NO.57



科学離れはなぜ起こるか
 ―若者の学問的意欲を奪う唯物論文化―

科学離れは当たり前

 今、アメリカで深刻な問題になっているのは若者の科学離れだという。「当たり前だ」――と私は言下にいう。もし、あのアイオワ州立大学で起こっているような言語道断な話が、特に例外でなく、どこでも起こりうるような雰囲気がアメリカの全大学にあるのだとしたら、純粋に自然に魅せられた若者が、大学に入ってこれを研究してみようなどという気にならないのは当たり前である。あくまで推測だが(同じ推測をするのは私だけではない)、アイオワ州立大学の予備軍はいくらでもあると思われる。学問は何であれ、その対象に対する驚異の念から始まる。そしてどうしようもなく、そのものに惹きつけられるところから始まる。惹きつけられるのは、そこに何らかの解明しなければならない神秘を感ずるからである。この最も基本的な動機を封ずるような体制、すなわち大学を中心とする唯物論文化体制の中で、どんな真剣で有能な若い科学者が育つというのか? 
 かつてアメリカの大新聞であるワシントンポストは、インテリジェント・デザインなどという邪道科学がはびこるようでは、アメリカも科学先進国の座を降りることになろう、という意味の社説を書いた。これは全く逆さまにしなければならない。ギエルモ・ゴンザレスのような優秀な(しかも現科学体制の基準から見ても優秀な)学者を追い出すような大学が存在し、これを黙って見ているような風潮があるようでは、アメリカも科学先進国の座を降りなければならなくなるだろう。
 何度も同じたとえ話で恐縮だが、「ダーウィンが来た」というすばらしいNHK番組(タイトルだけがミスネーミング)を見ていた子供が、こういう驚異と神秘の世界を研究する学者になりたいと言うと、傍からドーキンズを読みかじった母親が、「こんなことは驚異でも神秘でもないのよ。こういったことは、うまくデザインされているように見えても、それはそう見えるだけで、実は自然選択という力が働いて自然にこうなっただけなのだから、こんなことに驚いていては人に笑われますよ。自然界に神秘などというものはありません。そんなことを言ってたら科学者にはなれませんよ」と教える。
 ゴンザレスの(ジェイ・リチャーズと共著の)名著『特権的惑星』は、皆既日食を観測したときの体験がきっかけとなっている。この太陽と月の見かけの大きさが見事に一致する、そしてそのことによって、天文学者や物理学者にとって不可欠の、そこでしか得られない貴重なデータが得られるという、この幸運な事実には何か意味があるのではないか、という神秘を伴う感動がこの本の出発点となっている。それは、サブタイトルにいう「宇宙での我々の場所がいかに発見のためにデザインされているか」つまり、我々の惑星だけが宇宙で唯一の理想的な天文観測所になっていることを論証するものであり、これは偶然では起こらないのではないか、という驚きの結論に至る一連の考察である。(アイオワ州立大学はこの驚きがけしからぬ というのである。)
 この皆既日食観測には、体験した者でなければわからない不思議な感動が伴うのだという。サージ・ブルーニアという「日蝕追っかけマン」の体験記が引用してある――

十二歳のときから天文学マニアだった私にとって、長い間、(日、月)食は天体歴の中の単なる期日にすぎず、専門家として初めて皆既日食を目撃するには、三十三歳になるまで待たねばならなかった。それは一九九一年七日十一日、マウナケア火山頂上のハワイ天文台でのことであった。
 子供のとき以来、天体の出来事に遭遇するたびに、同じ驚きの念が起こり、食は単に天文学の出来事ではないという思いが、私の中で大きくなってきた。それはそれ以上の何かであった。この感じ、天体の出来事によって引き起こされるこの本物の内面 的な高揚感は、自然への敬意と一体感の混じったものであり、それは人の全組織への純粋に美的な衝撃をはるかに超えるものである。

対象との対話が必要

 これは一種の神秘体験であろうが、この人は初めて皆既日食を体験したときのことを、こう書いている――

この光景はあまりにも人を揺さぶる、霊的で、魔力的な光景であるので、誰もが涙を流すのである。それは本当は夜ではない。柔らかい薄明がマウナケア火山を浸す。尾根に沿って銀色のドームが、天を指す寺院の幻のシルエットのように、月の下にじっと立っている。月がつくる暗い穴の周囲に、半透明の絹のヴェールを掛ける太陽のコロナが、あの世的な光を放っている。それは完全な瞬間だ。

 これに対して、『特権的惑星』の著者は自らの体験から次のようにコメントする――

 日蝕を見るために海外旅行をするアマチュアの天文学者たちの話によると、反応はいつも同じであるという。現地の人たちも外国から来た天文学者も、等しく畏怖の念に打たれ、しばしば涙を流すのである。皆既日食の時と場所を、秒単位 の正確さで予言できる時代であっても、それに対する我々のこの上なく深い情緒的反応は、少しも変わることがない。ブルーニアのような現代的な天文学者でも、この最高に物理的な現象であるものを、「霊的」と呼ぶのである。皆既日食には、地球‐月‐太陽というシステムの単なる物理関係以上のものがあるのだろうか? 我々はあると考える。

 これに関連して思い出すのは、アポロ11号の月面 着陸のときの、私の記憶に鮮やかに残っているエピソードである。月の石を採取した乗組員の一人が「ある石が、自分を持っていって調べてくれ、と言っているように思えた」と語っていた。これは単なる気のせい以上の強い体験だったからこそ、彼はこれを強調し、また報道もされたのであろう。しかしこれはおそらく、皆既日食体験者の場合と同じく、本人にしかわからない強烈な感情であったために、特にこれが取り沙汰されることもなく忘れ去られた(と思う)。科学者は基本的に唯物論者だから、こういう神秘体験のようなものは無視するだろう。しかし立花隆の『宇宙からの帰還』という、宇宙飛行士たちのその後の追跡調査によると、地上に帰ってからにわかに宗教的な関心をもち始めた人が多いのだという。(精神に異常をきたした人もあったらしい。)
 唯物論文化はこういった体験を、周縁的な非本質的なものとして無視する。しかし本当に自然を愛し研究しようとする学者(体制の中で業績をあげようとする学者でない)には、何らかのこの種の体験――自分と自然界がひそかに話し合っているという感覚――が起こるであろうし、それが学問の真の動機になるものと思われる。これを神秘体験と呼ぶ必要はない。学者として当たり前のことだからである。
 これをことさら神秘体験などと呼ぶ必要はないが、自分の研究する対象が何であれ、生物であれ無生物であれ芸術作品であれ、そこに解き明かすべき神秘を認め、そのものと対話するという姿勢がなければ本当の研究はできない。これは対象を本質的に生きたものとして見るということである。唯物還元主義者は、生きものをさえ生きたものとして見ないのだから、地球や月や太陽を生きたものとして見るなどといえば、その者を異常者扱いするだろう。ということは、彼らは、本当に情熱をもって対象に接しようとする有能な人間を、研究者として認めないということである。ギエルモ・ゴンザレス氏はこうして研究者の資格を奪われた。

感動に満ちた世界

 ここで私が神秘と言っているもののことを『意味に満ちた宇宙』の著者は、自然の「叡智」(genius)と呼んでいるのである。そしてそれは、ちょうど宇宙飛行士に語りかけた月の石のように、人間によって発見されるのを待っているのである――

この[技術と理論の]一体化を勢いづけた精神の、純粋な真の性質を吟味してみるならば、それは、発見されることを待っている壮麗な秩序が自然の根底にはきっとあるという信念――自然の個々の現実の細目を辛抱強く探究しつづけていれば、きっとそれが見つかるという、きわめて科学的で人間的な信念にほかならない。

  しかもこの自然の叡智は、宇宙でたった一つの自然観察に適した場所と条件を提供してくれるのみならず、宇宙の秘密を我々の知能に合わせて、徐々に明かしてくれる――

宇宙と、その中での我々の特権的な場所は、意味に満ちたものであるというだけではない。その意味の器は絶えずあふれて、神秘と驚異の対象となる。宇宙の仕組みは、教師が生徒に対してするように、我々の能力に合わせて下りてきて、辛抱強く我々を引き上げるように考案されている。そして解読可能性の事実がこれほど広く見られるということは、宇宙が、単なる人間の知性をはるかに凌駕する一つの心によって創られたことを示すものである。・・・シェークスピアの構想の能力が、日常のレベルに下りてくることもでき、同時に、その豊かな深みを探ろうとする我々を絶えず凌駕するところに現れているように、そのように自然は、その絶妙の秩序を把握しようとする我々の試みに、おのれを合わせて下りてくると同時に、それを常に超えた所にいるということ――このことは自然界が、デザインする叡智の作品であることの証拠である。

 唯物論者は、自然界をシェークスピア作品に喩えることを、とんでもないことだと言うであろう。それは唯物論によれば、この宇宙で知性をもつ存在は人間だけだからである。しかしこの本を読めば、この二つのものの対比が、有効であるだけでなく、いかに不可欠であるかが明瞭にわかってくる。そのことからも、この宇宙がデザインされたものであり、作者を持つものであることが疑えぬ ものになってくる。唯物論者はこの世界におのれを同化させることができない。彼らにとって、心をもつ存在は人間だけであり、対象はすべてモノであるから、天文学者ブルーニアに起こったような「一体感」や「高揚感」は起こらない。これは研究者として大きなマイナスとなる。
 シェークスピア(詩や芸術)に同化する能力のない者、つまり感動という体験のない者が、シェークスピアを鋭い知性で分析する、などというのはおこの沙汰である。しかし唯物論文化の下では、それが自然研究でも文芸批評でも客観的な正しい態度とされる。(『意味に満ちた宇宙』ではこれが詳しく批判されている。)唯物論者は、対象と一体化したり感動したりするのは、客観的な分析の能力を鈍らせることになると言うであろうが、これほど真実から遠いことはない。

宗教学者も唯物論者

  いみじくも、アイオワ州立大学でゴンザレス追い出しの音頭を取ったのは、ヘクター・アヴァロスという宗教を敵視する宗教学者(!)であった。アヴァロスはおそらく、宗教を客観的に評価するには、もっぱら宗教を突き放して見なければならない、と得意になって言うであろう。こういう教授こそ、唯物論文化の産んだ大学教授の典型であり、科学イコール唯物論的還元(生命の無生物化)と思い込んでいる自然科学教授も同様である。もしかりに、アヴァロス教授が全米の大学を、更に世界の大学を牛耳ることになったとしたら、世界の若者はこぞって大学をボイコットするがよい。一度大学を干ぼしにせよ、しかるのち本当に学問を愛する者だけが一から大学を作り直せ。アヴァロスの唯物論帝国大学では、次のような事実はひた隠しにされているはずである――

二〇世紀に科学は進歩したが、それは同時に、そもそも生命が存在できる前に満たされなければならなかった条件の、多くの例を次々に明らかにした。こういった生命以前の条件に、化学という学問が成り立つための必要な様々の条件を加えるならば、我々の生存と両立する、存在しうる可能な化学は、この条件を更に劇的に厳しくすることになる。化学という学問そのものが、深く人間原理的であることがわかってきたのである。化学は、この地球のような惑星で人間の生存が可能なように、かつ、人間による発見が可能なように、法則が定められているように見える。科学者、哲学者、神学者たちはともに、こうした証拠がますます増えていくのを、どう解釈すべきかに取り組んでいる。そして再び、ギリシャの哲学者たちがテロス(telos)と呼んでいたもの、すなわち目的という観点から宇宙を考え始めている。

 

『世界思想』No.381(2007年9月号)

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