NO.41(2006年5月)


子供の魂の奪い合い
―無神論者の祈り、リチャード・ドーキンズ―

渡辺 久義

わが娘のための祈り

 リチャード・ドーキンズという人はどれくらいの影響力や支持者をもつのであろうか。現在の彼の肩書きがオックスフォードの、生物学でも遺伝学でもなく、「科学の一般 理解」教授ということになっているから、科学のいわゆるPR(一般 への宣伝)という点で重責を担っていることになる。『悪魔の牧師』(A Devil's Chaplain, 2003)を読んでみると、インテリジェント・デザイン運動が盛んになってきたとき、彼はアメリカの(故人となった)スティーヴン・J・グールドに、「こういうものにはかかわらないことを二人で約束しましょう、我々が相手にするとその存在を認めることになるから」という意味の手紙を書き送り、「我々が範を示せば世界のダーウィニストはみな従うでしょう」と言っているから、彼が少なくともダーウィニズム陣営の双璧の一方を自認していたことはわかる。
 彼の考えは初期の『盲目の時計職人』以来、変わっていないようだと前号で述べたが、この新しい本で特に私の注意を引くのは、最終節の「わが娘のための祈り」と題する文章である。編者もこれが全編の要約だと言っているように、これはドーキンズのエッセンスであろう。なぜならこれは彼自身の当時十歳の娘にあてた手紙であり、この人のいつわらぬ 真摯な心情の吐露であるはずだからである。
 私がこれに注目するもう一つ別の理由がある。「わが娘のための祈り」(A Prayer for my Daughter)とは、アイルランドの詩人W・B・イェイツ(一八六五−一九三九)の有名な詩のタイトルである。かつて『イェイツ』という本を書いた私は、特にこの詩に惹かれてこの一篇に一番多くのページを費やしている。
 これはひと言でいえば、心の豊かさをうたった詩である。嵐の中で眠りつづける生まれたばかりの自分の娘の傍らで、どんなに恐ろしい時代がやってこようとも、豊かな礼儀ある伝統に根を下ろした豊かな家庭の、心豊かな女性に育ってほしいと願う詩である。
 戦闘的無神論者と言われるドーキンズ氏がこの詩をタイトルに用い、同じように「わが娘」のために心から祈るのだとしたら、何を祈るのだろうという興味がまず湧く。氏がこの詩をどう読んでいるのか分からないが、少なくとも我が子がかくあってほしいと願うとしたら、人は誰でも(たとえ貧しくとも)心の豊かな人間になってほしいというのが普通 であろう。そしてその心の豊かさは、愛情豊かな家庭と、豊かな――つまりごく自然な形で受け継がれている、帰属すべき根としての――伝統と宗教なしには考えられないであろう。イェイツの願うのもそれである。

伝統、権威、啓示を警戒

 ドーキンズ氏はどう祈るのか。彼がこの手紙の中で、娘に対してくれぐれも警戒するようにと忠告しているものが三つある。すなわち「伝統」「権威」「啓示」である。そしてその理由は、これらがいずれも「証拠」なしに押し付けられるものだからである。
彼はこんなふうに娘に語る――

まず伝統だ。数ヶ月前、私はテレビに出て五十人ほどの子供たちと討論をした。この子供たちが招かれたのは、多くの異なった宗教の中で育てられたからだった。ある子供はキリスト教徒、またある子供はユダヤ教、イスラム教、あるいはヒンドゥー教、シーク教の信徒として育てられた。マイクをもった男の人が次々に、子供たちに信じているものを尋ねて歩いた。彼らの言っていたことが、まさに私が「伝統」と言っているものを明らかにしている。彼らの信仰は、証拠とは何のつながりもないことが分かったのだ。彼らはただ両親や祖父母の信仰を得意げにしゃべるだけで、その両親たちの信仰もまた証拠に基づいたものではないのだ。… もちろん彼らはみんな違ったことを信じていたのだから、みんなが正しいはずはない。マイクをもった人は、これでいいのだと思っているようで、その違いをお互いに議論させてわからせようとさえしなかった。

 それぞれの子供が、それぞれの家庭の昔からの信仰の空気を吸い、家族の一体感の中で、目に見えぬ 大きなものに包まれて育っている。これは望ましいことではないのか。(「マイクをもった人」が何も言わず、おそらくニコニコしていたのはそのためだろう。)「証拠に基づいていない」とか「みんな違ったことを信じているのだから、みんなが正しいはずはない」などというのは、子供に言うべきことだろうか。見かけや表現は違っても宗教はみな根本では同じなのだと、なぜそこで子供に言わないのか。
 もちろん無神論者のドーキンズ氏にしてみれば、異なっていようが同じだろうが宗教そのものが幻影であり、幻影を信じてはいけないということであろう。しかしこれは我が子のための「祈り」であり、我が子の健全な成長を願うはずの手紙である。宗派間の衝突を繰り返している邪悪な大人に向けたものではない。宗教というより先に、それは家族の絆であり、家族の心の拠り所である。ドーキンズ氏は、こういう家庭からは心がいびつで争いを好む子供が育ち、社会の悪の原因になると言いたいのだろうか。ダーウィニズム陣営と我々の争いは、どうやら子供の魂の奪い合いということに帰着するようである。
 イェイツの「わが娘のための祈り」でおそらく最も人を感動させるのは、「この子自身のやさしい意思が天の意思でありますように」(And that its own sweet will is Heaven's will)という祈りの一行である。己の欲するところに従って天の道にはずれない、というのは人の究極の願いであろう。ところがこれとは対照的に、ドーキンズの数え上げる「いかなる確かな証拠にも基づかない」迷信の中には、「マリアが死ななかったこと」や「イエスが人間の父をもたないこと」とともに「天への信仰」(belief in Heaven)が挙げられている。
 この「天」とはおそらく宗教でさえない。人が例外なくもっている人間を超えたものの意識あるいは本能である。これをさえ迷信として退けるのは人間を否定することである。こういったことを本当に心から、豊かな心をもつことを願って(であろう)、十歳の自分の娘に説いて聞かせるというのはどういう親であろうか。しかも、こういう教育が多くの人から喝采を受け、広く支持されるとすれば、恐ろしいことではないか。

倫理は幻影にすぎない

  恐ろしいのは、ドーキンズひとりが、過激派ダーウィニストであるために、こんな非常識なことを言っているのではないということである。ミネソタ大学のダーウィン生物学者P・Z・マイヤーズ(Myers)は、「もしタイムマシーンに乗って過去へ遡り、誰か一人を殺すことができるとしたら、私はヒトラーなどを殺すつもりはない、アブラハムを殺す」と言った。ドーキンズに劣らぬ 宗教そのもの――「天」――に対する憎悪である。
 ダーウィニズムはまた、必然的に倫理道徳を幻影として否定しなければならない。高名なダーウィニストであるマイケル・ルース(Ruse)とE・O・ウィルソンは、共著の論文「倫理の進化」の中で包み隠すことなくこう言っている。

 進化論者として我々は、伝統的な、いかなる倫理の正当化も不可能だと考える。道徳、あるいはもっと正確には、我々の道徳信仰は、我々の子孫を増やす目的のために生じた適応にすぎない。従って倫理の基礎は神の意志にあるのではない。… ある重要な意味において、我々が理解している倫理とは、我々が相互協力するように遺伝子によって騙され押し付けられた幻影にすぎない。それは何ら外在する根拠をもたない。マクベスの短剣のように、それは実体として存在することなしに、強力な目的に仕えている。倫理とは、それが客観的な指示対象をもっているかのように思わせる限りにおいて、一つの幻影なのである。

 ダーウィン進化論の代表的な指導的学者として認められている、これらの人々のこうした文章を読むと、ドーキンズが必ずしも特に過激なのではないということが分かる。ここにはあの「利己的遺伝子」という奇矯な考え方への信仰さえ見られるではないか。我々――少なくとも私――の見方からすると、こうした人々の唯物論的にしか働かない頭脳(IQはきわめて高いであろう)には、何か病理学的な欠陥があるとしか思えないのである。にもかかわらず、こうした人々の頭脳から出た思想が、圧倒的に我々の文化の体制を決定しているという事実は、事実として存在する。
 ドーキンズの「わが娘」への手紙に戻る。この手紙で終始一貫して強調されているのは、「証拠」や「根拠」のないものは決して信ずるな、ということである。ここでまた読者は頭を抱えてしまう。いったいダーウィン進化論が何故に、今これほど問題になってきたかと言えば、それは証拠がないからではないか。はっきりとした証拠がいつまでたっても出てこないからこそ、IDのような対案が出てきたのではないのか。
 これは何も専門家でなくとも、我々の生物の教科書を見ればわかることである。なぜ、ダーウィン・フィンチのくちばしの大きさに変動が生じたり、オオシモフリエダシャクの羽が黒くなったり白くなったりするのを、「進化を示す例」などと言って、百年一日のごとく教科書に載せつづけなければならないか。そもそもこんなことは「進化」ではない。しかも生物教科書の進化の章は、この二つを含めて、あきれるようなウソやゴマカシで固められている。疑う人は「創造デザイン学会」ホームページ(www.dcsociety.org)の、ジョナサン・ウエルズによる「不適者生存」(原題Survival of the Fakest)という記事をご覧になればよい。
 この本『悪魔の牧師』でいえば、「カモメの環」(Herring Gull/Lesser Black-backed Gull ring)としてドーキンズが例示するのが、そういったゴマカシの例である。ドーンキンズの講演会で、あるとき出席者から質問が出た――「あなたは少しずつ生物は進化すると言うけれども、いったい親から生まれた子があまりにも親からかけ離れたために、その種の中で交配できないようになる、などということがあるのか?」ドーキンズがこの質問者の蒙を啓くべく答えたのがこの「カモメの環」である――生息地を少しずつずらして何種類ものカモメが生息しているが、その隣同士は差が小さいので、交配が可能である、しかし距離が大きくなるにつれて難しくなり、最初と最後のカモメ同士は別 種のようにまったく交配不可能となる――。
 しかしこれは同じカモメの変種が並んでいるのであって、カモメがワシやクジャクになったり、まして哺乳動物になったりするのではない。犬の育種でも同じことであって、猫のように小さい犬から熊のように大きな犬まで作られているが、犬は犬であって犬が猫になったり熊になったりするわけではない。これらは変種(同一種の横の関係)であって進化(新しい種の創造)ではない。ドーキンズの説明は明らかにゴマカシである。

根拠のない信仰批判

 最後に、しかし最大のものとして、ドーキンズに全く見えていない大きな見落としを指摘しなければならない。彼がこの本全体を貫いて最も激しく攻撃するのは、「根拠のない宗教信仰」である。しかし、宗教、すなわち超越的次元を想定することに根拠がないというのであれば、超越的次元の否定にも根拠がないのである。ダーウィニズムという生命の研究方法が前提としているのは、この自然界が自己完結する閉鎖系だと信ずる立派な信仰である。この信仰には全く根拠がない。逆にIDのような研究方法は、この自然界が自己完結しない開放系と考えた方が合理的だとする。これも信仰である。しかしID論者はこの方がより合理的な信仰だと考えるのである。
 これは私だけでなく、多くの人が言うようになった。IDの出現によってダーウィニズムのような自然主義が相対化されることになって、誰の目にもそれが見えてきたからである。それに気付かない――あるいは気付かないふりをしている――のはダーウィニストご本人だけである。
 ドーキンズは九・一一テロから始まる宗教衝突に激怒する(「今こそ立ち上がれ」)。この世に宗教さえなければこんなことは起こらなかったのである。戦闘的無神論者の激怒をこれ以上に誘発し、これ以上に正当化するものはない。しかし彼が宗教というときに見えているものは、奇跡や霊現象といった宗教の表面 だけであって、宗教の本質、ものの本質を見ようとする態度(能力とは言うまい)が不思議なほど彼には欠けている。というより唯物論者というのは、ものの表面 をしか見ないように自分に約束している人たちだと考える方がよいのかもしれない。
 最後にドーキンズ氏のために付け加えるなら、彼の書くものすべてが私に違和感を覚えさせるわけではない。彼の母校の昔の名校長について語るエッセイは、彼の文才が遺憾なく発揮されて感動的である。ある引用文(原書六六頁)に私が思わず涙ぐむと、その後にドーキンズ氏の「人は知らない、しかし私はこれを読むと涙が出そうになるのだ」という文章があった。少なくとも彼は感情の通 じないエイリアンではないのである。

『世界思想』No.367(2006年5月号)

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