NO.58



唯物論信仰という心の障害
 ―ドーキンズの『神は妄想である』を読む―

むきになって書いた本

 唯物論とは唯物一元論ということである。我々の生物教科書に大きく影を落としているあのエルンスト・ヘッケルは、一九〇六年、「一元論者連盟」(Monist League)というものを創設したが、これはある恐ろしい動機があって宗教的二元論を否定する唯物一元論者の連盟であった。これがかなりの盛況を呈したらしいから、当時、いかに政治的策動家ヘッケルの哲学がヨーロッパで必要とされたかがうかがえる。「ヘッケルが定めた一元論者連盟の基本的テーゼの一つは、利他主義と利己主義とがバランスを保つ、進化論に基礎をおく一元論的倫理を要求するものだった。その機関紙創刊号の基調論文も、この連盟の最も大きな目的の一つは、若者に対する世俗的な道徳教育を推進することだと明言していた」(『ダーウィンからヒトラーへ』の著者リチャード・ワイカート)。
 これが百年を経た今日まで尾を引いていることは否定できない。そしてその精神を最も忠実に、かつ華々しく継承しているのが、リチャード・ドーキンズという人であろう。ドーキンズの近著『神は妄想である――宗教との決別 』(垂水雄二訳)を検討してみる前に、はっきり言えることがある。それは唯物一元論という立場こそ妄想(delusion)であり、決別 すべきものだということである。それは神、仏、宗教などという前に、この現実世界に厳然として存在する物質でないもの、つまり心や生命の存在を考えてみるだけで明らかである。心や生命が単なる物質から生ずるなどというのは明らかに迷信である。百年前と今では、我々の意識や考え方がはっきり変わってきたのである。例えば一九〇六年の時点で、宇宙が時空的に有限だなどと考える人はいなかったはずである。
 我々の大多数はつい最近まで、無意識あるいは無自覚の唯物論者であった。それがインテリジェント・デザイン運動の出現によって、IDに与するか否かにかかわらず、自分の立っている足場に無自覚でいることはできなくなった。これはID主導者の功績として認められなければならない。彼らによって蒙を啓かれる以前には、「君たち素人には分かるまいが、ネオ・ダーウィニズムという高度な科学によって生命の謎は解明できるのだよ」などと科学者から言われれば、我々は黙ってしまうよりほかなかった。
 ところでドーキンズの『神は妄想である』は、その帯に「あのドーキンスがなぜここまでむきになるのか」と書かれているように、訳者も(また中を読めば)著者自身も、その主張が過激であることを認めているのがわかる。今そのこと自体は問わないことにしよう。できるだけ著者の立場に立って、その論理に寄り添って読んでいくことにするが、それでも、いくつか立ち止まって考え込まざるをえない箇所にぶつかる。その一つ――

…ダーウィンによる目的論的論証の粉砕以上に華々しいものはおそらくないだろう。それほどまでにダーウィンの進化論は思いがけないものだったのである。ダーウィンのおかげで、「私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたようにみえるものはない」というのは、もはや事実ではない。自然淘汰による進化は、ついには、途方もない複雑さと優雅さにまで登りつめる、デザイン設計と見まがうすばらしい「まがいもの」をつくりだす。

 ダーウィン進化論が「思いがけないものだった」というのは、思想史的にみれば間違いだろう。だがそれはどうでもよい。ドーキンズは、この自然界が「途方もない複雑さと優雅さ」をもつものであることを認める。しかし同時にそれは「デザインと見まがうすばらしい〈まがいもの〉」だと言う。これはあたかも、シェークスピアやモーツァルトの作品が「すばらしいまがいもの」だと言っているような、極端に不自然な言い方だが、これも問わないことにしよう。この世界にデザインもデザイナーもありえないという彼の信仰からすれば、こう表現せざるをえないのだろう。これは信仰なので争ってもしようがない。

自然淘汰が意識を高める?

 では、彼を含めて誰しも認めるこのすばらしい(すばらしく見える)自然界をつくったものは何かというと、それは「自然淘汰」だという。ではこの「自然淘汰」という不思議な作用因を、我々は間違って理解していたのだろうかと思って読み進むと、原理的にはごく単純なものだと言っているから、彼の理解も我々の通 常の理解もあまり変わらないようである。ただ彼の理解では、このものは原理的には単純だが、やることがすごい、ということのようである。それはあたかも何か神秘的な力をもつもののようだが、しかし神秘という概念は彼の辞書にはないはずなので、どう説明するのかと思っていると、「意識を高める道具としての自然淘汰」というセクションにぶつかる。「意識を高める」?――

私が若かったころ、「人類(man)の未来」といった表現に女性が侮辱されたように感じるかもしれないなどとは、思いもよらなかった。その間の何十年を通 して、私たちはみな意識を高めてきた。… 意識を高めることの効果 をフェミニズムが示してくれたので、私はその手法を、自然淘汰にも借用してみたい。自然淘汰は生命のすべてを説明するだけでなく、「組織化された複雑さが、いかなる意識的な導きもなしでどのようにして単純な発端から生じるか」を説明できるのだが、その意味では、科学の力に対する私たちの意識も高めてくれる。

 これは難しいが、「自然淘汰は生命のすべてを説明するだけでなく、〜を説明できるのだが」というのは、自然淘汰という原理は、生命の起源から、その歴史や多様性、その「デザインと見まがうすばらしさ」に至るまで、すべてを説明できる、神(「意識的な導き」)に代わる原理だということだろう。しかしここは本当は、唯物一元論を絶対とする限り、つまり目に見えぬ 作用をあくまで拒否する限り、そのように説明するより道がないのだから、従ってそのように説明できると信じなければならない、と言うべきである。そしてその信仰を固めるために、何気なく使っていたかもしれない「自然淘汰」という言葉を、思いを込めて意識的に、唯物論科学全体の信頼を高めるために使うべきだ、ということではなかろうか? 要するに「自然淘汰」は、唯物論の威力(むしろ魔力)発揚の「道具」になるべきだ、ということであろう。これは共産主義者が神を追放すれば、それに代わる人間の神(独裁者)の理不尽な権力を認めなければならなくなる事情に、似ているのではなかろうか? 
 私の解釈は間違っていないと思うが、読者はできればこの本に当たって、この前後を読んでみていただきたい(ある人がドーキンズの初期の本に感動して、「宗教的畏怖を覚えた」という話など)。もう一ヶ所だけ引用したい――

そのような意識の高揚が、生物学以外のすぐれた科学者の精神においてさえいかに必要であるかというのは、驚くべきである。フレッド・ホイルは才気あふれる物理学者であり宇宙論者であったが、彼のボーイング747をめぐる誤解[台風が飛行機の残骸に吹き付けて飛行機が出来上がる確率はゼロだと言ったこと]や、始祖鳥の化石を悪ふざけとして退けようとしたといった生物学におけるいくつかの誤りを見ると、ホイルには自然淘汰の世界に少しばかりちゃんと身をさらして、意識を高める必要があったのだと思える。知識のレベルでは、彼は自然淘汰を理解していたのだろう。しかしひょっとしたら、自然淘汰の力を本当の意味で評価できるようになるには、自然淘汰の世界に足を踏み入れ、身体を浸し、その中で泳ぐ必要があるのかもしれない。

 これは自然淘汰という魔力信仰にはまり込んでいる唯物論者でなければ言えないことである。「純粋な物力以外に生命解釈の道はありえないのだから」という絶対的前提があり、そこから異端をすべて糾弾するとすれば、こういう論理にならざるをえないだろう。しかし更に読み進んで、私がはたと行き詰ったのは次のような箇所である――

進化論に圧倒的な証拠?

 私たちは、証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり、もし、それを反証するような新しい証拠が出されれば、一晩で放棄することになるだろう。…私は原理主義的な創造論者から進化を擁護するときには十分情熱的に見えるかもしれないが、それは、私の中にそれに対抗する原理主義があるからではない。それは、進化を支持する証拠が圧倒的に強力だからであって、私は進化に異論を唱える人々がそれを理解できない…のには、激しく落胆させられる。

 ここで「進化」と言っているのは、ダーウィンの「変化を伴う血統的下降」(descent with modification)であって、生物世界全体としての進化のことではない。我々は、ダーウィン的な進化の証拠が、化石にもどこにもないので進化論者は困っているのだと考えていた。「進化を支持する証拠が圧倒的に強力だ」というのは、何を指して言うのだろうか? これはジョナサン・ウエルズらID論者や、他の反ダーウィニストたちが、いつも驚いて躓くダーウィニストたちのせりふである。もしそんな「圧倒的な証拠」があるのなら、なぜそれをもっと宣伝しないか、そして何よりも、何十年も同じ「進化のイコン」を載せ続けるのをやめて、なぜそれを教科書に載せないのか、と誰もが不思議に思うであろう。もし本当に納得できるそんな証拠があるのなら、自分の主張を「一晩で放棄する」用意があるのは、むしろID側であろう。

信仰による理性の喪失

 以下、これについて私の考えたことを述べてみる(そんなことに今頃気付いたのかと言われるかもしれないが、ウエルズ氏らも不思議がっているのは事実である)。少なくともこれは、ダーウィニストの側からは、鉄面 皮の大嘘とかハッタリといったものではないのだと私は考える。『種の起源』に説かれている生物進化のメカニズムには、誰でも知っている自然選択(淘汰)の偶然の変異への働きかけということのほかに、親子のわずかな違いが種の発端(incipient species)として種形成に導くに違いないという想定と、自然界には飛躍ということはありえない(natura non facit saltum)という信念の組み合わせがある(むしろ自然界の本質は飛躍だと言ったのはマイケル・デントンである)。だから早い話が、私のかなり異なる二人の子供は、何万年かのちには、一人は超人の先祖、もう一人はサルの先祖になっているかもしれないのである。
 だからドーキンズが明らかにそうであるように、『種の起源』を絶対の聖典とするなら、進化には「圧倒的な証拠」があると言ってもよいことになる。小進化とも言われる変種形成の実例はいくらでもあるからである。しかし変種というのは、同一種内で横並びの関係をもつにすぎないのであって、(たとえ大きさの違いが生じて交配ができなくても)新しいより複雑な種の創造(大進化)でないのは明らかである。にもかかわらず、ダーウィン進化論ではその区別 を無視するのである。だからドーキンズは、進化論を信じない者は「累積の力というものを理解していないのだ」と言い、「山の一方の側は切り立った崖になっていて登ることは不可能だが、反対側は頂上までなだらかな斜面 になっている。山頂には、眼や細菌の鞭毛モーターのような複雑な仕組みがおかれている。そのような複雑性が突発的に自分で組み立てられるという馬鹿げた考え方は、崖の麓から一回の跳躍で頂上まで飛び上がる、といった困難な行為に象徴される。それに対して進化は、山の裏側に回って、ゆるやかな斜面 を頂上まで這い登るのである。簡単だ!」(一八二‐八三頁)と言っている!
 生物学者のフランシス・コリンズは、この類いのドーキンズの言説をeye-popping(目の玉 が飛び出る)と評しているが、まさに驚きのあまり言葉を失うのである。山頂に至るなだらかな山道がどうしても見つからないから困っているというのに(そうではないのか?)、そちらへ回ればいいじゃないか、と言うのはどう考えても正常ではない。ただ一つ考えられるのは、ダーウィン信仰という信仰による理性の喪失である。
 私はドーキンズ氏を揶揄したり糾弾するために、これを書いているのではない。ただ不思議でしようがないのである。ドーキンズの支持者は世界中にかなりいると思われるが、彼らも同じことを言うのだろうか? ドーキンズから見れば、そんな批判をする私のような者こそ、狂信者・原理主義者であるらしく、それを言うためにこの本は書かれている。
 私はダーウィン=ドーキンズ同好会といったものがあってもかまわないと思う――たとえそれが国民の税金を使ったとしても。ただ、ダーウィン=ドーキンズ思想によって教科書が現実に書かれているという事態については、これを看過することができない。教科書は権威をもつのであり、間違いなく若者の精神構造を決定するからである。

 

『世界思想』No.382(2007年10月号)

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