分かれを告げるのを見ただけだった。アバイエは顔を伏せて泣いた。なぜなら、もしそのような状況に置かれたら、自分は誘惑に抗することができなかっただろうと思ったからである。ある老人が現れてこう説明してくれたとき、彼はやっと慰められたのだった――「偉大な人物ほどその邪悪な傾向は大きいものだ」(Sukkah 52b)。

長い人生経験を背景にもつ老人なら、おそらくこの話のポイントはつかみ易いだろう。戦いにもさまざまな程度がある。心やさしく公平で正直であるために、ほとんど努力しなくてもよい人たちがいる。他方、たいへんな努力をしなければならず、しばしば内面 的な闘争と奮起を強いられる人たちもいる。

前者について言えば、知的存在が生命(人間)をデザインしたのかどうか、そして善悪の超越的な基準を説明する宗教的伝統を与えたのかどうかは、実のところ全くどうでもよい問題である。しかし後者については? もちろん大きな問題である。あなたはどう思っているのか?

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