NO.51



調和する統一思想とデザイン理論(3)
 ―生き物はより大きな生命の分身である―

最初の生命は偶然?

  前号に述べたことをおさらいしておきたい。
 最初の生命体がどのようにして生まれたかということを説明するのに、唯物生命論者や彼らの手になる我々の生物教科書はこう教える――生命は生命からしか生まれないという原則は認めなければならないが、最初の生物だけはほとんどあり得ないような幸運によって、物質がうまく組み合わさって偶然できたものだ。そこさえうまくいけばしめたもので、あとの進化は機械的にすべて説明できる。
 生徒「先生、そういう考え方しかできないのでしょうか。ほかに考え方はありえないのでしょうか」
 先生「ほかの考え方をするのは自由だが、その場合、科学者としては認めてもらえないよ。宗教に頭を切り替えて別 次元で考えることだね」
 生徒「それはおかしいのではないでしょうか。科学とか宗教とか言う前に真理を求めるべきで、真理は一つではないでしょうか。僕はそういう自己分裂のない学問があるべきだと思いますが」
 先生「とにかく科学は客観だが、宗教は主観だ。君のようなことを言っていたのでは科学者にはなれないと肝に銘じておきなさい」
 しかしこの先生の上記の説明は、明らかに通常の理性に反するものである。しかも、いかに理性に反する説明であろうと、これが科学の枠を守る真正の科学的考え方だと言われたら、なおさら我々は納得できなくなる。
 まず確率的にそれがありえないことはもちろんだが、これは確率だけの話ではない。そういう幸運な偶然がかりに起こったとしても、それは生命の形骸ができただけであって、生命が生まれたのではない。サルがタイプライターで俳句を叩き出すことは(シェークスピア作品よりは)簡単かもしれないが、これを俳句とは言わない。なぜなら俳句――芸術作品一般 ――は巧拙に関係なく、それが生きた作者の分身であることによって俳句となる、すなわち生命を得るのである。サルの叩き出した俳句は、かりにそれがうまくできていようと、生きてはいない。
 唯物論者は、自然物である生命体と人工物である俳句を一緒にするのはおかしいというかもしれないが、しかしそれなら、俳句には生命を認めるが、生命体には生命を認めないのか?――というおかしな議論になってしまう。生きているものは何によらず、より大きな生命から出たものであることによって、すなわちその分身であることによって生きているのである。ただ、もし生きているものを、そこに関わるデザインという観点から見るとすれば、一個の細胞に注がれるデザインのエネルギーと知力は、一片の俳句に注がれるそれとは、とうてい比較にはならないだろう。
 『盲目の時計職人』のドーキンズなどは堂々と、生命体に生命は認められないと言っていることになる。時計職人とはまず目的と構想を立てて、その通 りに機能する時計を作る人のことだから、「ブラインド・ウォッチメーカー」とは、デザインしないデザイナー、目的を持たぬ 目的実現者ということである。自然界についてそういう見方ができないか試しにやってみよう、というのなら分かるが、それが生命世界の本質である、それが分からないやつは馬鹿だ、などと言うからこちらも喧嘩腰にならざるをえないのである。彼のもっぱらコンピューター・シミュレーションを使った自然界の「盲目」性の証明は、実はあらかじめ目標をコンピューターに記憶させておくもので、かえってこれはデザイン理論の証明になるものだと、多くの批判者が指摘している。

全体知としての科学を

 しかしあえて彼の立場に立つとして、デザインされたものをデザインされたものでないかのように見る見方は、立派に可能である。たとえば「モナ・リザ」を制作中のダヴィンチを観察する科学者が、これを絵具の成分、画筆の動き、そこに働くダヴィンチの筋力といった物理的観点から記述しようとして、非の打ち所のない論文を書くことはできる。レフェリーもデータの偽りがない以上は、これを採用せざるをえないだろう。そこまではよい。しかしやがてこれが、作者の天才とか構想とか動機や意欲といった得体の知れないものを考慮しない、厳密に科学的なすぐれた論文だということになり、ついにはモナ・リザ誕生の秘密は、作者やデザインなど考慮することなしに、完全に物理的に説明できると宣伝するようになる。これほど馬鹿げた話はないが、これが唯物論者の生命科学の方法である。
 現実にはモナ・リザはダヴィンチの分身である。だからこそ、それは生き物であり、彼はこの作品を生涯手放そうとしなかったのである。それはまさに分身(生命的連続体)であって、単なる傑作とか力作とかいうものではない。我々人間も、ちょうどそのように神の最後の渾身の作品として、間違いなく神の分身である。だから我々が傷つけば神も傷つく。我々が悲しめば神も悲しむのである。そんな風に言えば、たちどころに唯物論科学者は嘲笑するであろう。しかしそれは根拠あっての嘲笑でなく、そんな風に考えることを軽蔑するように教え込まれているからにすぎない。ここは一つ、付和雷同して笑う前に、よく考えてみて欲しい。
 何よりまず、一つの全体知の中に組み込まれた科学でなければ、生きた本物の科学とは言えまい。全体知とは特別 のものではない。我々の通常の理性、人間はかくあるべきだという通 常の倫理感覚、知は分裂すべきものではないという通 常の常識、そういったものの調和した総体である。生命に対する畏敬の念といったものが、科学的には間違いであると教えなければならないような科学は、どう考えても本当の科学ではない。生命を捉えようというのに、有機的(生命的)全体を考えてはいけないなどと教える科学は、どう考えても健全な科学ではない。
 ここでもう一度、あのNHKの「分解時計の箱振り」理論を考えてみていただきたい。これも「サルのタイプライター」と同じで、何重ものゴマカシによる説明である。まず箱の中に入っているのは、完全に組み立て可能なデザインされた部品であるから、ここですでに、ドーキンズの目標を記憶させたコンピューターと同じく、最初からデザインが組み込まれている。これらの部品は、その一つ一つがほんのわずかにサイズが違っても、形が違っても、性能が違っても時計は機能しないのだから、この部品造りに注ぎ込まれたデザインの量 (そういうものを仮定して)は莫大なものである。ここですでに、生命体の自然発生説にこんな比喩は使えないことが分かる。にもかかわらず、講師はそれを無視して、何億年か箱を振り続けてうまく組み合わさりさえすればよいかのように言う。そんな確率は事実上ゼロであるが、かりにそんな幸運が起こったとしても、目的なしにできたものがどうして働くのか? 時報に合わせて時計を始動させなければならないが、誰がそれをするのか?

宇宙は一つの有機体

 唯物論科学者は、この宇宙を本質的に死んだものとして捉えている。しかしこの時空的宇宙を一つの有機体として捉えることを可能ならしめるようなデータは、次々に出ているではないか。我々の住むこの時空的(空間だけでない)宇宙のどこを切っても血が出るという比喩は、十分に有効ではないか。とすれば、その中で起こる生命創造という考え方は、むしろ必然ではないのか。創造とは、ダーウィニストが考えるように、神様が天からこの不毛の地へ降りてきて生物を造って、また天へ帰っていくという話ではない。彼らがそんなことを言って創造論者をからかったつもりになっているのは、宇宙そのものが一つの生命(あるいは生命の場)であるという宇宙の本質を理解していないからである。
 これは宗教の話でなく科学の話である。例えばマイケル・デントンの『自然の運命』(Nature's Destiny, 1998)の次のような一節を読んでいただきたい。

 ここから現れてくる自然の像は、明らかに自然の目的論的見方と調和するものである。細胞がある特定の生物学的な役割のために利用する一つ一つの構成部品、時計の中の一つ一つの歯車が、その役割のための唯一の、かつこれ以上ありえない適材であるという事実は、強くデザインを示唆するものである。…部品がある一つの目的のために特別 に作られているのは、デザインの紛れもないしるしである。…生命体を可能にする構成部品そのもののデザインは、カール・パンティンが何年か前に指摘したような、自然選択の結果 ではありえない。生命の構成要素間の、多くの生死にかかわる相互適応性は、そもそも生命が存在する前から、そして自然選択が作用し始めることのできるずっと前から、物理学的に与えられていたのである。(強調渡辺)

 ここで言っている「生命体を可能にする構成部品」は、統一思想で言われる(性相に対する)形状(物質、質料)に相当する。デントンが指摘するのは、デザインされているのは細胞や生物種だけでなく、それらを構成する部品そのものが生命の出現するずっと前からデザインされていたということである。言い換えれば、最初の細胞や生物種はたまたまそこにあった、構想とは無関係の物的材料をうまく利用したのではないということ、材料そのものが性相(構想)に合わせて厳密に作られていたということである。
 もし唯物論者が考えるように、「形状」すなわち物的材料が単独でうまく組み合わさって生物になるというような、不気味な怪奇小説のようなシナリオを押し通 そうとすれば、生命起源の説明は、すでに見たように、無理に無理を重ね、ゴマカシや詭弁に頼らなければ不可能である。
 あるいは唯物論者ではなくても、アリストテレス以来の伝統的な西洋の二元論がそうであるように、形相(構想、青写 真)と質料(構想を実現する材料)を想定しても、その二つが無関係であったり対立するようでは、生命起源の謎を解くのはきわめて難しい。デカルトの二元論がそうであって、デカルトは神を想定はしたが、彼の考えた心(思惟するもの)とモノ(延長されるもの)という二元が互いに無縁であったために説明がうまくいかず、ついにモノは心を離縁して「お前は要らない、おれ一人で子供を産んでみせる」と言い出したのである。これが我々が現在、生物教科書で教わる唯物論的怪奇物語にまでつながっているのである。

I Dを補完する統一思想

 しかし今、我々はようやく生命起源の謎を解く糸口だけはつかみかかっている。それは今のところ原理的解明であって、CGなどを使って視覚化して示すことはできないであろう。しかし考え方の最も合理的な道筋だけは把握したと言ってよいのである。それはID理論と統一思想が相互補強的に協力し合うことによって可能となった。IDだけでも理論的に不十分である。統一思想だけでも、現実の観察データがないために不十分である。この両方が照らしあうことが必要なのである。
 統一思想は深いけれども単純である。この宇宙そのもの、また宇宙を構成するすべては性相と形状という二面 性によって成り立っており、この二面は宇宙の根源においては、区別 はありながら一体として存在している。それが被造世界において、目に見えない側面 (性相、すなわち構想、目的、創造力など)と目に見える側面 (形状、すなわち潜在するものを顕在化する手段)という二つの表現態に分立したと見るのである。だからこの二つは別 々のものといっても本来的に一つであり、従って、性相の中にも形状の要素があり、形状の中にも性相の要素がある。
 「生命の構成要素間の多くの生死にかかわる相互適応性は、そもそも生物が存在する前から、物理的に与えられていた」という科学者の観察は、この統一思想の仮説が正しいことを証明している。従って、最初の生命体(細胞)や各生物種が、初めから完成された形で現れた(カンブリア爆発が顕著に示すように)という化石記録上の観察事実は、少なくとも原理的には納得できるのである。
 我々はテレビ受像機やラジオを持っているが、この目に見えない電波を顕在化する手段は、電波の発信側と相談もなしに勝手に作ったものではない。もしそうなら何も映らず聞こえもしない。それらは電波の同調とか共鳴といったことが可能なように、また映像化も瞬時に起こるように作られていて、画像や音声は電波が合ったときに突如として現れる。徐々にということはない。まあこういったことが、完成された生物の突如とした出現の、少なくとも比喩的な説明にはなりうるのではなかろうか。
 この仮説に従えば、我々の心と体は、一つの根源者の分身として、本来、調和すべきものとして与えられていることが分かる。かつてローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が、我々の体は進化論に従うかもしれないが心は神から来たものだ、と言ったことがある。これは明らかに、性相と形状が「異質的」な、伝統的西洋哲学から出た見方である。この哲学からは、肉体を軽蔑する精神(霊)至上主義、あるいはそれへの反逆としての、肉体至上主義(唯物論)しか出てこないのである。

『世界思想』No.376(2007年3月号)

人間原理の探求INDES前の論文次の論文


創造デザイン学会