NO.37(2006年1月)


唯物論科学と科学離れ
――今どき、誰がそんな科学に興味をもつか――

渡辺 久義

詩に通ずる感動の科学

 『特権的惑星』(The Privileged Planet)のDVD版がある。残念ながら原著と同様、今のところその日本語版はないが、観る者の目を開かせ、深い感動を与える非常によくできた作品だと思う。科学者といわず一般 人といわず、今まで人はこんなことを聞いたことも考えたこともなかったであろう。サブタイトルは原著のそれと違い、「宇宙の目的の探究」となっていて、こちらのほうが分かりやすい(原著のサブタイトル「宇宙での我々の場所は発見のためにデザインされている」は内容を読むまで分からない)。
 特に私を唸らせ感動させるのは、冒頭、宇宙探査機発射の映像とともに朗読されるT・S・エリオット(英国の詩人、一八八八―一九六五)の『四つの四重奏』(Four Quartets)からの次のような詩句である。

We shall not cease from exploration
And the end of all our exploring
Will be to arrive where we started
And know the place for the first time.
(われわれは探検をやめることはないであろう/そしてすべてのわれわれの探検の目的は/われわれの出発点に到着すること/そして初めてその場所を知ることである)

 これは原著にはないものである。私はこの詩句を昔から知っていたが、ここに引かれてみると、これがあたかもこの映画のためにあったかのように思え、目を洗われる思いがするのである。正直なところ、科学者がこの詩句をここで用いたことに、文学者である私は出し抜かれたようにさえ感ずる。「初めてその場所を知る」とは、宇宙に向けていた目が我々自身へ戻ってきて、初めてこの地球すなわち我々自身が何であったかを知る、ということである。
 我々の場所がどういう場所であるかは、『特権的惑星』という書物(あるいはこのDVD)が、その全編を通 じて暗示するところのものである。この(証明ではなく)暗示するということ、これがインテリジェント・デザインの議論の特徴であって、それは先月号に引用した謎をかけるような、この本の結びの一節によく現れている。
 それは科学の本らしくないと言う人があるかもしれない。しかし、これでもかというほど積み重ねた驚くべき宇宙のデザインの実証のあとに、「これが何を指すか我々は説明できない。しかしこれはただ事ではなさそうだよ」とだけ言って済ますというのは、いかにも憎いではないか。科学はこうあるべきではないのか。このように我々を無限の深い問いへと引き込むのが、科学のあるべき姿ではないのか。そうあってこそ若者は、科学に惹きつけられてやってくるのではないのか。
 科学は自然主義でなければならないのだから、意味も価値も問うてはならないものだ、それを問うのは科学ではない、といった掟を掲げる学問の世界に、どれだけの若者が本当に魅力を感じてやってくるだろうか。もっとはっきり言えば、このDVDのように、T・S・エリオットの詩句と完全に調和するような、文学的感動を伴う科学にこそ、若者は惹かれるであろうと私は憶測する。現在の公認ダーウィニズムのように、異説を唱えてはいけない、質問もしてはならない、決められたレールの上でものを考えよ、といった学問に誰が魅力を感ずるだろうか。いわんや、現在、アメリカのペンシルヴェニア州で起こっているように、これが学問の自由保障の問題にまで発展するというような事態は、言語道断というほかはない。

科学者の仕事とは

  もう一つ、このDVDに出てくるのではないが、以前から機会があれば引用したいと思っていた、同じ『四つの四重奏』の詩句がある。

Men's curiosity searches past and future
And clings to that dimension. But to apprehend
The point of intersection of the timeless
With time, is an occupation for the saint―
(人の好奇心は過去と未来を探る/そしてその次元にしがみつく。しかし/無時間と時間の交差する一点を/会得するのは聖者の仕事である)

  「無時間と時間」は、「無形世界と有形世界」「無限世界と有限世界」と言い換えることもできる。この二つのものが切り結び、そこに相互作用と共鳴が起こったときに、我々の世界は「受胎」をするのだと考えるべきであろう。この「聖者」を「科学者」と読み替えて読んでみてほしい。
 これを詩人の妄想だなどと言う人がいないことを私は希望する。意地になって唯物論を押し通 そうとする人々を別とすれば、これ以外に我々の世界成立の理解の方法はないのではなかろうか。では「具体的にどのようにして世界(特に生命世界)が生じたのか言ってくれ」と挑戦されたら、「それは分からない」と言うほかはない。しかしともかくも、無形世界の媒介なしに、有形世界を有形世界のみによって説明することはできない。インテリジェント・デザインはその根本のことを言っているにすぎない。考え方をとりあえず正しい軌道に乗せようと言っているのである。
 前に紹介した学習教材にあったように、「無生物から生物が発生した」などということはありえない。生物にとって物質は、確かに必要条件ではあるが十分条件ではない。個々の生命体は目に見えるが、生命そのものは目に見えない。しかしそれは確実に存在する。だから目に見えない「生命の場」ともいうべきものを想定すべきである。そういったものの何もないところで、単に物質をうまく組み合わせて生物が生まれる、などということはありえない。
 そのような強弁がまかり通るような文化を、思考停止・発展停止の唯物論的文化だと言うのである。ID排斥運動の先頭に立つユージェニー・スコットやケネス・ミラーなどは、「自然界のことを解明するのに超自然を持ち出すとは…」などと、あきれ果 てたようなことを言うが、これがもし本心からそう言うのであれば、頭脳構造を疑わざるをえない。

不完全性定理

  ゲーデル(Kurt Goedel チェコ生まれの数理哲学者、一九〇六―一九七八)の「不完全性定理」と言われる重要な定理がある。これは私の理解するところでは、「ある一つの論理体系は、その体系自身の真否を証明するものをその内部にもつことはできない」というものである。ある一つの世界(体系)全体の意味や目的は、それを超える世界をもたなければ、「自己言及的」(self-referential)にならざるをえず、例えば「私の言っていることはウソである」のように、おのれ自身を規定することはできないことを言ったものである。
 この定理を我々の宇宙解釈に当てはめることもできるだろう。そもそも、時空的に始まりをもつ我々の宇宙が、自分で自分を創ったなどということはありえない。(「私は私自身を創りました、私は私自身の存在の原因です」という以上のたわごとはない。)何ものかによって創られたのでなければならない。これは誰が考えても当然のことであるが、どうもそれをはっきり言わない風潮があるのは、大多数が無神論者である科学者たちが、(創造説を認めることになる)ビッグバン説を認めたがらなかった時代の名残のようである。しかし今、ビッグバン説は仮説の域を脱して、「事実」として受け入れられるようになったのではないだろうか。
 有形・有限のものである我々の宇宙は、自分で自分を創ることもできなければ、自分の存在の理由(意味、目的)を自分自身の内部にもつこともできない。もし我々の宇宙が、ヘーゲル哲学のいう世界精神(霊)のような無形のものであったなら、それが自己を創造し、自己を進化発展させるということもあるかもしれない。しかしこの宇宙は形のない幽霊でも観念でもない。あるいはこの宇宙が、かつて我々が間違って考えていたように、時間・空間的に無限のものであるならば、宇宙の存在の原因や理由(意味、目的)を、宇宙の内部に求めたとしても無理からぬ ことかもしれない。しかし我々の物理的宇宙はかつて考えられた無限宇宙ではない。
 我々の宇宙像がまだしっかり固まっておらず、あやふやであった数十年前なら、(外に生命の原因はないのだから)物質からの生命の自己創造という解釈――ダーウィニズムや自己組織化説――も、ある程度は存在理由があったかもしれない。しかし、この期に及んでなおもその解釈に固執するというのは、未練がましいだけでなく、次々に現れる発見やデータに目をつぶろうとするものである。
一つには、宇宙が生命を生み出すための、物理法則や常数、あるいは条件のファイン・チューニングという圧倒的な事実がある。宇宙の意志をそこに認めようと認めまいと、その事実だけは認めなければならない。従って、生物学は生物学で完結することはできない、宇宙論と否応なくつながったものである。生命の下ごしらえは生命の発現する前から、すなわち宇宙の出発時点から宇宙進化として、営々と続けられていたのである。
 解釈は自由である。しかしこういったことを単なる偶然であるとか、我々自身がその産物なのだから別 に驚くに足りない――この解釈を「弱い人間原理」という――といった解釈をするのは、故意に自らの発展の芽をつむようなものである。「驚いてはいけない、感動してもいけない、自然界の精緻と美しさに感嘆してもいけない、すべては偶然か必然(自然法則)の産物にすぎず、そこに宇宙の意志など働いていないのだから」と言って教えるのが、ダーウィニズムを始めとする唯物論的科学ではないのか。

意味に向き合う科学者

  「九死に一生を得る」というような確率的に低い生き残り体験が、二、三度続けてあった人のことを考えてみよう。「何と運のいい」と普通 は言って済ますであろう。しかしこれがもし二十回、三十回と続いたとすれば、もはやこれは「ただごとではない」と考えるのが普通 である。唯物論科学者はどう言うであろうか。彼は、この世界には偶然と必然しか働いていないのだから、そんなことが何十回起ころうとそれは偶然であって、目に見えぬ 力に感謝する――そして生き方を変える――などというのは非科学的な滑稽なことだと言って笑うであろう。これは正しい態度であろうか。
 宇宙のファイン・チューニングの権威者と目されるヒュー・ロス(Hugh Ross)によれば、「神の奇跡の介入なしに」この地球が生まれる確率は、十の二百八十二乗分の一だと言う。唯物論科学者はこういった事実には目をつぶるか、あくまで偶然だと言い張るか、驚かないための工夫(「多宇宙仮説」など)をいろいろするか、いずれかであろう。「コペルニクス原理」の呪縛がいかに強いかがそこに現れる。
 アメリカの大新聞である「ワシントン・ポスト」は、先ごろIDに反対して(今はどうか知らない)、こんな理論がはびこるようではアメリカもやがて科学二流国になりさがるであろう、と言ったことがある。わからないことを神のせいにして事足れりとする風潮が広まるであろうから、ということである。そうであろうか。その逆ではないだろうか。
 ヒュー・ロスは、途方もない大きさの確率の分母を出しながら、もうこれで十分神の存在は証明できたから研究をやめよう、と言っている様子は全くない。彼の著書やウェブサイトを見ていれば、ますます宇宙研究にのめりこんでいくさまがよく分かる。また、『特権的惑星』という本の面 白さの一つは、著者たちだけでなく天文学者全体の興奮ぶりがよく伝わってくることである。「今ほど天文学をやるのが魅力的な時代はない」と著者たちは言う。なぜ天文学者たちがそれほど興奮しているのかといえば、考えられぬ ようなデザインの事実が次々と明らかになるからである。そしてそれが「初めてこの場所を知る」すなわち、ここにいる自分が何者であったかを知ることにつながってくるからである。一つだけ引用しよう――

 再三にわたって我々は、一つのパタン――居住可能のために要求される、ありえぬ ような条件が、同時に、我々の周囲の宇宙を発見するための、全体的に見て最高の条件を提供するということを見てきた。歴史上のある時点で、このパタンは、宇宙についてのある深く埋め込まれた前提を再評価するように我々を促すだけではない。それはまた、何十億の中の一つの普通 の銀河の、渦巻の腕の間に挟まれた、一見取るに足らぬ 恒星を回るこの小さな点上に生きる我々の目的そのものをさえ、再考するように促すのである

  おそらく二十一世紀の科学は、「宇宙についてのある深く埋め込まれた前提」としての、意味の解読がその主たる仕事になるのではあるまいか。宗教家や芸術家には啓示や直観として開示されるものが、科学者には暗号解読の問題として課せられるのではあるまいか。

『世界思想』No.363(2006年1月号)

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