Evolution News & Views

ネオダーウィニズム批判もIDに加担しない限りOK?

Casey Luskin
July 6, 2009

ネオダーウィニズム――ランダムな変異に働きかける自然選択が生命の複雑さと多様さを生み出す推進力だという理論――による進化の証拠は「圧倒的」だとよく聞かされる。しかしこの立場への反対をほのめかす論文は、科学の主流文献にいくらでも見つかる。Trends in Ecologyのある昨年の論文は、「ネオダーウィニズムが大進化を説明するのに十分か否かに関する健全な論争」が存在していることを認めている(*1)。同様に、ドイツのイェナにあるフリードリッヒ・シラー大学遺伝学科のGünter TheissenはTheory in Biosciencesに次のように書いた――

生物がいかに環境に適応するかについては、我々はすでに十分に理解しているが、適応とは全く違う過程であるはずの、新しいものを生み出す進化の背後にあるメカニズムについては、我々はほとんど知らない(Wagner, 2000)。ダーウィンの功績は否定できないが、計り知れない複雑さと多様さをもつ生物がいかにしてこの惑星に生まれかの説明は、生物学の最大の難題の一つである(*2)。

ネオダーウィニズムという「独断的科学」と彼の呼ぶものへの、さらに激しい批判は、同じくTheory in Biosciencesのタイセンによる2006年の論文に見出される――

地上の生物の驚くべき複雑さと多様さがどうして始まったかをきちんと説明することは、いまだに科学の途方もない難題として残っている。科学者共同体には、細かい点で問題はあるものの、教科書の教える進化の説明がすでに問題を本質的に解決しているという、広く浸透した態度がある。私の考えではこれは全く正しくない(*3)。

最も興味を引くのは、こうした異議をほのめかす人々の書くものには、しばしば、これはインテリジェント・デザイン(ID)を支持するものでないという但し書きがついていることで、そこに異論を唱える者への攻撃をかわそうとする意図が見えることである。タイセンの2009年の論文は、「反ダーウィニスト」は創造論者のようなダーウィンを敵と見るような人々と一緒にされるべきではない、と急いで予防線を張っている(*2)。そして彼の2006年論文はIDを支持するものではないと、わざわざ述べている(タイセンは不用意にも創造論とIDを混同しているが)――

主として科学者サークルの外で勢力を得つつある考え方で、生物はあまりにも複雑だからそれらは外なる知性によって創造されたに違いないというインテリジェント・デザイン(ID)と呼ばれる創造論の新しい見方がある。IDがそもそも科学的仮説なのかという哲学的分析は、この論文の範囲を超える。いずれにせよ、実りある研究プログラムを展開するIDの能力は、これまでのところ無視できるものにとどまっている(Raff, 2005)。わずかの例外を除いて(eg. Lönnig, 2004およびそこに引用されている文献を見よ)、生物学者たちは、IDが生命の複雑さと多様さを説明するのに役に立つものとは考えていない。しかしこれは、生物の複雑さと多様さがどのようにして生じたのかを説明する完全で満足のいく理論を、我々がすでに持っているという意味ではない。だからIDや他の種類の創造論を拒絶することは、現在存在するいかなる進化理論の包括的な説明力に基づくものでもなく、これは生物学の自然科学としての認識論的前提と発見能力を基準(heuristic basis)にして考えなければならないことである(*3)。

意味深いことに、タイセンの但し書きは、彼のID拒否は「現在存在するいかなる進化理論の包括的な説明力に基づくものでもなく、」「認識論的前提」、言いかえれば唯物論によるものであることを認めている。これはScott C. Toddが1999年「ネイチャー」誌で述べたことを思い出させる――「たとえすべてのデータがインテリジェント・デザイナーを指すとしても、そのような仮説は、それが自然主義的でないという理由で科学から排除される(*4)」

タイセンは、彼がIDを拒否し唯物論的説明への忠誠を明らかにするのは、自分の「反ダーウィン的」な考えが少しでも聞き入れられるために、必要なことと考えている様子がうかがえる。それでも彼の2006論文は、ネオダーウィニズムに異を唱える唯物論者でさえ反対に遭うことを認め、これを率直に歎いている。

大進化に対する満足させる説明がないという事実に注意を喚起するのは、危険なことである。人はたやすく正統的進化生物学の攻撃の的にされ、科学的でないコンセプトを唱える人々の嘘つきの味方にされてしまうからだ。正統的生物学によれば、我々はすでに、地上の生物の複雑さと多様さを説明するすべての関連する原理を知っている。科学的でないコンセプトを使う科学と研究は決して結論的な説明を提供できない。その理由は単純に、複雑な生命は自然的説明を持たないと言っているからだ(*3)。

タイセンの告白に大きな意味があるのは、唯物論者が支配的な進化論的考え方を疑問とするのは政治的に「危険」であるだけでなく(どんな科学者が「正統的進化生物学の攻撃の的にされる」ことを望むだろうか?)、「複雑な生命は自然的説明を持たない」と信ずる「非科学的コンセプトを唱える者の味方」を待ち構えている更に強烈なしっぺ返しがあることを認めているからである。唯物論者でさえこのような危険があるとすれば、唯物論者でない者が科学雑誌で自分の考え方を真剣に述べることが、どれほど敵視されるか想像できるだろう。

これは決して、ネオダーウィニズムに反対する人が、唯物論に忠誠を誓う限りにおいて大目に見てもらえることの唯一の証拠ではない。昨年「ネイチャー」は、現代総合進化論が十分か否かを議するために批判者が集まった「アルテンべルグ16会議」を扱う記事を載せた。この記事の中で、Scott Gilbertの「現代総合論は最適者の生き残りをモデル化するには適しているが、最適者がどうして現われたかを論ずることはできない」という言葉が引用されている(*5)。同じ記事の中でStewart Newmanは、「遺伝的進化で選択の力を否定することはできないが、…私の見解では、ここで問題になっているのは他のプロセスによって現われる安定的な微調整する形態だ」と言っている(*5)。進化古生物学者のGraham Buddもこの記事で、同様に率直に、肝心の進化的移行形態の欠如について述べている――

これらの問題には、進化における肝心のターニング・ポイントの問題が含まれる。すなわち新しい枝が進化の樹から生じ、新しい解剖学的形態(骨格、四肢、脳など)が現われるときの化石記録に見られるパターンと変化の問題である。スウェーデンのウプサラ大学の古生物学者グレイアム・バッドは、「一般 の人が進化を考えるときには翼の起源とか(海からの)陸地への進出を考える。しかしこういったことについて進化論が教えてくれたことはほとんどない(*5)」と言っている。

これらの科学者はいずれもID唱道者ではなく、彼らは唯物論的な進化の説明がやがて現われることを期待している。にもかかわらず、彼らがネオダーウィニズムに異議を唱えていることに注目すべきである。アルテンべルグ会議の発起人の一人Massimo Pigliucci[注、ダーウィニスト]は、会議の後、応急被害対策を試みて、この同じ「ネイチャー」の記事の中で、「我々が望まないことが一つあるとすれば、人々が進化論にはいくつかの種類があり、それらはみな同等だと思い違いしないことだ」と言っている。ピグリウッチはこの「ネイチャー」の記事の終わりに述べられた警告を尊重したと思われる――

アルテンべルグ会議には、進化論を左派から攻撃しようとするような雰囲気はなかった。全く反対で、この場を支配していた政治的な気がかりは、原理主義者からの攻撃の恐れであった。グールドが明らかにしたように、創造論者は、少しでも進化論者に分裂の様子やダーウィニズムへの不満の様子が見えると、そこに付け込もうとする。過去20年間、現代総合理論に満足しているか否かを問わず、あらゆる人々がこれに気付いている。「いつも背後を防御したいような気持になる」とLoveは言っている、「もし批判をするなら、それはこういった人たちに弾薬を手渡すようなものだ。」だから大所高所から批判するようなことはやめよう、とジェリー・コインは言う――「創造論者を黙らせるために意見の違いを抑えつけるようなことはすべきではないが、ネオダーウィニズムがある種の危機に達したなどと言うことは、創造論者を利するだけだ。」

メッセージははっきりしている。ネオダーウィニズムへの異議は、それがインテリジェント・デザイン(これを彼らは「創造論」や「原理主義」と一緒にするが)の唱道者に信用性や「弾薬」を与えない限り、大目に見てもらえるということである。ネオダーウィニズムへの異議申し立てが、IDに少しでも支持を与えることのないように注意深く構成されていなければならないとするなら、ID唱道者が彼らの観点を学問の世界で主張することがいかに難しいかは、たやすく想像できようというものである。

これはNCSE(全米科学教育センター)がそのウェブサイトで言っていることと矛盾するように思えるだろう。彼らは、誰でも迫害の恐れなしにネオダーウィニズムに異議を唱えることができると主張している。標準的ネオダーウィン進化論とは異なる考え方を推進して成功した著名な科学者の短いリストを掲げて、彼らはこう結論している――

科学的企ては、いかにそれが最初は反対されようと、新しい考え方に対し開かれたものである。ここにあげたのは、科学の現状に挑戦したが、科学界から「追放」されるどころか、ひとたびその考えの正しさが証明されたとき、その先見の明を讃えられた人々の例である。…そのように科学的合意は常に挑戦を受けることができ、実際挑戦されている。挑戦することのできない正統理論というものはない。これは映画『追放』が言おうとしたことである。…科学者は、進化論――と自然選択理論を含めて、常に理論を疑問に付し洗練し拡張しようとしている。Michael Shermerが書いているように、「科学者はダーウィニズムを疑わないものと考えている人は、進化論学会に出席したことのない人である。」ID唱道者たちが、ついにその見方が勝利するまで、時には長期にわたるかなりの反対を乗り超えたこうしたすぐれた科学者たちの、足跡を辿らないという理由はない。

NCSEは、ID唱道者も他の科学者と全く同じく、ネオダーウィニズムに挑戦する同等の権利があると信じさせようとしている。しかしこれが事実でないのは明白である。科学雑誌に載る科学者の論文は、唯物論者でさえネオダーウィニズムに挑戦することは「正統的進化生物学の攻撃の的とされる」から政治的に「危険」であるだけでなく、正統派に挑戦する者は、進化の唯物論的説明に忠実であるように気をつけねばならないと、はっきり言っているからである。科学文献から明らかに伝わってくるのは、現代総合理論に対する異議は、それがIDを支持しない限りにおいてのみ許される可能性があるということである。NCSEの「挑戦できない正統理論はない」という考えは、その正統理論が単にネオダーウィニズムというのでなく、進化の唯物論的説明であることを理解すれば、明らかに虚偽である。

参考文献
(1) Michael A. Bell, “Gould’s most cherished concept, review of Punctuated Equilibrium by Stephen Jay Gould,” Trends in Ecology and Evolution, Vol. 23(3): 121-122 (2008).
(2) G_nter Theissen, “Saltational evolution: hopeful monsters are here to stay,” Theory in Biosciences, Vol. 128:43-51 (2009).
(3) G_nter Theissen, “The proper place of hopeful monsters in evolutionary biology,” Theory in Biosciences, Vol. 124:349-369 (2006).
(4) Scott C. Todd, “A view from Kansas on that evolution debate,” Nature, Vol. 401:423 (Sept. 30, 1999).
(5) John Whitfield, “Biological Theory: Postmodern evolution?” Nature, Vol. 455:281-284 (2008).

最新情報INDEX

 

創造デザイン学会 〒107-0062 東京都港区南青山6-12-3-903