NO.30(2005年6月)


芸術家としての創造者
 ――C・S・ルイスとID――

渡辺 久義   

デザインは芸術的衝動

 前回の末尾に、ポール・デイヴィスの「宇宙は自分で自分を創造できるか」という問い方を「荒唐無稽」と私が評したことについて、ある友人が「これはどうかと思う。科学者はビッグバン以前のことはあずかり知らず、以後のことだけを自然主義的に問うのだから、このような問い方をしても当然ではないか」という意味の意見を寄せてくれた。
 私の説明不足を補うならこういうことである。これはやはり「科学は宇宙の始まりをどう記述しうるか」と言うべきであって、それなら何の問題も生じないのである。科学者は面白い言い方を好むものだから、そういう意味のことをこのように言ったのであろうけれども、理解できないままに科学に敬意を払っている素人は、これを文字通りに受け取ってしまうだろう。しかもそれだけでなく、科学者自身もこういう言い方によって自分自身をたぶらかしてしまうのでないか、それが問題だと言いたかったのである。そのように考える私が間違っているかいないか、この関連の専門家に聞いてみたいところである。
 ところで、宇宙創造から最初の生命創造、それに人間を総仕上げとする多様な種の創造(すなわち宇宙・生命進化)を「インテリジェント・デザイン」という新しいパラダイムによって眺めるならば、これを芸術家の創造と原理的に同じものとして見ることができ、むしろそのように見なければならないことがわかってくる。なぜならID理論のいう「デザイン」とは、芸術家の創作衝動そのものだと言ってよいからである。
芸術作品が、例えば虹のような自然現象の作品と違うことは言うまでもない。しかし芸術作品は「デザイン」という要因だけで出来るものでもない。「デザイン」が物質や物的要因に働きかけることによって出来るものである。自然主義とは、芸術創造としての生命創造を、物質と物的要因だけに還元して説明しようとするものである。
 ダ・ヴィンチの「モナリザ」やベートーベンの「第五交響曲」は、これを物的要因に還元して説明することはできないが、物的要因なしに創られたものでもない。いかにダ・ヴィンチが天才でも、絵具の物理的性質や色彩学といった自然法則には従わなければならない。いかにベートーベンが天才でも、音階の法則や音響の性質に逆らって作曲することはできない。いかにシェークスピアの創造力が神に近いといっても、単語を創作したり英文法を無視したりすることはできない。こういった芸術創造の例はすべて、そのような一定の自然的要因(必然と偶然)と「デザイン」との対話、あるいは前者に対する「デザイン」の働きかけないし統御によって実現するものである。(書という芸術は、自然的要因の特に偶然の部分が大きいであろう)

自然主義の自己矛盾

 ところが自然主義科学はあたかも、芸術作品の創造に関与しているのは、色彩の法則や絵具やカンバス、音階の法則や音の空気振動、アルファベットや英単語や英文法だけであって、そこに機械的労働力を加えれば、芸術作品は十分説明できるかのように主張するのである。
 名著とされるC・S・ルイス(一八九八−一九六三、キリスト教の立場に立つ哲学者)の『奇跡』(Miracles, 1947)は、デザイン派の中にこれに注目する人があるように、「自然主義」というものが自然の説明として成り立たないことを論証する、IDのはるかな先駆とも言える本であるが、次に引用する部分はそれをうまく説明している。

 ある特別の、精神能力の制限された人種があるとして、彼らは絵画というものを、モザイクのように小さな色の点を寄せ集めたものとしか考えられない人たちだと仮定してみよう。ある名画の筆捌きを拡大鏡を使って研究することによって、彼らはその色の点相互間のますます複雑な関係を発見する。そして苦労してこれらの関係を整理し、ある一定の規則をそこに見出す。彼らの苦労は無駄にはならないであろう。これらの規則は実際に「働いて」いる。それらは事実の大部分を説明するであろう。しかしもし彼らが引き続いて、これらの規則に従うこと以外のことをするのは大画家にふさわしいことでなく、自分自身の法を破ることだというような結論を出したとしたら、それは明らかに間違っている。なぜなら、彼らが観察した規則性は、決してその画家が従っていたルールではないからだ。彼らが多大の苦労を払って無数の色の点から再構築し、うんざりするほど複雑に配列したものは、その画家にしてみれば、ほんの一瞬の軽い手首の動きの生み出したものであり、その間彼の目はカンバス全体を捉え、彼の心は、色の点を数える観察者の視界にいまだ入っておらず今後も入ることは決してないであろう構成の法則に従っていたのである。だからといって「自然」の規則性が存在しないと言っているのではない。神のエネルギーの生きた源泉は、この時空をもつ「自然」の目的のために形を取って時空の中で動くものとなり、また我々の抽象的思考によって数学的な形式へと変えられて、我々にとっては通常、何らかのパタンを取っている。従って、これらのパタンを見つけることによって、我々は現実的な、しばしば有用な知識を手に入れる。しかし、それらを乱すこと(規則性以外の要因が働くこと=引用者注)が、神自身の目から見た、神の働く生きた法則や有機的統一を破ることになると考えるのは間違いである。もし奇跡が本当に起きるものとすれば、奇跡を起こさなかったほうが辻褄の合わないことだったと考えてよいだろう。

 C・S・ルイスのこの本は「神の受肉」を中心とする奇跡を論ずるもので、彼の言う「奇跡」には、宇宙や生命界の創造のことは考えられていないようである。しかし今、ID理論を知った立場でこの本を読みながら、彼の言う「奇跡」に宇宙や生命の創造を当てはめてみると、彼の論述はほとんどそのまま真実であることに驚かされる。ふつう創造を奇跡とは言わないが、自然主義の立場から見れば両者に区別はなく、従ってIDの立場からも区別がないからであろう。彼の所説は要するに、奇跡は「あっては困る」ものではなく、むしろ「なくては困る」ものだということであり、自然主義(あるいは閉鎖系宇宙)とは自己矛盾の世界観だということを論証するものである。
 自然主義とは、規則性、法則性、画一性といったものがこの世界の根底をなしていなければならないという信仰の上に立つもので、もっと深い次元、あるいは超越的次元に、それを超える別の力などありえないと主張する。しかしそれは想像力の欠如からくる思い込みに過ぎない、よく考えればそれは自己矛盾に陥るではないか、「規則性信仰」そのものがそこに根を下ろす「(超越的)理性」を想定しなければならないではないか、とC・S・ルイスは言うのである。

 もし存在するものが「自然」、すなわち、大きな心を持たぬ相互に絡み合った出来事のほかに何もないのだとすると、また我々自身の最も深い確信が単に理性をもたぬ過程(機械的進化のような=引用者注)の副産物だとすると、明らかにそこには、我々の適合性の感覚や、その結果としての規則性に対する信仰の外側に、いかなる現実も存在できないことになる。我々の確信は、我々自身についての事実に過ぎないことになる――ちょうど我々の髪の毛の色のような。もし自然主義が真理だとすると、自然が規則的だと信ずる我々の根拠もなくなる。それとは全く異なる前提が真理であるときにのみ、信ずる根拠が生ずる。すなわち、もし現実世界の最も深いもの、他のすべての事実性の根源である大文字の「事実」が、ある程度まで我々自身に似たものであると仮定したとき――それが理性をもつ精神(霊)存在であり、我々がそのものから理性的精神性を受け継いでいると仮定したとき――そのときにのみ、我々の確信が信じられるものとなる。無秩序に対する我々の嫌悪感は、「自然」と我々を創った創造者から生ずるのである。

地球は特別な星

 我々の頭が宇宙を創った創造者の頭を(ある程度まで)受け継いでいるがゆえに、我々の数学によって宇宙の構造が(ある程度まで)解けるのだと考えられる。これがアインシュタインの「宇宙について最も理解できないことはそれが(数学で)理解できることだ」という逆説的謎に対する答えである。「(自然主義とは)全く異なる前提が真理であるときにのみ」それは不可解ではなくなる。
 倫理や道徳についても、全く同じ考え方をしたときにのみ真理としての根拠が生ずる。自然主義に立って倫理や道徳を考えるならば、それは「我々自身についての事実」を確認するだけで、そこには方向性も目的も生じない。我々が正しいと考えるから正しいのだという倫理道徳は、いわば空回り、堂々巡りをするだけである。これがリベラリズムあるいは左翼の人間中心の矛盾した倫理観であるが、その根底に自然主義(宇宙閉鎖系思想)があることに思い至らない人が多いのである。デザイン論者はその危機感を根底において共有する。だからこそそれは、科学革命運動を超えて世直し運動なのである。
 C・S・ルイスが半世紀以上も前に言っていたことは、科学的知見の増大とともにますますその根拠を固めることになった。ID理論はその根拠を提供するものであり、我々と我々の惑星が「自然現象」で出来たものでないどころか、百三十七億年の創造者の悲願の込められた、絶妙の芸術作品だと考えなければならない証拠は、増える一方のようである。
 宇宙学者ヒュー・ロス(Hugh Ross)のホームページ(Reasons to Believeという)を信頼するなら、高等生命を創り出すためにいわゆる「ファイン・チューニング」されている物理常数の項目が次々に追加されているが、ごく最近これとは別に、宇宙に生命が存在するために不可欠の諸条件が、偶然によってそれぞれ満たすべき値をとる確率を列挙した表が出ている。パラメータの数は三百二十二に及ぶが、それらを掛け合わせ調整すると、「神の奇跡の介入なしに」この宇宙に生命が存在できる確率は、十の二百八十二乗分の一だという。しかも分母は大きくなる一方のようである。要するに、我々と我々の地球は、宇宙の始まりからそれ一点に狙いを定め、人知を超える精密さと超知能によってデザインされた芸術作品だということである。

我々は予定された存在

 さらにこの仮説を補強する極め付きとも言うべき事実が指摘されている。『特権的惑星』(The Privileged Planet かつて紹介した)や、『希少なる地球――なぜ宇宙には複雑な生命がまれであるか』(Peter D. Ward & Donald Brownlee, Rare Earth: Why Complex Life Is Uncommon in the Universe, Copernicus Books, 2000)は、地球のような惑星はここにしかないという推測は現在でも十分成り立つが、将来それは強まる一方だろうという、同じ結論を出している。
 前に言ったことの繰り返しになるが、私は『特権的惑星』が特に強調していること、すなわち、この地球は宇宙で唯一の居住可能な場所であるばかりでなく、宇宙観測の可能な唯一の場所であるという点に注目したい。居住するには快適であるが天文観測には全く不向きという場所もありうるからである。
 我々はどこまで予定された存在なのであろうか。まず我々に火が与えられた。火は言語と同じく人間だけが使えるものであり、マイケル・デントンの言う通り、偶然あるものでなく、人間に合わせてデザインされたものである。我々の周囲にある人工物で火を使わずにできたものはない。その火を使って望遠鏡ができた。それには天文観測が可能なことが前提でなければならない。天文学を通じて物理学が発達した。物理学からのフィードバックによって天文学(天体物理学)が飛躍的に進歩して、我々が宇宙で唯一の知的生物らしいことを発見した。すなわち神は、最初から我々の顔をのぞき込んでいたのであるが、我々の方もそれにいつか必ず気付くように周到に仕組まれていたのであり、今がその時期だということになる。
 これは圧倒的に驚くべくかつ恐るべきことではあるまいか。我々はコペルニクス以来、人間や地球は「自然現象」で出来たもので特別の存在などでなく、探せば同類は宇宙にザラに存在する生き物の端くれに違いないと思い込んできた。『特権的惑星』の二人の著者は、これをCopernican Principle(コペルニクス原理)あるいは Principle of Mediocrity(ザラの原理)と呼ぶ。しかしもし我々が、「出来た」ものでなく、宇宙でただ一つ創られたものであるとすれば、話は全く違ってくるのである。これもあえて繰り返すが、親鸞の「弥陀の五劫し思ゆい惟の願をよくよく按ずれば、ひとえに親鸞いちにん一人がためなりけり」という述懐は、宗教的感傷でなく科学的真理を言ったことになる。なぜなら人間とは、イワシやサンマと違って一人ひとりが個性を持った存在である。人間を創るということは、私やあなたを特別に創るということだからである。

『世界思想』No.356(2005年6月号)

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