NO.31(2005年7月)


進化論偏向教育の問題
――青少年の知的探究を扼殺するもの――

渡辺 久義   

日本の進化論教育

 「そういう問題は存在しない」――とは領土問題などを外交のテーブルに乗せようとするときに、高圧的に出ようとする相手国が決まって言う常套句である。知人に教えてもらったわが国の進化論教育の教材をいくつか見ていると、これを書いた人たちは、私のようにこれに疑念を差し挟もうとする者に対して、あたかも「そういう問題は存在しない」と言っているように思えてくる。これでは話にならない。しかし何とかこれを話にしなければならない。これが当面の我々に課せられた課題である。
 例えば、ある学習参考書(数研出版「チャート式・新生物氓a・」)に「生命の起源」という単元があり、そこにはこう書いてある――

 生物の自然発生  現在の地球環境では、無生物から生物が生じることはないと考えられる。しかし原始の地球上では、何らかの形で、無生物から生物が誕生したと考えられている。
生命の起源  地球上での、無生物からの生物の発生をいう。現在では科学がめざましい進歩をとげているので、ある程度は生命の起源について推論できるようになってきた。
部品の組立  タンパク質や核酸などの高分子有機化合物ができても、それらが何らかの方法で一か所に集められ、まとまりのある生命体につくりあげられなければならない。この段階の化学進化の実験もいろいろ行われているが、生命体までにはいたっていない。しかし、ミクロスフェアやオパーリンの提唱したコアセルベートの中に、部品が取りこまれ反応し合って生命体へと進化したものと思われる。

 一読して、筆者のいかにも強引な、生命の自然主義(唯物論)的解釈を押し通そうとする態度が見て取れる。明らかにこれは、自然主義という枠の外に一度も出てみたことがない人の書いたものである。自然主義によって分かるはずのことが分からないのは不可解だが、自然主義は絶対のはずだから、自然主義への信仰だけは捨てるようなことがあってはならない、という決意表明の文章とも読める(むろん、「自然主義」という観念も自覚も彼の中には全くない)。そして、その決意表明を学生にも押し付ける結果となっている。
 もう少し生命というものを深く考え、自分の心の中の疑念をも隠さずに記述せよ、といっても無駄な助言なのだろうか。「生命の起源」という問題は少なくとも、いわゆる科学の次元を超えた問題かもしれないということ、「科学がめざましい進歩をとげた」にもかかわらず、この問題については現時点でも全くわかっていないということ、従って、もしかすると根本的に考え方を変えてみる必要があるかもしれない、ということぐらいは、ありのままに書くべきであろう。意識的にせよ無意識的にせよ、学習参考書とはいえ、これはあまりにも不誠実・無責任な記述だと言わねばならない。のみならず、これでは深く考えてみようとする青少年の知的探究心に水を差すことになる。
 しかしこれを書いた人に、そんな話が通ずるとも思えない。彼にとって、自然主義を疑うなどということは、科学そのものを否定すること、科学者の自殺行為ということになるのであろう。従って、どんなに我々の理性で考えにくいことであっても、それはあり得ることにしておかなければならない。あり得ない証拠がいかに積み上げられても、(信仰上)それに耳を傾ける必要がないのである。従って、生物は無生物から部品を組み立てることによって誕生したことになる。
 私がそんなことを言えば、彼は怪訝な顔をして「私は何か間違ったことを言いましたか? 生物は無生物から、部品を組み立てて出来たのではないのですか?」と問い返すかもしれない。私は「いいえ、間違っていません」と答えるよりほかない。ただそれは、ロダンの名作「考える人」が、物理的原因によって誕生したと主張するのが少しも間違っていないという意味で、間違っていないのである。芸術作品も物体である以上、物理的原因なしにつくられることはできない。問題は、物理的原因だけで十分であったのかということである。物理的原因は「考える人」が誕生するための、必要条件であって十分条件ではない。

重要な事実を隠蔽

 進化論教育の例としてもう一つ、NHKの高校講座というものがある。これはインターネットで簡単に見ることができる。その中の「生命の誕生」という講義科目に、講師と生徒の映像付きのやりとりの形で、こんな調子の説明が出てくる――

 「最初の生命はどこから来たか? 答えは…わかりません。いろいろな説があり、これはという絶対なものはまだありません。しかし、こうではないかという有力な説をみてみましょう。
 「一五〇度を超えるしゃく熱の海。この海の中に生命を作る材料が集められ、激しい波の中で生命につながる重要な化学変化が進んでいきました。
 「原始の海の中のシアン化水素や青酸カリ(人間からみれば猛毒です)などの、小さな分子が結びつき、大きな分子を作り出しました。これが遺伝子へと発展していきます。しかし、分子がどう生命に発展するのか、という仕組みは解明されていません」

 これも先の学習参考書と全く同様である。T生命は物質から自然発生したTという夢にも疑うことのできぬ前提があり、その上に立って、「いろいろな説」や、まだ「わからないこと」があると言っているのである。ちょうどこれは共産主義という絶対の枠の中で、歴史や文化を教え、生き方を教え、あらゆる問題解決を考えさせる、共産主義国家の教育のようなものである。そういう枠そのものを疑問視する者があれば、この講師は「あなたの言われるようなことは問題として存在しません」と言うであろう。
 これらの教材作者に共通するのは、「生命の神秘」を認めることが、科学者として恥ずかしいことだと思っているらしいことである。大変な思い違いである。

 「分子が混ざり合ううちに、生命になる。そう都合よくいくのでしょうか」
 「今の説をいいかえると、こんなイメージです。時計と、時計の部品が入った箱があります。箱が原始の海、部品が分子と考えてみましょう。箱をずっと振っていると、部品がうまい具合に組み合わさって、時計として動き始める…
 「ありえないと思いますか? 6億年とか7億年とか振りつづけていれば、可能性があると思いますか? いずれにしても、最初の生命は地球上で誕生したと考えられています」

 これは子供だましの説明だが、悪質な子供だましといってよいだろう。さすがに疑念を表明してはいるが、これ以外にどんな考え方がありますか、あるはずがないでしょう、と同意を強制しているようである。こんなシナリオを本気で信ずる人はまずいないだろう。だとしたら、根本からものの考え方(前提、アサンプション、パラダイム)を問い直してみるという方向へ向きそうなものなのに、そんな気配はここには全くない。
 更にこの講師はこんなことを言っている――

 「その後、生物は複雑化し、多細胞生物へと進化しています。5億3000万年前ころには、海の中には、多様な生物がすむ世界になっていました」

 5億3000万年前といえば、いわゆる「カンブリア爆発」の起こった時期、すなわち生物の多くの基本形態(門)がほとんど先行する生物なしに一気に(短期間に)出揃った、ダーウィニズムでは説明のできない生物学上のビッグバンといわれる時期である。この講師はそれを知らないはずはないのだが、それに言及しないばかりか、あたかもその時期までにそこにいたる進化の明確な歴史があったかのように解説している。(因みに、これはアメリカの進化論偏向教科書でも同じであるらしく、ID派のスティーヴン・マイヤーが、この隠蔽を取り上げて鋭く突いたことがあった。今は、多くの教科書が記述しているものと思われる。)

米国の「進化論教育」論争

 ところで、インテリジェント・デザイン運動の総本山というべき「ディスカヴァリー・インスティテュート」――「国家的・国際的諸問題を扱う非営利・無党派の政策シンクタンク」と自己を規定している――は、全米の新聞・雑誌から、IDを支持したり論じたりする記事や論説を「ニュース」としてウェブサイトに載せていて、私ももっぱらここからアメリカの近況を入手しているが、アメリカでの論争のほとんどは、進化の問題を公立学校でどう扱うべきかという学校教育をめぐるものである。これは国を挙げての熱い論争と言ってよいものだが、残念ながら、わが国ではこういう論争は起こったことがない。
 本稿の副題とした「知的探究を扼殺するもの」(Stifling Intellectual Inquiry)というのは、実はここに載ったFirst Thingsという雑誌の論説記事(筆者はこの雑誌の編集者リチャード・J・ノイハウス)のタイトルを借りたものである。ID運動の生みの親であるフィリップ・ジョンソンが、いみじくも「マルクシズムと同様、ダーウィニズムも、自分の頭で考えないように人々を導くことを新たに正当化した解放神話である」と喝破したように、ダーウィニズム(あるいは自然主義)とは、自由な知的探究を扼殺するもの、科学の発展の芽を摘むものだ、というのがID派の共通した主張である。
 ところが、IDの全米への拡大という現状を憂慮し警告を発する人たちもいて、ノイハウスによると、リベラル派の「ワシントン・ポスト」は次のような論説を掲げているらしい。面白いので引用して見る。

 現実問題として、ほとんど気付かれないうちにわが国全体に広まった反進化論運動の範囲と程度の大きさにかんがみて、アメリカの政策立案者は、こういった人々の宗教的信念の公的表明が教育と科学に影響を与えつつある事実をよく考慮すべきである。アメリカは深く宗教的な性格をもつ国であるが、そのことが知識への欲求や科学的探究の前に立ちはだかるようなことがあってはならない。ひと度そのようなことになれば、それでなくとも大学院に進もうとする若者の不足に悩むアメリカの科学界が、世界をリードすることをやめてしまう日が近い将来やってくるに違いない。

 これを批判するノイハウスの論文を全文引用したいところだが、そうもいかない。ただ面白いのは、ID派が、ダーウィニズムを始めとする自然主義科学に反対する理由として、それは自由な知的探究を抑圧し科学の発展を妨げるからだと言っている、まさにその同じ理由を掲げて「ワシントン・ポスト」は逆にIDに反対していることである。まさにこの点が、IDをめぐる論争の核心になっているものである。私も断定せず、読者に自分で判断していただきたいと思う。
 まずこの論説の偏見を正さねばならない。「こういった人々の宗教的信念の公的表明」がすなわちID理論であるかのように言うのは、ノイハウスも力説しているように、間違いである。この論説に限らず、一般に反対論者は、ID理論が固陋ないわゆるクリエーショニストの仮面であるかのように言う。しかしそれは小さな問題である。
 問題の本質は、科学的仮説としての包容力の大きさにある。ID理論と自然主義科学の関係は、対等の関係ではない。すなわち、IDは自然主義的観点を取り込み包摂することができるが、自然主義科学はIDを排除しなければ成り立たない。IDは、自然的要因だけで説明できることはそのままでよしとする(例えばダーウィニズムによる小進化の説明)。しかしダーウィニズム(自然主義)陣営は、相手を排斥しなければ自分の立場がなくなる。ドーキンズに代表されるような戦闘的態度はそこからくると考えられる。ドーキンズに限らず、この連載で紹介したID反対論の論調には、すべてそれが見て取れる。
 教科書記述をめぐる問題にもそれは明瞭に現れる。ID派は公平な両論併記、あるいはあらゆる仮説を平等に記載するように主張する。別に進化論を排除せよとは言わない。これに対して進化論推進派は、ID理論のようなものは(非科学的だから)学生に教えてはならないと主張するのである。この余裕のあるなしの違いが論争を際立たせている。
 「ワシントン・ポスト」に対して全く正反対の論説を掲げるのが「ワシントン・タイムズ」で、ダーウィン派が最近、公開討論を避けるようになったことに言及し、それは科学が信頼される賢明なやりかたではなく、学生を利することにもならない、と批判している。

『世界思想』No.356(2005年7月号)

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