NO.54



何が人を腐らせ、何が蘇らせるか(1)
 ―世直しの視点をどこに置くか―


『進化のイコン』

 この稿が印刷される頃に前後してジョナサン・ウエルズのIcons of Evolutionの日本語版『進化のイコン――破綻する進化論教育』(創造デザイン学会訳、コスモトゥワン社)が遅ればせながら出る予定なので、監訳者の私がその「解説」に書ききれなかったことを少し述べておきたい。
 アメリカでは七年前のこの本が、いまだに激しい抵抗に遭っているようで、ここに書いたことを少しも変える必要がないと著者は「日本語版への序」で言っているから、わが国でも同じようなことが起こるのではないかと懸念される。アメリカのようなえげつない人身攻撃が起こるかどうかはともかく、わが国のダーウィニストも黙ってはおれないはずだから――無視すればそれだけ日本は遅れる――何らかの反応はあるはずである。あまり考えたくないが、万が一、共訳者の身によからぬ ことが及ぶことを考えて、私以外は名を伏せてある。
 この本については何度も書いたのでここでは解説しないが、問題は、生物教科書の進化を説明するための絵(イコン)がすべて不適当だから、取り替えるとか取り下げるべきだという話ではないということである。そういうふうに解釈したアメリカの教科書の一部は、いくつかのイコンを引っ込め始めたらしいが、そんなことをしても何にもならない。ダーウィニズム体制(文化)そのものが腐っているのだから、表面 を繕っても哀れなだけである。たとえて言えば、歯茎全体が腐って総入れ歯にしなければならない時に、一本や二本の差し歯でごまかしてもしようがないということである。それが一番よくわかっているのは、実はダーウィニストのはずである。
 しかもこれは単に教科書問題として済むような問題ではない。この比喩を延長して言えば、歯茎が腐るのは身体全体が不健康だからである。だから本当は総入れ歯にしても解決にはならないので、体質改善をしなければならないのである。私の言う意味は、この連載を読んでくださっている方々にはわかるはずだが、これは唯物論文化という文化そのものの体質改善という意味である。逆に言えば、ダーウィニズムは体質として我々の体の中に染み込んでいるから強いのである。フィリップ・ジョンソンはこれを不沈軍艦に、デイヴィド・ベルリンスキーは「巨大な白象」(憎い臣下を困らすための王からの贈り物)にたとえた。だからこれだけウソを暴かれ詭弁を指摘されても、この体制は容易に沈まないのである。
 しかしダーウィニズム体制とは、何度も言ってきたように、どこから見ても明らかに犯罪体制である。この言い方が決して過激でも誇張でもないことが、ここ数年の間にはっきりしてきた。これを聞いて腹を立てる人は、誰でもない自分自身が被害者であることを考えなければならない。特に、これを信じなければ欧米人に後れを取ると考えてきた、明治以来のお人よしの日本人は、被害者の最たるものである。
 今アメリカで、ダーウィニストたちがインテリジェント・デザインを怖れて、高校での学問の自由の法制化に反対するということが起こっている。これを批判して、ジョー・レニック(Joe Renick "The Albuquerque Tribune" March 28, 2007))は新聞紙上でこう言っている――

しかし実を言えば、ダーウィニストが本当に怖れるべきものは、学問の自由の法制化でも、科学資料の理科教師への配布でもない。今日、ダーウィニズムという独断的教説にとっての最大の脅威は、科学そのものである。

政治的な陰謀

 ダーウィニズムが一種の政治的な陰謀であり、その陰謀は多くの人々にとって、暴かない方が都合がよかったので今日まで続いてきた、と私は前に論じたが、同じことをレニックは次のように言っている――

 今日、科学と宗教の闘いと称するものは、唯物論思想を援助するための政治的策動として、十九世紀に作り出された神話として存在している。その神話が二十世紀を通 じて維持されてきて、広く真理とみなされるようになったのである。
 この策略の成功は、ダーウィンの番犬と言われるトマス・ハックスレーに負うところが大きい。彼はダーウィン理論に科学的価値はあまり認めなかったが、キリスト教に取って代わる新しい世俗宗教の基礎を提供するものとして、この理論に極めて大きな価値を見出した。彼は十九世紀末のもろもろの要請に応ずるには、キリスト教は無力であると考えた。そして彼は公立学校こそ、この新しい宗教を広めるための手段であると考えた。

 トマス・ハックスレーに、もう一人の番犬、エルンスト・ヘッケルを本当は加えるべきだが、ここで言う「十九世紀末のもろもろの要請」とは、ヒトラーやスターリンや、価値相対主義、ニヒリズムといった、科学の名において「道徳を逆立ちさせた」(リチャード・ワイカート)二十世紀の諸悪を生み出すことになった要請である。その理論的根拠として利用されたのがダーウィン進化論で、ダーウィニズム帝国がこれほど堅固なのは、それが「新しい宗教」として学校教育に入り込んだからである。
 ところで、『進化のイコン』には特に書かれていないことだが、ほとんどの生物教科書には、(「ミラー‐ユーリーの実験」の先駆としての)「オパーリン‐ホールデン仮説」のオパーリンのことが、あたかも純粋に中立的な科学者であるかのように書かれている。しかし彼が決してそういう学者でなかったことが、前々回から紹介中の『意味に満ちた宇宙』に書かれているので、引用しておきたい。
 まずノーベル賞受賞者のクリスチャン・ド・デューヴ(Christian de Duve)の言葉が引用されている。彼はオパーリンもホールデンも「確信的なマルクス主義者」で「弁証法的唯物論の戦闘的擁護者」であったと言い、こう述べている――

地球の進化の中で、生命が自然現象で生じたと説明したかった彼ら[オパーリンとホールデン]に、イデオロギーがどの程度まで関係していたかを、人は知りたいと思うだろう。オパーリンにそれが強く働いていたのは、彼の本が哲学者エンゲルスへの言及に満ちていることから確実である。彼は党によってこの問題に取り組まされていたという噂さえある。

この本の著者はこれに対してこう言っている――

オパーリンはそんな党からの要請など必要としなかった。彼は、マルクスの知的盟友エンゲルスが『自然弁証法』の中で、生きた細胞が、生命をもたぬ 化学物質から生まれるのは必然的だと言った予言の正しさを確信していた。… オパーリンは今や有名になった著書『生命の起源』(一九三八)で、マルクスの弁証法的唯物論の哲学的骨格に、化学の肉をつけるのが自分の仕事だと言っている。面 白いことに、生命の起源に関する哲学的・科学的考察の歴史についての、オパーリンの説明は、科学者ではなく哲学者エンゲルスを論ずることで終わっている。これはオパーリンが唯物論一般 、特にマルクシズムに知的に依拠していたことを示すものである――「首尾一貫した唯物論哲学は、生命の問題を解決するのに、一つの道筋しかないことをエンゲルスは示している。生命は自然に生じたのでも、永遠の昔から存在していたのでもない。それは物質の長い進化の結果 として現れたものに違いない。」

  早く言えば、オパーリンとエンゲルスは一心同体ということだが、この通 りの考え方を、今も生物教科書は「化学進化」とか「無生物起源」(abiogenesis ハックスレーの造語)といった言葉を使って、あたかも現実であるかのように教えているのである。

人を腐らせる唯物論

  ところで、ウエルズに対してでも、私に対してでも、こんなことを暴いて何が面 白いのだ、とりわけ代案というものがないのなら、そんなことを言ってもしようがないではないか、と言う人があるかもしれない。はっきり言って私は面 白くて、暴露趣味でこんなことをやっているのではない。こんな気の滅入る話はしたくない。ウエルズにしても同じはずである。それに、教科書を執筆しておられる真面 目な先生方を責めているように取られては困る(そんな小さなことを言っているのではない)。ただ唯物論という狭い部屋に閉じ込められていることが、気の滅入ることだと言いたいのである。先月号に紹介したG ・K・チェスタートンの言葉にあったように、唯物論者に対しては、そんな狭い部屋に閉じこもっていないで、外に出て空気を吸ってみよ、と言うべきなのである。「唯物論の狭い部屋イコール科学」などという時代ではない、と言うべきなのである。
 唯物論は人を腐らせる。知・情・意ともに腐らせる。気分を腐らせるだけでなく、道徳的に腐敗させる。学問は自由を奪われて停滞し、学問に対する意欲(自然界に対する愛)も湧かず、自分とは何かという判断を誤らせ、生きることの意味も否定される。唯物論者で、「そうではない、唯物論には明るい未来がある」と言う人がいたら、手をあげてほしい。

『意味に満ちた宇宙』

 ではどうすればいいのか? どこに出口があるのか? それに対する一つの示唆を提供するのが『意味に満ちた宇宙』である。簡単に言えば、ここに示されている観点とは、自然に対する愛、自分より偉大なものに対する敬意、あこがれ、神秘の感覚を取り戻せ、ということである。その観点から、シェークスピア(芸術)もユークリッド(数学)も元素の周期表も、もちろん生命も、一つの生きてつながったものとして捉えられる。この観点は単なる知の有機的統一の観点ではない。世直しの観点でもある。岩波文庫の巻末などに、世界の名著百選などといって、旧約聖書から『資本論』にいたる雑多な本があげてあるが、これをどんな視点から読めというのか? 統一的視点を示さない(示せない)のが唯物論文化の特徴である。
 特に私が感嘆するのは、この本の示す現実感覚のバランスである。これは視点がしっかりしていることによって可能になる。数学の形の美が、自然界の秩序を解き明かす(ことのある)不思議について述べながら、著者はこんなふうに論ずる。

 …いずれの場合も、形式美を求める数学者の欲求に応じて、それ自体のために開発された純粋に数学的なシステムの適用範囲が、ただ偶然それらが自然界に似ていたというだけでは説明できないほど、遠くにまで及んだのであって、結局、数学の美が真理の発見につながったのである。数学の式や図形が、それらの創案者が考えてもみなかった意味を持つことがわかったのである。あるいはウィグナーの言葉でいえば、「我々は方程式から、そこに入れなかった何ものかを取り出した」のである。

 しかしこう言った後で、著者はこう念を押す――

 急いで付け加えるが、このことは、すべての美的に満足を与える形式的な数学システムが、物理学者や化学者の役に立つという意味でもなく、経験科学でうまく使えそうな数学が、すべて将来のテストを待っているという意味でもない。ウィグナーが指摘するように、「すべての数学的概念の、ごくわずかな部分のみが物理学で使われる。」そして、化学や物理学や天文学の歴史をざっと読んだだけでも明らかなように、適用がうまくいった場合も、経験的データの方が言うことを聞かないために、結局は覆されることがしばしばある。実を言えば、以前には説明力のあった数式に、データが合わなくなったときこそ、物理学者は更に強力な数学的システムを求めて前進するのである。だから、確かに現実は数学の規律(訓練)と密接な関係にあるが、数学の神秘的な有効性を決定するのは現実の方であって、その逆ではない。

 数学者には霊的次元の存在を信ずる人が比較的多いようである。しかし、数学で表現できないようなものは学問の対象でなく、考えるにも値しないものだと言ったとしたら、その人はダーウィニスト――虚構の公式万能主義者――の仲間入りをすることになる。

 もし我々が数学を実体化するとしたら、やがて我々は、法則の形で表現された数学的関係を、あたかもそれが神の因果 力をもっているかのように扱うという、過ちに陥ることになる。これは微妙だが馬鹿げた偶像崇拝である。不幸なことに、現代的精神はあまりにも容易くこの偶像崇拝に屈し、奇妙な数理的自己韜晦に陥る傾向をもっているのである。

 

『世界思想』No.378(2007年6月号)

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