知的探究の絞め殺し
リチャード・ジョン・ノイハウス
(Richard John Neuhaus =First Things の編集者)
米月刊誌First Things(2005年4月30日)
「現実問題として、ほとんど気付かれないうちにわが国全体に広まった反進化論運動の範囲と程度の大きさにかんがみて、アメリカの政策立案者は、こういった人々の宗教的信念の公的表明が教育と科学に影響を与えつつある事実をよく考慮すべきである。アメリカは深く宗教的な性格をもつ国であるが、そのことが知識への欲求や科学的探究の前に立ちはだかるようなことがあってはならない。ひと度そのようなことになれば、それでなくとも大学院に進もうとする若者の不足に悩むアメリカの科学界が、世界をリードすることをやめてしまう日が近い将来やってくるに違いない。」
これは、この問題に限らず他の問題についても、リベラル派の機関の中でも他と比べて穏健な方である「ワシントン・ポスト」紙の社説の論調である。
この警鐘はもちろん、多くの学区が「進化は一つの説である」ことを生徒に教えようとしていることに刺激されたものである。進化が一つの説であることは事実である――誰かが辞書の製作者に断りなしに、「説」の定義を変えてしまったというなら別として。「知識への欲求」や「科学の探究」は、もし我々がもはや説と事実の区別を尊重することをやめてしまうなら、ひどく傷つくことになるであろう。進化論についての疑問がもし宗教によって動機付けられているなら容認できないと主張するのは、反宗教的偏狭の一形態にすぎない。多くの敬虔なキリスト教徒で、多く科学の仕事にたずさわっている人々が、進化論に賛成していることは事実である。また宗教を拒否する科学者で進化論をも拒否する、あるいはこの理論を大いに疑わしいものと考える人々がいることも事実である。理論(説)とはそういうものである。
理論とは提案された原理または物語のことで、既知の事実と考えられるものとの関連においてそれが持っている説明力によって、構築され、またテストされるものである。進化論を単純に科学と見なすことは、真理の探究においていかなる場所を占めることもない独断の一形態である。そうような考え方からくる問題は、進化という概念の意味についてさまざまに対立する解釈があるという事実によって、いっそう大きなものになる。進化論に対する抵抗は、しばしばそうであるように、無神論的あるいは唯物論的な形で説かれるときにはほとんど避けがたいものとなる。無神論や唯物論は科学でなくイデオロギーであって、未開状態のアメリカ人だけでなく、すべての時代と場所の大多数の人々が間違いと考えているものである。しばしば十分な科学者としての資格をもつ「インテリジェント・デザイン」のような考え方の提唱者たちは、彼らの理論の方がより大きな説明力をもつと主張する。
もし誰かが、進化論は聖書の言っていることの彼らの理解に矛盾するから間違いだと主張したとしたら、それは科学の通常の意味での科学的議論ではない。それは聖書の権威からの、あるいは少なくとも聖書のある解釈からの議論である。人はそのような議論を、たとえ多くの人々にとって説得力がなくても、きわめて合理的なやり方で進めることができる。議論というものはそういうものである。しかし、インテリジェント・デザインの提唱者たちは、聖書の権威からでなく、彼らが科学的証拠と確信するものから立論しているのである。彼らに対する反対論者は、彼らの大多数がキリスト教信者であるから信用できないと主張する。フェアプレイのために議論を逆にすれば、進化のより積極的な支持者たちは典型的なイデオロギー的無神論者・唯物論者だから信用できない、と言うこともできるだろう。これらは低級な偏見による宗教的・哲学的論難であって、科学の方法であるべきものにいかなる場所を占めることもできない。
宇宙での生命の起源と発展という大問題は、無限に人を魅了するものである。知的自由と誠実さは、その大問題について考察し、仮設を立て、理論を形成するのに、すべての適切な証拠と推論の筋道を考慮に入れることを要求する。進化論というものが、さまざまに解釈さながら、前世紀において大多数の科学者の間で、定冠詞付きの「真理」としての地位を占めていたことは歴史的事実である。しかし同時にそこには、その仕事が本誌のページ上でしばしば注目を浴びたデイヴィッド・ベルリンスキーのようなきわめて雄弁な異論の提言者も存在する(First
Things, May 2004, Public Square 参照)。過去10年の間、我々は「インテリジェント・デザイン」の科学的理論家たちが、進化論に対してしばしば真っ向から挑戦し、またある時はそれに対する有意義な修正を提言するのを見てきた。進化論擁護の正統派は、知的デザインや目的といったことが少しでも持ち出されると警鐘を鳴らし、そうすることによって暗黙のうちに、狭く独断的な進化の考え方を弁護し続けているのである。
教育委員会のいくつかは、進化論が唯一の生命の起源と発展についての理論ではないことを生徒に知らせるべきだと、非常に控えめに主張している。彼らが生徒に知って欲しいのは異論の余地のない事実なのである。定評ある科学者によって支持されている他の理論で、いま生徒が同意するように強制されている既成版とは違う進化論もある。いかなる問題についても、合理的で科学的な授業なら、すべての適切な証拠と説明の提唱を考慮に入れるべきである。偏狭な進化論を独断的に制度化するほとんど宗教じみたやり方は、その擁護者たちがそれに代わる考え方を、教室では議論することも口にすることすら禁ずべきだと主張するとき、深刻な問題に陥ることは明らかである。生徒も教育委員会も思慮ある市民も、このような知的探究の絞め殺しの試みに対して反逆する十分に正当な理由を持っている。
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