NO.59



同じ構造をもつ芸術と自然の作品
 ―深く美しい有機的統一性―

異常な学問体制

 リチャード・ドーキンズの明らかに異常で偏狭な立論に対し、同じダーウィニスト仲間は何も言わないとみえる。これが自陣にとって好都合な宣伝である以上、あえて反対する理由もなく、また反対できないのであろう。するとドーキンズの発言の権威はますます高まることになる。これが現在のダーウィニズム陣営の有りようと言ってよいだろう。このパタンは、実はダーウィニズムの歴史にそもそもの初めから存在していた。ほぼ一世紀前、ダーウィニストたちはヘッケルの胚の偽造絵を偽造絵と知りながら、これが好都合であったために、あえて目をつぶり、教科書にまで掲載して権威をもたせ、これを世に浸透させてきた。近くは、同じ指導的ダーウィニストのスティーヴン・J・グールドが、これを「生物学上の殺人罪にあたる」ひどい偽造だと認識しながら、あえて見て見ぬ ふりをしていた。そして有名な教科書作者のダグラス・フツイマは、彼の専門であるはずのこの事実を、指摘されるまで「知らなかった」と言った。これが学問体制として異常でないと言う人があるだろうか?
 前号にも触れたように、ドーキンズの注目すべき奇矯な主張の一つに、この自然界は「すばらしいまがいもの」だというのがある。(この「まがいもの」は、原語はsimulacrum で「幻影」「虚像」などと訳すこともできる。)なぜ「すばらしい」のかといえば、それはドーキンズといえども、マクロ・ミクロを含めたこの自然界の絶妙に微調整された美しい合目的性を認めざるをえないからである。それがなぜ「まがいもの」なのかといえば、それらはいかにもデザインされたかのように見えるが、実はそうでなく、自然選択という盲目の物的な力が働いているにすぎないからである。つまりデザインと考えるのは錯覚、我々は自然界に騙されているにすぎないのである。たとえば、ウマもライオンもそれぞれ見事にデザインされた、非の打ち所のない動物に見えるが、これらは一つの共通 祖先から分かれて交配できなくなっただけの流動的な仮の姿であり、ウマやライオンといった種は本来ないのだから、我々がウマやライオンと言っているものは「幻影」あるいは「まがいもの」だということである。
 これは我々の常識や理性に反するが、ダーウィニズムはこれが真理だと教える。「すばらしいまがいもの」という一種の敵意を含んだ言い方に注目せよ。我々がこの言い方をするのは、例えば造花についてである。自然物について決してそうは言わない。造花は一見して本物に見えるほどよくできているが、よく目を近づけて見ると、これが「すばらしいまがいもの」だとわかる。我々はその技術の見事さに感嘆するが、同時に騙されたことにやや腹を立てる。
 ダーウィニズムはまさに、自然界をこの造花のように見よ、と言っていることになる。それは、ウマやライオンや花や蝶を含めたすべての自然界の調和や美は、見掛け倒しだから信用するな、と言っているのと同じである。自然はすばらしく見えても、潤いのないカサカサした造花と同じだというこの教説は、自然によって癒されるという我々の体験的事実とは真っ向から対立する。おそらくダーウィニストたちは、癒されると感ずること自体が錯覚で、騙されているのだとでも言うだろうが、そうなればニヒリズムも極まれりというべきで、「すべてを溶かす酸」としてのダーウィニズムの恐ろしい本質はいよいよはっきりしてくる。

不健全な自然観

 いったいなぜ我々は、こういう不健全な自然観を受け入れなければならないのか? 理屈を抜きにして、それは我々の心身を荒廃させるだけではないか。どんなに嫌だろうと、これが自然界の真理なのだから仕方がなかろう、とかつては言われた。そして我々はそんなものかと思っていた。しかし今、『意味に満ちた宇宙』(Wiker & Witt, Meaningful World: How the Arts and Sciences Reveal the Genius of Nature, 2006)の著者たちが言うように、唯物論を前提とする科学自体が唯物論を否定するような結論を出し始めているのである。この本は、ダーウィン的世界、唯物論的還元主義の世界に住むことが、いかに囚われの身として生きることであるかをわからせてくれる。いったい我々は本当に「幻影(まがいもの)」を見ているのだろうか、ひょっとしたらそうなのかもしれない、と半信半疑の人は次のような箇所を読んでみるがよい。

 還元主義者はしばしば、間違った論法を用いて、我々の日常体験の生き生きした現実は非現実的なものだと信じ込ませてきた。彼らは、詩人がめでる色彩 は単なる錯覚で、バラの赤さは、バラそのものと同じように現実ではないと考える。彼らは、もし我々が真の現実、つまり原子の現実に接近するなら、そこはバラもなく色もない世界である、というようなことを言う。狂気じみた還元によって、バラと一緒に色も奪い去るのである。しかしこれは単なる心の狭さである。もちろん個々の元素の原子に色はない。それは色が表現されるための媒体である光の波長より、原子は小さいからである。しかし元素が十分な量 の化合物の形をとれば、それはある波長を反射し他の波長を吸収するので、色がついている。苺は、その一つ一つの化学元素が赤くないから赤くないと言うのは、橋は、その一つ一つの鉄原子が車を支えられないから車を支えることはできない、と言うのと同じく馬鹿げている。

 発色の仕組みなど教えてもらわなくても知っている、と馬鹿にする唯物還元論者は、続くパラグラフを読んでみていただきたい。あなたはこのように考えてみたことはあるか?

 色は非現実などではない。それはその発色を待ちながら原子の中にひそんでいる、全く現実的な一つの潜在性である。色の発現が可能になるのは、化学元素の優美な秩序と、色を感知させる地球特有の条件のおかげであり、この条件には(すでに見たように)視力の多くの複雑な側面 だけでなく、この惑星の大気が他の致死的な放射を遮断して、可視光線のスペクトルだけを通 過させることが含まれる。同じように、化学元素の秩序があって花の美が可能になる――どの元素も花ではなく、元素が生きた植物の複雑な機能を表現することもできないのだが。赤いバラは現実の存在で、現実に赤い。そして複雑な生き物として、バラは、元素の中に深く隠れたいくつかの潜在性の表現を可能にする。
 元素はまた、別のレベルの明晰さ、すなわち周期表に現れた秩序の明晰さをもつ。化学を学ぶ若い学生がひとたび、なぜ周期表がこのように並んでいるかを理解し、そこから導かれて得られる複雑に関係する洞察の深みから、光が輝き出しているのを見たとき、彼(彼女)はあたかも、英詩人コールリッジの有名な「クーブラ・カーン」(Kubla Kahn)に出てくる快楽のドームを見つめているように感ずるだろう――「奇跡のような類いまれな建造物」、あらゆるレベルにおいて優美さに輝く世界――。これは自然の叡智が、人間原理的な作品、つまり我々を頭においているらしい作品に表現されることの、ますます増えていく証拠の一部である。…ここに我々は、いかに元素の秩序が、我々の能力に合わせて、発見へと導く飛び石を提供しているかを見る。

優美さに輝く世界

 筆者には、周期表の深さと美しさを鑑賞(理解)する能力のないことを認めなければならない。しかしここで言われていることは、自然の叡智の証としての、元素のレベルから植物動物(バラやウマ)のレベルに至る「あらゆるレベルにおいて優美さに輝く世界」であり、その構造的な美しさが人間の努力によって(能力の発達に応じて)理解でき、我々がそこに参入できるようになっていることの奇跡である。

 この自然の優美さへの信念は我々を裏切らなかった。科学者が見出したのは、均質的な物質、あるいはただ無関係に寄り集まった元素の集合ではなかった。彼らの見出したのは、原子と原子内部の高度に組織化された複雑性の世界、それ自体において優美であるのみならず、あらゆるより高いレベルの物理的エレガンスのための材料を提供する、絶妙に考案された小宇宙である。このことは存在の最も複雑なレベルにおいて、すなわち日常経験の物理的ドラマ、元素の秩序とその全潜在力が開放されるドラマにおいて、極点に達する。これは色と音と匂いと手触りの世界、優美な形と優美な働きの世界である。…
 そして美を理解すること、元素の秩序の叡智を理解することは、その秩序がいかに絶妙に、生命のドラマに調和するように考案されているかを理解することによって完成する。確かに、20世紀の最大の驚き(と、それに伴うスリル)の一つは、唯物論の還元主義を動機とする反人間原理の、冷めた、世界と人間を貶める思想にもかかわらず、宇宙は絶妙に人間原理的であること、すなわちその最も微細な点に至るまで、生命のために微調整されていることであった。

 自然界の元素から生命体に至る階層構造とその優美さ、有機的統合性、目的意識の浸透といった特徴を示す、我々の知る最も自然に近いものは何だろうか。それは芸術作品である。本書は、特に自然の叡智に最も近いものとして、シェークスピアの劇作品を、絶えず自然に対置させている。これは単に比喩として都合がいいというだけではない。自然と最高の芸術作品とは本質的に同じ構造をもっているという認識に基づくものである。シェークスピア劇も自然界と同じく階層構造をなしている。最も下位 には語(単語)のレベルがあり、これがフレーズとなり、センテンス、詩行、せりふ、場、幕というように、より大きな単位 を構成しながら、『ハムレット』や『テンペスト』のような深い生きた作品を形成するが、そのすべてのレベルが有機的に統合されていて、全体が部分を決定し、部分は全体に影響を与え、作者の意思と計算が隅々まで浸透している。だからシェークスピア劇を注意深く研究あるいは鑑賞することは、自然の研究に非常によく似た作業となる。

 叡智の作品はしばしば驚きの体験を与えるものだが、自然を学ぶ者は、シェークスピアを学ぶ者と同様、驚きを期待することができる――面 白い平行関係、二重の意味、案内の光となるモチーフ、あらゆる種類の連合、そういったものが科学者を何世代にもわたって夢中にさせるほどに、無尽蔵に潜んでいるのである。

還元不能に複雑な宇宙

  シェークスピア劇のような芸術作品との対比はまた、唯物還元主義的な自然解釈がどういうものであるかをも明らかにする。ドーキンズ流科学にとっては、『ハムレット』のような、人間の高度な感性や知性、想像力や構築力によって書かれまた読まれるような、非物質的な実体は「幻影(まがいもの)」としてしか存在しない。この幻影的存在が確実に存在するのは、その最も物質的に還元されたレベルである単語のレベルにおいてだけである。これを逆の方向から見れば、『ハムレット』のような作品の出来上がる過程は、単語の連結過程だけで十分に説明できるということになる。これはアミノ酸が偶然によって生じ、その偶然の連結によって、最終的にこの見事な世界ができたという説明と同じである。実際には、一本の美しいバラは、その背後にある何層もの驚異的な微調整や周到な準備による、驚くべき自然の叡智の生み出したものである――

 恋人が相手に贈るバラは、「最初の三分間に遡る一連の偶然」(この世界は無意味だという物理学者スティーヴン・ワインバーグの言葉)の結果 生じた物質系の一変種などではない。そうでなく、バラを可能にする複雑さの層には、銀河と多くの元素の形成を可能にした物理常数の根源的微調整、生命を可能にするミネラルを備えた我々の住む太陽系の形成、それに炭素、酸素、水、二酸化炭素、その他生命に不可欠な元素や化合物を相互作用させ、生命世界の驚くべき組織統合を可能にする(しかし原因になるのではない)宇宙的かつ局所的な微調整――といったものが含まれている。そして最後に、生きた統一体として機能するバラ自体の、そしてバラの深層と表層の美をともに鑑賞(理解)できる、動物の中で特別 の能力をもつ人間の、生化学的な形成がある。

 このような底知れぬ (しかし同時に、人間に理解できるように配慮された)自然界の芸術家的叡智という観点は、インテリジェント・デザインの立場を一歩先へ発展させたものだと言ってよい。この観点に立てば、時空的宇宙そのものが「還元不能の複雑性」をもつのであって、そういう特殊なものが宇宙の中にあるのではない。

 

『世界思想』No.383(2007年11月号)

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