NO.68



「穴埋めの神」というID批判は正しいか
―唯物論文化の陥穽―

誤解の原因

 「穴埋めの神」God of the gapsとは、インテリジェント・デザインへの揶揄として使われる言葉で、IDとは単に自然界の説明できない、あるいは説明困難な、うまくつながらない部分を、「デザイン」すなわち神の業として片付けるだけの理論ではないか、という批判である。これは「苦しいときの神頼み」にも似た言い方で、ダーウィニストに言わせれば、IDとは怠け者の理論、「サイエンス・ストッパー」だということになる。これに対してID側は、ダーウィン進化論こそ、あらゆる説明できない部分を「進化」で片付けるわけだから、「穴埋めのダーウィン(進化)」Darwin (evolution) of the gaps だと言って返す(これについては誰も否定できない)。しかしこれは対等の論争ではない。そもそもこれは同じ土俵に立っての話ではないからである。ID側にしてみれば、「それを言うならそちらこそ…」と言わざるをえないだけの話である。
 しかしIDの誤解の上に立って、これを尤もな言い方だと考える人びとも大いにありうるので、そこをどう考えるべきか説明してみたい。まず、IDは唯物論を土台にしているのではないから、唯物論を土台とするダーウィン進化論と同じ土俵に立てるわけがない。しかしID同調者であっても、IDとは結局「穴埋めの神」理論ということになるのではないかと考える人は、知らずしらずのうちに、自分をダーウィニストと同じ唯物論の立場に立たせているのである。すべては唯物論によって、すなわちモノと物力によって説明できると主張するのがダーウィニストだが、ID理論家はそれとは全く違った立場に立っている。しかし誤解は、ID理論も原則としては唯物論科学に従い、それによって説明できないところだけ、ダーウィニズムと対立するのではないか、と錯覚することから生まれる。
 IDは原則として唯物論を拒否する。この根本のところを誤解することによって混乱が生ずる。それは我々の文化では、唯物論的な考え方が身についた常識になっているからだと思われる。我々は基本的に、唯物論科学で十分に説明できる世界に住んでおり、その上に宗教(神、超自然)という別 次元のものが存在する(かもしれない)、とたいていの人は考えている。インテリジェント・デザインとは、この常識に疑問を投げかける、つまりこの世界が「導かれていない」(unguided)単なる自動装置だとは解釈できないとする理論である。しかしダーウィン的常識にはまり込んでいる者にはそれが理解できないために、「デザイン」という言葉を聞くと、「では神様は、歴史上何べん天から降りてきて自然界に介入したの?」などと皮肉のつもりで言うのである。
 しかしこれは、デザイン理論が最初に、既成科学の前提をゆさぶるために現れたときの説明の仕方に誤解の元があったのかもしれないと、今にして思われる。周知のようにID理論の構築者の一人で数学者のウィリアム・デムスキーは、自然界はいわゆる自然的要因だけでは説明できず、「必然」(法則性)と「偶然」のほかに「デザイン」(構想、設計、意図、目的)という要因を認めるべきだと主張した。そしてこれを論証するために、ある出来事(事実でも構造でもよい)をチェックしたとき、法則的必然によっても偶然によっても説明できない「デザイン」でしかありえない原因があることを、「説明のフィルター」というものを用いて説明した。そしてデザインを見分ける判断の目安は、「特定された複雑性」であるとした。
 デムスキーの意図は、少なくともこれだけは「デザイン」でなければならないということであって、必然と偶然を取り除いて残った「特定された複雑性」だけがデザインだということではない。これはいきなりパラダイム(前提)の転換を主張する前に、まず万人に通 用する論理を用いた、いわば方便あるいは戦略であったと言ってもよい。同じことはマイケル・ビーヒーの「還元不能の複雑性」についても言える。彼の論法も、少なくともこれだけはデザインとしか考えられない、ということを言うために、説明し易いバクテリアの鞭毛などを例に取って、それを証明したのであって、鞭毛だけが還元不能の複雑性をもつという意味ではない。
 デムスキーもビーヒーも、初期条件としての宇宙そのもののデザイン性は考えていない。彼らのやったことはいわば、まずこれだけは言える、これだけは認めよ、という科学者共同体を理詰めで納得させるための、ID運動の第一段階であったと考えることができる。だからIDは、まずデザインの検出や実証を中心とする部分と、そこから導かれる新しい宇宙解釈による新しいパラダイムの提唱という、二段構造になっていると考えてよいであろう。だから第一段階のIDの(ディスカヴァリー研究所による)定義は、「宇宙と生物のある種の特徴は、自然選択のような、導かれない(unguided)過程によってでなく、知的な原因によって最もうまく説明される」と主張する理論、という控えめなものになっている(傍点筆者――「少なくとも一部の」という意味)。
 だからこの第一段階だけを見ていると、IDも基本的には自然主義(唯物論)であって、そこへデザインが時々介入するかのように誤解されるおそれがないとは言えないだろう。IDの究極の主張は、宇宙自然界の一部がデザインされているということでなく、宇宙そのものが全体としてデザインされた、還元不能に複雑な実体だということである。この立場は、『特権的惑星』や『意味に満ちた宇宙』(創造デザイン学会訳、アートヴィレッジ)に明らかである。

IDからの反論

 以下、ウィリアム・デムスキーとジョナサン・ウエルズ共著の新著『生命のデザイン』(The Design of Life, 2008)から引用しながら、この「穴埋めの神」の問題をどう考えるべきかを見ていきたい。ここではFrancis Collinsを相手取って反論しているが、コリンズはアメリカの「人間ゲノム解読計画」を指揮した人で、宇宙は目的をもって神が創ったものと信ずる信仰者でありながら、その具体的過程は完全にダーウィニズムに従うもので、IDは「穴埋めの神」理論だといって批難する、不可思議な立場を取る生物学者である。(ジョナサン・ウエルズによるコリンズの『神の言葉』(The Language of God)批評が、創造デザイン学会HPに出ているので参照されたい。http://www.dcsociety.org/id/information/080326.html

  未知の唯物論的説明に訴えることがデザインを否定する十分な理由にならないとすれば、フランシス・コリンズの科学の歴史への訴えも理由にはならない。コリンズは、生命起源を説明するのにデザインを持ち出すことを、日蝕や惑星の動きを説明するのにデザインを持ち出すことに比較する。しかし昔の人びとが、日蝕や惑星の動きを説明するのに知的存在の働きを持ち出したのは、これらの事実の根底にある天文学的事実を知らなかったからである。我々は生命の起源に関して、彼らとは根本的に異なった立場にある。すなわち我々は、それに関わる生化学や分子生物学の事実を知っていることによって、生命の化学構成ブロックが自然に生じ、それらが自己配列をし、生きた細胞に必要な、情報に満ちた構造物になることが、いかに難しいかを十分にわきまえられる立場にあるのである。デザインという仮説が無知ではなく知識に基づいている以上は、それは科学的に正当なものである。
 皮肉なことに科学の歴史を見れば、生命起源のデザインによる説明は、唯物論的な説明ほど疑わしいものではないと言える。ダーウィンの時代には、細胞は非常に単純なものと考えられていた。それは本質的に、膜に覆われたゼリーの塊りのようなものと思われていた。そのように単純なものであるなら、生きた細胞の起源についても、オパーリンの仮説がそうであったように、複雑性の階段を徐々に昇るのは大した問題ではないと思われた。むしろ細胞は、前有機物質から自然に形成されるものと考えられた。瞬時に自然に生成される生命というのは、現在、生化学と分子生物学が細胞の複雑さについて明らかにしている事実からみれば、滑稽な考えのように我々には思える。しかしダーウィンと彼の十九世紀の弟子たちは、細胞の真の複雑さを知らなかったので、これを単純な物質と思い込み、結果 として、それを純粋に物的な原因によるものと考え、生命起源の科学的議論からデザインを追放してしまった。科学史はしたがって、科学的無知からデザインによる説明が拒否され、唯物論的説明が間違った理由で受け入れられるようになったことを、明らかにしている。

 これは説得力のある対コリンズ、あるいはID批判者一般 への反論だと思われるが、ここでも皮肉なことに、彼らはIDの真意がどこにあるのかを勉強して確かめることなしに、無知から批判しているのである。更にこの続きを引用するが、これによってデザインの主張が、いかによく考えられた上での主張であるかが了解されるであろう。

 では、生命起源のデザインによる説明を受け入れてよい正当な理由があるとすれば、それはどういうものであろうか? 何かを受け入れる理由というものは2つの形でやってくる。すなわち積極的理由と消極的理由であり、常にこの両方が揃ったときに十分な理由となる。例えば多くの項目から選択するテストの場合、不正解を選ばないという消極的理由のほかに、正解を選ぶ積極的な理由があれば万全である。同じことは科学においても真理である。今考えている問題の場合、まず生命起源の唯物論的説明を拒否する、有無を言わさぬ 消極的理由がある。それは次のようなものである――
● 現実的な[空想的でない]前生命スープというシナリオから、細胞に見られる情報に満ちた構造物へ至るもっともらしい化学的経路が、完全に欠如していること。
● どんな経路でも、そのような経路が克服しなければならず、克服のいかなる能力ももたない諸々の障害の、そして前生命化学が、唯物論的な生命起源にわずかでも近づく前に、これを挫折させてしまう諸々の障害の、長い一覧表。
● 自己組織的、ダーウィン的、その他の唯物論的原理が、生命起源のための理路一貫した理論的枠組みを提供することができないこと。
要するに、証拠からも理論からも、唯物論的な生命起源は支持されないのである。
 唯物論的な生命起源を拒否すべき消極的理由とともに、デザインによる生命起源を受け入れるべき積極的な理由がある。それは次のようなものである――
● 細胞のシステムのエンジニアリング的特徴。
● 細胞のシステムの還元不能の、特定された複雑性。
● 数学的情報理論による保存原理(conservation principle)は、進化の過程は少なくとも、それが与えるだけの情報を取り入れなければならないことを示している。

自己修正するのが科学

  この本はこの一つ一つの項目について更に詳しく説明している。むしろこの本の大半がその論証に当てられている。それと同時に「今のところ未知だが、何らかの唯物論的な生命起源の説明が将来、科学者に発見されて、デザインによる説明を無効にしてしまうおそれ」はないことを論証する。しかしそう言いながらも、著者は譲歩する姿勢を示しながら、大きく科学の道をはずれた者たちに、科学のあり方を次のように説教している。

 科学は大胆な企てである。それはリスクを負うが、リスクを負う余裕があるのは、それが常に経験的証拠に接触することによって、新しい事実に照らして自己修正することができるからである。生命起源を説明するデザイン仮説は、究極的には間違いであることが示されるかもしれない。しかしそれがどうしたと言うのか? すべての科学的仮説は経験的な事実からの批判に身をさらしていて、間違いを証明されるかもしれない。だからもし、生命起源の有無を言わさぬ 唯物論的説明がいつか見出されたとしたら、そのときには、デザイン仮説は余計なものとして敗退するだろう。だが一方、デザイン仮説は十分に正しいかもしれない。しかしたとえ正しいとしても、その正しさを決定する唯一の道は、その仮説を生きた科学のオプションとして認めること、そしてそれを科学の特徴である厳しい吟味にさらすことによってである。今日のありさまを見ていると、デザイン仮説を遠ざけることによって、生命起源の研究者たちは、唯物論的な生命起源のシナリオを人工的に築き上げ、それが受けるべき吟味から身を護っているのである。

  先々号(http://www.dcsociety.org/id/ningen_genri/066.html)に私は、現状を踏まえてせめてこれくらいの改良の工夫はあるべきだという、生命起源についての教科書記述の私案を示した。私の案などは無視されても仕方がないとしても、教科書著者たちは、ここに書かれているようなことを――まさかとは思うが――敵側の言っていることだとして一蹴するようなことがないように、切に願うものである。

『世界思想』No.392(2008年8月号)

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