Evolution News and Views

「生命の樹」初等読本(1)

By: Casey Luskin
May 5, 2009

進化論者はしばしば、全生物の共通祖先と生命の樹(系統樹)は確立された事実だと主張する。ある最近の意見記事(Perry Mann, "The Dinky Insect That Helps Demonstrate Darwin's Theory") は、「すべての生物、植物も動物も、人間もショウジョウバエも含めた全生物が、突然変異と自然選択によって、ある共通 の祖先から進化したという証拠は、単なる理論を超えた事実である。とらわれぬ 心をもって証拠をゆっくり読む者は、かならず科学者や教育ある人々の側につくであろう」と論じている。ここに込められているメッセージは、ダーウィンの生命の樹を疑うような者は無知な輩だということである。だれも嘲笑されたくはないから、人はこのレトリックに加担して、「科学者や教育ある人々」の仲間に入ろうとするのである。

しかし彼らの主張の根拠は何なのか? そしてその主張はどれくらい思い込みに基づいたものなのか? 実のところは、共通 祖先というのは否定できない結論などでなく、データの解釈を支配している思い込み(アサンプション、最初の想定)にすぎない。だからデータが共通 祖先という期待と食い違うときには、進化論者はいつも、あらゆる間に合わせの合理化案を考え出して、共通 祖先という概念の虚偽が明らかにされないようにするのである。

こうしたその場限りの合理化案のいくつかは、もっともらしく見えるかもしれない――水平的遺伝子転移、相似的(収斂 的)進化、進化の比率の差(急速な進化はいかなる進化上のしるしをもぼやかすと都合よく言われる)、ゲノムの融合など−―しかし結局のところ、それらはその本来のあり方で呼ぶ以外にない。すなわち、すでに虚偽であることが証明された理論を救うための間に合わせの(ad hoc)合理化ということである。最初から一つの想定に基づいているわけだから、進化論者はたくみに共通 祖先という概念を、反証できない非科学的なやり方で扱う。そこでは共通 祖先という予想に反するデータはすべて、上記の間に合わせの合理化のどれかを使って、言い逃れをするだけである。しかし共通 祖先をそれが扱われるべきやり方で、すなわちテスト可能な仮説として扱うならば、それは多くのデータに反するのである。

すでに言ったように、系統樹の構築に用いられている最初の想定は、さまざまの異なった生物間の相似性は、共通 祖先からの遺伝の結果だという基本的な想定である。すなわち、それがそうでない場合を除いて、ということだ。(そうした上でその相似性は、相似的(収斂 的)進化の結果だと主張されることになる。)しかしこの主張、すなわち異なった生物間の相似性は一つの共通 祖先からの遺伝によるという主張を、額面通りに受け取るとしても、それが単に想定であることは認めようではないか。ところで他に想定の可能性はないのか? 

私は5回に分けたこのシリーズの中で、生命の樹の問題と、別 の考え方の可能性を探ってみようと思う。

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