NO.62



今日の諸悪の根源としてのダーウィニズム(2)
 ―ダーウィン=ヘッケリズムの世界支配構造―

ナチズムを支えた科学

 前号において我々は、なぜ学者的良心というものを全くもたない、いかさま師の見本のようなヘッケルが、科学者としての生命を失うどころか、科学の権威として祭り上げられ崇拝されるに至ったかを見てきた。彼のデータ偽造は、いわば神聖な動機をもつものだったのである。それは今日の科学者の、個人的な功名心に駆られてのデータ偽造とは全く別 のものと考えるべきである。彼のデータ偽造は、当時の国家的・民族的要請から生まれたものだと言ってよい。戦前・戦中のわが国が国威発揚のために、神話を史実として教える「皇国史観」を必要とした事情を考えてみればよい。
 人間とサルは連綿とつながるものであり、人間という明確な種があってはならなかった。人間が下等動物の子孫であるということは屈辱であるが、その引き替えに邪魔な神が否定され、最も進化の進んだ人種や民族が、遅れた人種や民族を支配する権利と崇高な義務を自然から託されたことになる。これが自然を神とする新しい宗教であり、キリスト教の神は追放されなければならなかった。したがって「生存闘争」や「自然選択」は冷厳な自然法則であり、科学でなければならなかった。ヘッケルはその道理を明確に説いた救世主的な科学者であった。これはいわゆる御用学者といった範疇をはるかに超えるものである。
 ダニエル・ガスマンの『国家社会主義(ナチズム)の科学的起源』(事実上ヘッケル伝といってよい)の新版の序は、次のように言っている。

 ヘッケルの「一元論(連盟)」運動は、人道的・合理主義的な科学の確立された知的・道徳的伝統からの根本的で過激な決別 を提唱し、それに代わって、異教的・非キリスト教的な思想伝統に拠り所を求めるものであった。それが特に強調するのは、人格神の不在、存在の無意味さ、宇宙の本質としての無道徳性、そして直線的・進歩的な歴史概念への反対であった。一神教の神は死んだ、人類は別 々の永遠に分岐した生物学的種族に分かれている、超越的な宗教は反科学的な迷信に根付いている、道徳は歴史的に相対的なものである――こういった彼のおおまかな想定は、ヨーロッパの知識人および半知識人の間で、最新の科学によって認可された反論できない真理として受け入れられるようになった考え方であった。時間とともに、ヘッケルの考えは次第に過激化し、やがては、国家社会主義の活動の主要な理論的根拠として奉仕することになる。

 エルンスト・ヘッケル(一八三四―一九一九)が思想史上の重要な人物として扱われることは、普通 はまずないのではなかろうか。しかしここに言われている、彼の考え方が「ヨーロッパ知識人および半知識人の間で…反論できない真理として受け入れられるようになった」という分析は、間違いのない確かなものと思われる。後に述べるように、二十世紀思想の他の二つの柱であるマルクス主義とフロイト主義も、ダーウィン=ヘッケリズムにその土台を借りている。いわば「縁の下」で力を貸しているのである。
 面白いことに、これはちょうど一世紀を経た現在、ドーキンズが世界の人々を教化啓蒙しようと発信している思想とほとんど同じである。百年という時間の間、人類は何も学ばず進歩もしなかったかのようである。そして、これを熱狂的に歓迎する多くの人々(全部ではない)があるという点でも、百年前と同じである。ここにまたしても謎が浮上する。なぜ彼らは、百年前のヘッケル思想に忠実であるように、何べんも念を押さなければなければならないのだろうか? これは我々の生物教科書が、ヘッケルという権威の定めた形を逸脱してはならない事実と符合するではないか。
 しかも、宗教は反科学的な迷信だということを繰り返すのならまだ理解できる。ドーキンズはその「迷信」を退けるためなら、なりふりを構わない。あまりにも不可解なので再び引用するが、進化の切り立った崖を登るのが不可能なら、裏へ廻ってなだらかな山道を登ればいいではないか、「簡単だ!」と彼は言うのである。マリー・アントワネットは「パンが食べられないならケーキを食べたらいいじゃないの」と言ったというが(実は作り話らしい)、これはそれ以上の名言として、あるいは狂信によって理性を失った学者の狂気の好例として、歴史に残ることだろう。

ニヒリズムの源流

 ところで『ダーウィンからヒトラーへ』のリチャード・ワイカートも言うように、ヘッケル思想が、植民地争奪やホロコーストを正当化する根拠になったことは確かだが、ヘッケルが直接ヒトラーなどに進言したわけではない。しかし彼や彼の指導した「一元論連盟」の人間解釈が、いかに二十世紀の狂気じみた虚無的な諸思想の根源となっているか、いかに今日のダーウィニズム帝国主義の土台となっているかを、ガスマンの『科学的起源』から読み取ることができる。

 「一元論(連盟)」の社会ダーウィニズムの理論的土台は、ヘッケルの科学的・哲学的書き物に見出される。社会的・政治的な問題についての「一元論(連盟)」のすべての公言の根拠になっていたのは、ヘッケルの人間概念と、人間と自然との関係概念であった。人間の本性の研究は、ヘッケルの興味を独占するものであった。彼は人間存在の謎を解こうとし、自己の生物学的起源と運命への、人間の盲目的な反逆と彼の考えたものに、取りつかれていた。したがってヘッケルやその追随者たちにとって、ダーウィニズムと進化生物学の最も重要な社会的成果 は、それが人間の動物的起源と動物的本性を証明したことであった。人間とは一つの自然現象であり、人間の政治的・社会的可能性についてのすべての伝統的概念を無効にするのは、この争うことのできない事実であると彼らは主張した。古代世界の衰退以来、ヨーロッパ文明は、人間は自然界からかけ離れた掛け替えのない特殊な存在であるという錯覚と妄想のもとに活動してきた、と「一元論者」は嘆いた。・・・人間は唯一掛け替えのない動物である、文明とは動物的で原始的な過去に対する明確な勝利である、人間の霊的(精神的)価値は究極的に無限である――すべてこういったことは、ヘッケルや「一元論者」によって疑わしいものとされた価値であり想定であった。

 人間が広大な宇宙に漂う無意味な存在にすぎないという二十世紀を覆うニヒリスティックな知的雰囲気も、すでにヘッケルによってかもし出されている――

「我々の母なる地球が無限の宇宙の中で、日光の中に舞う塵にすぎないように、そのように人間自身も有機的自然という滅びゆく構造の中の、ちっぽけな原形質の一粒にすぎない」(The Riddle of the Universe『宇宙の謎』一八九九)

 この今では完全に間違いであることが証明されつつある宇宙観と人間観は、ヘッケルが漠然と提唱したものではない。確たる科学的根拠とそれに伴う堂々たる自信があってのことである。ただその根拠と自信なるものが、ほかならぬ 我々の教科書を飾る、ニセモノの胚の絵で補強された「生物発生法則」というでっち上げの法則、あるいは系統樹という空想画から来ているという恐るべき歴史的皮肉に、我々は直面 するのである。(ヘッケルのウソは、他人を騙すだけでなく自分自身をも騙すものであった。この自他たぶらかしの構造はドーキンズにもあてはまるだろう。その意味でもこの二人はダブって見える。)
 この短いヘッケルの文章にも、二十世紀のニヒリスティックな知的風土が余すところなく要約されている。例えば影響力の大きかった哲学者バートランド・ラッセル、天文学者カール・セーガン、あるいは物理学者スティーヴン・ワインバーグから、この短いヘッケルの引用文にそっくりの言葉を引用することができる。
 人はこういう思想風土はヘッケルでなく、むしろニーチェが源ではないかと言うかもしれない。しかしニーチェには鋭い人間心理の洞察はあったが、科学的根拠はなかった。科学的根拠はもっぱらダーウィン=ヘッケルから来ているのである。ダーウィニズムを科学的真理として受け入れない限りは、ニーチェの「神の死」宣言も単なる気分にとどまるだけで、科学的事実にはなりえなかったであろう。(『意味に満ちた世界』のいう)この「反人間原理」(disanthropism)の哲学は、宇宙も無意味・無目的、人間も無意味・無目的といった教説を垂れ流すことによって、今日見るような無気力から来る諸悪の根源となっていく。しかしそれに科学的根拠を与えたヘッケルにとっては、それは積極的な人種改良という使命感を伴うものであった。そしてそれは最も適者として生き残った優秀な民族としてのドイツ民族、あるいはコーカソイド(白人種)の担うべき使命であった。

人種抹殺を正当化

 「優生学」的人間操作に関する、今日から見れば身の毛のよだつような考えも、ヘッケルを中心とする当時のヨーロッパ知識層の間では普通 のことであった。不治の病や精神障害や悪性遺伝の患者に対する人道的な医療は、現実には病気を拡散するのに役立つだけだ、とヘッケルは主張した――

「こうした病気をもつ親が、医療を受けて、その病身の命をいつまでも引き延ばすほど、その不治の悪を受け継いだ子孫はますます増え、またぞろその子孫には、そうした人為的〈医療選択〉の恩恵を受けて、永久に消えない遺伝病をもつ親からそれを貰った人間が、ますます増えていくだろう。・・・我々は、どんな状況下でも、それが全く無用になっているときにさえ、生命を維持し引き延ばす必要はない。何十万という不治の病をもつ者――狂人、レプラ患者、がん患者など――が人工的に命を引き延ばされているが、それは彼ら自身にとっても社会集団にとっても、全く何の利益もないのだ」(The History of Creation『創造の歴史』一八七六)

 彼にとっては、「劣った」人種が動物に組み入れられるのは当たり前のことであった(これは二〇〇六、十月号に載せたヘッケルの絵によって明らかである)――「ゲーテやカント、ラマルク、あるいはダーウィンの理性と、最も低い野蛮人のそれとの間の差は、後者と最も〈理性的な〉哺乳動物である類人猿の理性の差よりも大きい」(『宇宙の謎』)。ここに人種差別 あるいは(場合によっては)人種抹殺が、全人類の利益と科学の名において正当化されることになる。ガスマンは次のように言う。

 したがって、人種的違いが歴史的経験の核心にあるのだから、人類を一つのものとして見るのは科学的に間違いであった。ヘッケルは、「ほとんどの人類学者が独断的に確信して、全人種のために〈人間種の一体性〉を唱え、ホモ・サピエンスとして一つの種に統合しようとしている」が、これは受け入れられないと反対した。「偏見をもたない批判的な探究者が、各人種を注意深く比較してみるなら、彼らの間の形態学的違いは、例えばいろんな種類の熊、狼、猫といった動物が動物学的に区別 される違いよりも、はるかにより重要だと確信せざるをえないだろう」と彼は言った。

ヘッケルは、イギリスが「劣等人種」(inferior races) を国際舞台に引き出そうとしていることを、白人種への裏切りとして批難し、そのリストをあげているが、これは我々として見過ごすことはできない――

「第一に黄色人種、眼の細い日本人(slit-eyed Japanese)である。次にはインドシナのモンゴル人種、隣りのマラッカやシンガポールの褐色のマレー人、また暗褐色のオーストラリア・ニグロ、オセアニアのパプア人、南アフリカのカーフィル人、それに北アフリカ植民地のセネガル・ニグロである。そして「劣った」人種の皮膚の色合いで欠けているものはないだろう」(Eternity『永遠』一九一五)

 ヘッケルから見れば、我々「眼の細い」日本人は真っ先に地球上から消えるべき人種だったようである。これは百年も前のドイツ人の言ったことではある。しかし、いかさま師である上に、ここまで言っているヘッケルが、日本の生物教科書で恭しく扱われているのは、すこぶる奇観というべきである。ヘッケルの手を通 じて科学として完成されたダーウィン進化論は、二つの面 をもっていた。一つは人間を平等に貶める思想、つまりいつかNHKテレビでやっていたように、ネズミをご先祖様として崇める思想であり、もう一つの面 は、支配する人種と支配される人種に人間を分ける理論であった。我々は支配され消えていただく側に配属されていたにもかかわらず、「列強」に伍して、ヘッケルを崇めるという珍喜劇を演じたのである。

 

『世界思想』No.386(2008年2月号)

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