NO.32(2005年8月)


ID論争の争点は何か
――全米を巻き込む論争の分析――

渡辺 久義   

ID論争が表面化

 今まで盛んではあったが必ずしも表に出ることのなかったID(インテリジェント・デザイン)をめぐる論争が、にわかに表に出ることになり、いまCNNなど全米のテレビで盛んに放映されている。これを書いている時点で、七つか八つのテレビ討論をDiscovery Institute (Center for Science and Culture) のHPで見ることができる(ここに映像が搭載されるのも初めてである)。この連載で紹介したID主導者(あるいは反対者)たちの何人かが出演しているのでご覧いただきたい。最近、日本の新聞やテレビもいよいよこれを無視できなくなって、ニュースとして報道している。
 この問題が学問の世界をこえて世間一般を巻き込む問題になるのは、やはり公教育で、宇宙や生命の起源、人間の起源をどう教えるかという根本問題――究極的には有神論と無神論の綱引きの問題――がそこに横たわっているからである。もちろんIDは謙虚な実証的な理論であって、そういう大問題を振りかざすものではない。たとえばジョナサン・ウェルズは、「IDをカリキュラムに取り入れるべきと思うか」という質問に対して、この理論はまだ新しいので特にそんな必要はない、と答えている。まず、ダーウィン進化論の問題点をきちんと教えよ、進化は解決済みの問題ではない、ということである。少なくとも、ダーウィニズムが事実ではなく一つの説であるということだけは、今回の大論争によって周知徹底されたのではなかろうか。
 この論争はアメリカでは常にくすぶり続けているが、時として社会的大問題になる。今からちょうど八十年前、一九二五年に、テネシー州の生物学教師ジョン・スコープスが州法に反して進化論を教えたことに対する、米国史上有名な「スコープス裁判」というのがあった。それ以来、進化論は「事実」のようになり批判できなくなってしまった。今回の論争は八十年前の立場を逆にした形で起こっている。進化論批判者の何人かが言っているように、学問が進んでこの理論が時代遅れになったのである。
 ダーウィニズムが学問の世界で、いかに当たり前のことになっているかは、たとえばわが国のある学術誌に載った論文の一節からもうかがうことができる

 40億年前の生命発生時の近傍では、有機分子→生命分子→細胞膜→古細菌→光合成細菌→多細胞化のように、→の方向に複雑化すなわち多機能化、高機能化に向かって進化していることを[前の論文で]示した。ここで炭素は生命の素材ともいうべき元素で、生命体の構成や生命活動に不可欠な材料である。又、有機組織体の構造は無機組織体に比し非常に複雑であり、環境条件等によってその変異が作られ易い。即ち自己の後継者の中に、いくつかの変異がそれぞれある確率で存在し得る。その中で環境に適合したものが永存し、より多くの子孫を残し、元のものに代替するか又は新たな種として追加される。このとき環境への適合は、多機能化や高機能化によって、より行われ易くなる。従ってある年月で淘汰された結果で見れば、全体として種類が増え且つ複雑化に向かい進化したことになる。

 これはダーウィニズムによる生命歴史の模範的な解説であろう。私は――そしておそく大多数のダーウィニズム批判者も――こういうことを書いていけないとは決して言うつもりはない。ただ、ひと言「ダーウィン進化論に沿って考えるならば」という言葉をどこかに入れてほしいと思うだけである。その必要がないほどに、こういう考え方が当然の「事実」になっていることが問題なのである。この筆者だけを責めるわけではない。これが生物学界の公認理論であり、こう書かなければ認められず、逆にこう書きさえすれば学者としての地位が保証されるということが問題なのである。
 自分の立っている立場をわきまえ、あるいは明示してものを言うということは、学問する者の基本的なルールではなかろうか。もしその立場が立場として意識されず、空気のように透明であるとしたら、それは学者としての資格がないと言わなければならない。学者とは分野が何であれ、根本的にものを問う者のことである。IDのような科学革命運動が科学者の間から起こってきた背景には、自己確認ということがあるであろう。

どちらが非科学的

 それにしても、なぜこの問題をめぐって、少なくともアメリカでは意見が真っ向から対立するのか、そのこと自体、社会学的な考察の対象になると思われる。
前号に紹介したように、アメリカの有力紙である「ワシントン・ポスト」は、最近IDのようなものが巾を利かすようになったが、こういう由々しき事態をほっておいてよいのか、これでは若者の科学離れを助長することになるのではないか、アメリカは科学のリーダーの座を明け渡すことになるのではないか、という意味のID亡国論ともいうべき論説を掲げる。つまりこれは、IDが非科学的理論だという解釈に立つものである。
 これに対して「ワシントン・タイムズ」の方は、逆に、ダーウィニズムのような疑似科学が自己を絶対化する今のような独善的体制は、科学そのものの発展を妨げるものだと言う。最近(5月5日付)の「ワシントン・タイムズ」から引用してみる――

 きょうから六日間にわたって、カンザス州教育委員会は、特にダーウィン進化論教育を中心とする州の理科教育基準に関する討論を行う。一方の側は、二十数人のダーウィニズムに懐疑的な人、またインテリジェント・デザインと呼ばれる進化の代替理論の推進者たちが出席し、もう一方に側は、法廷弁護士のペドロ・イリゴネガライ氏がダーウィン弁護を買って出て出席する。
 これが一方的だと思われるなら、それはダーウィニストの科学者がこの討論をボイコットしたためである。このことは、ダーウィン進化論が科学界ではいまだに公認の学説になっていることから考えると、驚くべきことである。彼らが欠席を選んだ理由は、少なくともイリゴネガライ氏によると、「進化を論ずるのは、地球が丸いかどうかを論ずるのと同じで、ばかばかしい問題だ」そうだ。しかしそれでは公平とは言えまい。四〇〇人近くの科学者がダーウィン説に反対する宣言書に署名しているのである。しかも、ダーウィニズム懐疑派やID理論家たちは、少なくとも長い時間をかけて種が変わっていくという意味で、進化を疑問視しているわけではないのである。
 事実として、自然選択によるダーウィン進化論は無謬などではない。今まで、ダーウィン自身によっても、化石記録に断絶があるなら共通先祖という彼の理論は、崩れざるを得ないと認められてきたのである。そういった断絶の一つが「カンブリア爆発」の直前に起こっているのだ。… …
 この討論会に出席しようとしている科学者たちは、必ずしもダーウィンをID理論に置き換えたり、まして聖書の創造物語に置き換えたりしようとしているわけではない。ダーウィン理論があまりにも穴だらけなので、それを疑問もなしに学生に教えることが、彼らの不利益ともなり、科学の定義に対して不正なことだというだけなのである。
 そしてダーウィン支持者たちが拒絶しているのが、まさにこの正当な科学論争なのだ。「ダーウィン理論の弁護は…可能なときには批判を抑圧し、不可能なときにはこれを無視するという方針を取る生物学者たちの手に落ちたしまった」と、デイヴィッド・ベルリンスキーが最近「ウィチタ・イーグル」誌に書いている。ディスカヴァリー・インスティテュートの上級研究員であるベルリンスキー氏は、指導的なダーウィン批判者として広く認められている。彼は続けて言う、「それは科学的な方法で信用をかちとる賢明な戦略ではない。」それはまた、我々の学生のためにもならないのだ。

 論説としてこちらが正論であろう。少なくともこちらはIDを正しく解釈するとともに、既成の科学の概念にこだわらず、あるべき本来の科学、真理探究の道具としての科学という観点に立って論じている。
 テレビ討論を見ていても、IDに反対の立場の人々の言うことは一貫して、「ワシントン・ポスト」のように、「それは科学ではない」というものである。ある弁護士が言ったという「進化を論ずるのは地球が丸いかどうかを論ずるようなものだ」というせりふにそれは集約されている。問題にならないことを持ち出すな、問答無用ということである。 

進化論教育の問題

 いったい「ワシントン・ポスト」の言うように、IDは科学者を志す若者の意欲を奪うものであろうか(この懸念は、IDが神を「デザイン」と言い換えただけの、「苦しいときの神頼み」(God-of-the-gaps)をするエセ科学だと解釈するところからきている)。それとも「ワシントン・タイムズ」が言うように、ダーウィニズムを唯一の公認理論とし、これを批判することを禁ずるような今の科学体制こそが、学生の科学不信や科学離れを起こさせることになるのであろうか。ここには完全な対立の構図がある。
 「ポスト」側(かりにそう呼ぶ)が「IDは科学でない」と言うとき、彼らのいう「科学」とは自然主義の上に立つ科学のことである。ところが彼らには自然主義(唯物論)という自覚がそもそも存在しないか、存在しても、科学は自然主義的方法によるもののみが科学である、という信念はゆらぐことはない。
 「ポスト」側に、この二種類の人々がいることは確かである。ところがこれが学校教育の問題になると、彼らは完全に一致する。すなわち「ダーウィニズム以外は学校で教えてはならない、それが――現実に合う合わぬはどうであれ――とにかく正しい科学的思考の訓練になるのだから」ということになる。学生にとっては迷惑な話である。教えられた科学的思考の方法と、現実のあり方そのものを区別できる者はまずいないのである。かくかくしかじかに考えよ、それが科学というものだ、と教えられた学生は、かくかくしかじかに考えられたものが即ち現実そのものだと考えるであろう。すなわちダーウィン進化論は「事実」だということになる。これが進化論教育が常に問題を引き起こす原因である。
 あえて「ポスト」側に立って考えるならば、彼らが例えば「カンブリア爆発」の事実(ダーウィン自身がすでにこれを知っていた)を教科書に書きたがらない事情はよく理解できる。(アメリカの生物教科書の隠蔽とごまかしの数々の例については、連載の初期にジョナサン・ウェルズのIcons of Evolutionに拠って詳しく紹介した。)「カンブリア爆発」とは、五億三千万年ほど前、いろんな生物種がそこにいたる先行生物の化石もなしに、(地質学的に言って)突如として出現したことを指すもので、これは学界の認めざるを得ない事実であるらしい。
 これはダーウィン進化論にとって都合の悪い事実であるので、隠しておきたいのはよくわかる。当然、反ダーウィン側はこれを追及する。しかし、あえてダーウィン側に立って弁明するなら、これは教育上悪いから隠すのである。ちょうど、肉食獣や猛禽がかわいい子羊を殺して食べる生々しい映像を子供に見せるのが――たとえそれが事実とはいえ――教育上よくないのと同じように、教育上よくないのである。教育者は子供に対して、自然界のことはすべて連続した因果関係によって起こると教えるもので、そうでない出来事があると教えたり、そういうものを期待させたりするのは、教育者として資格を疑われるというのが世間の常識になっている。従って、事実に反してでも、前号のNHKの教材にあったような、すべてが滑らかで自然な(カンブリア爆発の)説明をしたくなるというのは、わからないでもないのである。
ダーウィニズムが、その明々白々の弱点にもかかわらず、よくもこれまで怯むこともなく命脈を保ってきた理由の、少なくとも一つはそこにある。

現実的で健全なID

 今起こっているID論争の争点を理解するために、もう一つあえてダーウィン側に立って弁ずるなら、IDが何か強力な自然界解明のための武器をたずさえて登場したのかというと、そうではないということである。ID派は、「カンブリア爆発」について隠したり嘘をついたりするなと主張するだけで、では、それをわかるように説明せよと言われても、彼らはただ「わからない」というだけである。しかし虚偽の(空想の)説明によって「わかった」かのように安心するよりも、「わからない」と正直に告白する方が真理に近いという立場である。読者はどちらを選ばれるであろうか。いわば虚構の安心をとるか、それとも現実の不安をとるかという問題である。
  これは生きる上でのパラダイムの選択の問題である。私は正直なIDの方がより現実的で健全であるだけでなく、学問的にもより有効なパラダイムだと考える。なぜそう考えるか。これについては更に稿を改めて論じたい。

『世界思想』No.358(2005年8月号)

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