Discovery Institute News

ダーウィン、ニーチェ、ヒトラー
―超人の進化の系譜―

By: Benjamin Wiker
Human Events
May 13, 2008

寄せられた多くの意見から判断すると、私の最近のコラム「ダーウィンとヒトラー:彼ら自身に語らせる」は、かなりの騒ぎを引き起こしている。多くの人々は、尊敬されている科学上のイコンと、悪のイコンとのつながりを指摘されれば、面 白くないだろう。もっともなことだ。しかし残念ながらそれは事実である。

傷口に塩をすり込むようなことはしたくないが、ダーウィニズムは第三帝国の優生学的幻想よりも、はるかに多くの破壊に対して責任がある。それはまた、ヒトラーの周囲にむらがり彼の計画を支持した多くの知識人を同様に元気付けた哲学者ニーチェの高言の、実質的な産みの親である。

ニーチェは「神は死んだ」という宣言と、その悪名高い『善悪の彼方』において、単なる道徳は宗教と同じく卑屈な奴隷のためのものだ、と主張したことで有名である。未来は真の主人のためのものでなければならない、とニーチェは20世紀の恐怖が現実となる直前に宣言したが、これに力を与えられたのは、道徳的な限界と善悪の区別 を踏みにじり、慈悲を残忍にすり替え、この世の栄光のために自分の意志を他人に押し付けた者たちであった。

この超人、この新人、この主人は、どこから来たのか?

少なくともその血筋の一部はダーウィンから来ている。進化とは、人間の本性はどうにでも変形するという教えである。それは生存闘争によって産み出され、同じ闘争が人間の本性を押し上げて、もっと偉大なものに変えるのである。ダーウィンが『人間の由来』で明らかにしたように、人間の本性は神によって定められているという考えを拒否することによって、人間から超人をつくる可能性が開けてくる。なぜなら、人間が神によって「生まれながらの場所に置かれるのでなく」進化によって今いるところまで「這い上がってきたという事実」は、「遠い将来もっと高く登れる運命を期待させる」からである。

ではどうやって登っていくのか? 進化の階段を登ることによってである――ちょうどここへやってきたのと同じように――優れた素質をもつ者たちが劣った者を滅ぼしていく闘争によって。ダーウィンが明らかにしたように、人間の進化は、たとえ忠誠とか勇気のような道徳的資質の進化でも、闘争と征服によって起こるのである。

同じ地方に住む原始人の2つの種族が競争するようになった場合、もし一方の種族に、勇敢で同情心に富み忠実でもある構成員がより多くいて、常に仲間に危険を知らせたり、互いに助け合ったり防御したりする傾向をもつなら、この種族が間違いなく競争に勝ち、他を征服することだろう。忘れてならないことは、野蛮人たちの決して止むことのない戦争においては、忠誠と勇気が最も大切な資質だということである」(ダーウィン)

今度はニーチェの言うことを聞いてみよう。彼の言葉にはより鋭いレトリックの刃がついているが、ダーウィンのそれにとてもよく似ている。

正直に認めようではないか――いかにして過去のあらゆるより高度な地上の文化が始まったのかを。その自然の性質がいまだ自然のままである人間たち、その言葉のあらゆる恐ろしい意味における野蛮人たち、いまだ破られていない強力な力への意志と欲望をもつ猛獣的人間たちは、より弱い、より文明化した、より平和的な人種に襲い掛かったのである…

力への意志――これはダーウィニズムのより野蛮な、しかし同時により精神化された形である。より野蛮なというのは、ニーチェはダーウィンが沈黙していることを強調しているからである。すなわち、弱者に代わって強者が新しく得た権力を永続させるのは、一つの生物種が他の種を滅ぼすのと同じように、一つの民族による他の民族の野蛮な絶滅によってであるということである。

「優秀で健全な貴族階級の本質的な特徴は」とニーチェは論じている、「自分たちのために、半端な人間、奴隷、道具へと引き下げられるべき多くの者たちの犠牲を、良心の呵責なしに受け入れることである。」貴族階級の「基本的な信念」は、したがって、社会は彼らのために存在し、そのため、この社会で彼らに仕えるすべての劣った人間種族は「もっぱら最良の種族がより高い課題のために、より高い地位 に昇れるように、土台や踏み台としてのみ存在する、ということである。」

より高い存在様式、すなわち、自分が進化の坂道を登っていくとき踏みつける他者を意に介さぬ 超人――これがニーチェの目指すものである。ダーウィンが、人間の進化についての彼の見方がどう展開すると予想したかは分からないが、ニーチェは、超人がその究極の形だと理解しているのである。

ニーチェにとっては、これらは一部の学者が主張するような、単なる哲学的反芻にはとどまらなかった。我々は進化の坂道をすべり落ちて「末期人間」、すなわち牛とあまり変わらぬ ものになりつつある、そしてこれを押し上げることのできるのは偉大な闘争のみだとニーチェは考えた。第一次世界大戦の始まる前、一種の説教者か預言者としてものを書いていたニーチェは、「“ヨーロッパ問題”は、ヨーロッパを支配する新しいカースト制度を根付かせること」によって解決されると信じていた。ヨーロッパを復活させるには、大きな危険が出現しなければならず、それは戦い征服する意欲を呼び戻すものでなければならない、と彼は考えた。

私の言うのは、例えばロシアの脅威の増加であって、これに対してヨーロッパも同様に脅威を与える決意をしなければならないということである。すなわち、ヨーロッパを支配する新しいカースト制度による一つの意志、今後何千年も先に目標を定めることのできる、長期的な恐ろしい独自の意志を獲得することである。そしてそれによって、長く続いた喜劇というべきヨーロッパの分裂国家や、王家と民主主義の分裂した意志は、終りを告げなければならない。卑小な政治学の時代は終わった。次の世紀は、地球支配のための戦闘――壮大な政治学への強制――をもたらすだろう。」(ニーチェ)

ここに聞こえてくるのは第三帝国の軍靴の響きだと言わざるをえない。ニーチェを宣伝するリベラル派は必死に否定するであろうが、それは明白である。しかしこの批難から彼を救うために、ニーチェの本に散見されるユダヤ人支持や反ドイツの文言を拾ってみても不十分である。ニーチェは、ヒトラーが彼の要請に応えたその具体的な形には賛成しなかったかもしれないが、ヒトラーが彼のやり方で応じたような要請を発したという責めは負わなければならない。ダーウィンについても同様である。ニーチェはダーウィンを新しく解釈したのではあるが、ダーウィンはそのような解釈を可能にし誘発したことに対して、責めを負わなければならない。

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