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存在論は言語論の要約である
(Ontology Recapitulates Philology)

Michael Egnor
August 17, 2009

進化についての議論の多くは言葉の問題にかかっている。そして多くの間違った言葉の使い方が、ほとんど論争の一方の側からきている。ダーウィニストが「進化は事実だ」と主張するとき、それは実は「ダーウィニズムは事実だ」という意味だが、彼らはそれをはっきり主張しようとはしない。彼らは進化的変化についての彼らの狭い理論を、もっと広く理解された進化的変化と同義語のように見せかけようとする。彼らがそうするにはいくつかの理由があるが、何よりダーウィニズムの内包概念が彼らに不利で、ダーウィンの過激な主張を立証する証拠と論理性が乏しいことによる。

実のところは、ダーウィニズムと進化論は同じものではない。進化論とは、生物は時間の経過ととともに変化するという理論である。そのように理解すれば、進化論は明らかに真実である。どのようにして進化が起こるかについてはいくつかの説がある。

ダーウィニズムとは、進化は目的論的でない、つまり時間をかけての生物の変化には目標も目的もないという考え方である。もろもろの生物学的な構造や機能は、偶然的な変種の生存力の差異の生み出したものだと考える。偶然と必然だけがある。「偶然」とはダーウィニズムの辞書では「目的をもたない」という意味になる。

ダーウィニストの側にはいくつかの陣営がある。適応論者(adaptationist)というのは、ほとんど、あるいはすべての進化的変化は自然選択によると考える人々であり、浮遊派(drifters)というのは、多くの進化的変化は選択ということに関しては中立的だと考える人々である。これらはともに、選択が働くあるいは働かない変種の出現は、非目的論的だと考える点で一致している。適応派と浮遊派の争いは極めて熾烈である。そして私の見るところ間が抜けている。自然選択は適応、中立、デザインすべての立場の進化的変化について言える。生き残る者が常に生き残るのである。

「有神論的進化論」派というのもあり、これは神が進化的変化を導くのに(微妙な)役割を演じたと主張するものである。有神論的進化論は何デモアリの、通 常は曖昧な観点を取る。いくつかある有神論的進化論は総じて不正確な言い方で述べられるために、科学理論というより感情論となる。また神学理論としても全体的におそまつである。

目的論的理論には2つの考え方があると思われる。ID理論は、進化の少なくともある側面 の最も合理的な説明は、人間のデザインに比することのできるデザインの過程だと主張する。その理論家の中には、進化は目的論的だが、デザイン理論の「外在的」デザインという意味合いには反対だという人々がある。それは、カトリックの進化論を代表するトマス(アクイナス)主義であって、進化的変化をアリストテレスやアクイナスの理解したような第一原因の表れとする見方である。それに対してこれらの理論家は、目的論を生物学的変化に「内在的」なもの、実は自然界のすべての変化に内在的なものと見る。IDもトマス主義もともに、進化は目的論的なものだと考える。ただ目的論の形而上学的理解が違うだけである。

思想の戦いでは、存在論は言語論の要約である。真理は言葉の要約である。言語学的な問題、つまり論争に用いられる言葉と語に含ませる意味が、我々の捉えている真理を大きく決定する。進化をめぐる論争では、意味は微妙であり、それは(ダーウィニストによって)曲った捉え方をされてきた。ダーウィニストが曲った言葉の理解をする理由はイデオロギー的なものである。無神論に「知的な充足」を見出すためにはダーウィニズムはなくてはならないものであり、だからそれは真理であるなしにかかわらず防衛されるのである。

進化論争における真理は、大きくその論争の言葉に含ませられた意味にかかっている。しかし進化に関する真理は把握できないと結論するのは間違っている。進化生物学において事実はかなり明白である。進化とは生物の時間をかけての変化という意味である。時間の経過に伴って生物にはかなりの大きな変化が起こった。そして生物学的構造と機能には明らかな目的がある。生物学は目的に満ち満ちており、自然のすべてがそうである。生物学における何ものも目的論の観点から見なければ意味をなさない。

進化について2つの真理が存在すると私は考える――進化が起こること、そしてそれは目的論的であること。この2つの主張について証拠は圧倒的である。そしてそれらはともに事実である

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