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対話はどこに? フランシス・コリンズの盟友は対話を拒否

By: John West
June 3, 2009

友好的なジャーナリストと話しているときは、有神論的進化論者のFrancis Collinsは信仰や進化について「対話」を求めているのだと強調する。

しかしコリンズと彼の盟友は、奇妙なことに、本当の対話に応ずることを嫌がっているようだ。

これをよく示すのは、コリンズと共にBiologosで論陣を張る彼の盟友Karl Gibersonがこのほど掲げた底意地の悪い記事である。数か月前バイオラ大学で私と討論をしたジバーソンは、ディスカヴァリー研究所の新しいウエブサイトFaith and Evolutionのことを、「口先がうまく、資金は潤沢で、修辞的に長けており、どこまでもミスリーディングで、ほとんど完全に科学と言えるものを欠いている」とこき下ろしている。これには魂消た! ジバーソン自身の記事こそ、どうひいき目に見ても「ほとんど完全に実質と言えるものを欠いている」と言わねばならない。彼は続けてこう言っている――

BioLogosサイトにおいて我々は進化の確固たる証拠を提供している。・・・我々は単に反デザイン的議論をして、不戦勝ちをしていると考えているのではない。Faith+Evolutionの人たちは彼らの立場の何の証拠も示さない。彼らがみんな抱いていることになっている「デザイン・モデル」をさえ説明しない。彼らがやってみせるのはただ、反進化論の議論だけで、進化論が負ければ「デザイン」が勝つだろうという推測だけである。結局のところ、このサイトは修辞学の演習――我々が自分でも明確に言えない立場を、どうやって説得力ある議論に見せかけるか――ということにすぎない。

私はジバーソンがどれだけFaith and Evolutionを本当に読んでいるのかしらと思う。我々のウエブサイトは確かに、現代ダーウィニズムへの科学的挑戦である。そしてこれはジバーソンのウエブサイトには決して載っていないものだ。しかしジバーソンの言葉とは反対に、Faith and Evolutionサイトは、インテリジェント・デザインの積極的な証拠をも提供している。もしこれを疑うなら、このサイトの「IDに関するトピック・ページ」へ行ってみるがよい。そこにはデザインを支持する科学的証拠を要約したものが掲載され、合わせて更に詳細な議論を展開する関係論文を追加するリンクが設けられている。ID理論の全体的な証拠とその論理を示す慎重な論文として、手始めにスティーヴン・マイヤーの33ページにわたる学問的な論文を読んでみられるがよい。完全に一方的なBiologosのサイトとは違って、Faith and Evolutionは考え方の違う論文をも掲載している。「Debates(討論)」のセクションを見てほしい。

ジバーソンのFaith and Evolutionに対する非難攻撃は、心理学でいう「投影」の顕著な見本である。彼は気に入らないウエブサイトを、「とこまでもミスリーディングで、ほとんど完全に科学と言えるものを欠いている」と攻撃するが、自分の主張を押し通 すために、証拠のない明らかに虚偽の主張をしているのは彼自身の論説である。ジバーソンのアプローチの基本は、ID唱道者たちは不誠実あるいは不純だということにある(だから彼は「口先のうまい」(slick)「どこまでもミスリーディングな」ウエブサイトだと言う)。しかし彼は、我々のサイトに一貫して示されている現実的な議論に一切応じようとはしない。我々を批判する人たちの言葉を借りれば、これは「安物のタキシードを着た」知的応酬だ。それは中味のない見せかけの論争である。

全体的に見て、これは実に奇妙な「対話」の方法である――相手の言っていることに応答するより、まずその誠実さに泥を塗れ。私としては、ジバーソンがダーウィン理論には証拠があると誠実に信じていること、彼がIDは間違っていると誠実に信じていることを疑わない。しかしそれなら、彼の方でも同じ態度をこちらに対して示し、ID唱道者たちが誠実であることを認めてほしいものである。よい対話においては、両側が少なくとも互いの誠実さを認め、証拠に基づいて議論をするものであって、もっともらしく動機を攻撃したりしないものだ。

きっとジバーソンや彼の仲間たちは、ID唱道者たちにかかわりたくないので、彼らが消えていなくなればいいと思っているのだろう。しかしそううまくはいかない。自然界のデザインについての議論は、プラトンにまで遡る西洋文明の大きな論点の一つであって、そう簡単になくなるものではない。デザインの累積的な証拠は、物理学、宇宙学、天文学、化学、生物学、数学の各分野から提出され、増え続ける一方である。

面白いことに、Biologosの人たちは本質的に、物理学や天文学のデザインの証拠は認めている。ただ彼らは、これらの分野と生物学の間には壁を築きたがっているのだ。生物学の外の世界では、理性ある人々の間でデザインの証拠を論ずることは許されている。生物学の内部ではそれは禁止されている。しかしそれが発見される専門分野が何であろうと、デザインの証拠を考察してはならないという確かな理由はない。宇宙全体に見出すことのできるファイン・チューニングが細胞の内部にも見つかるのであれば、どうして同じ推論をしてはいけないのだろうか? もっと肝心なことは、理性ある人々が生物学のデザインの証拠を、動機を問題にされることなしに、どうして論ずることができないのだろうか? Biologosの有神論的進化論の唱道者たちは、自分たちに反対する者たちを含む公開の討論をしたくないほどに、自信がもてないのであろうか?

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