NO.29(2005年4月)


合理的神秘という感性
――神秘と怪奇を区別できぬ時代――

渡辺 久義   

科学の常識は理性の危機

 科学が自然の秘密に迫る方法であるという認識は共通であるが、その自然の秘密を解く鍵は、自然界に内在する自然的要因がそのすべてなのか、それともそれだけでは不十分で、自然界を超えたところからくる要因を想定しなければならないのか――これがいわゆる自然主義とインテリジェント・デザイン(ID)理論の科学観の違いである。これは根本に立ち返ってみた科学というものの前提の問題であり、自然主義を絶対とする立場からIDの立場などもってのほかに見えるかもしれないが、そう断定して性急に一蹴する前に、自分自身を相対化してみることができなければならない。そういう余裕のないところからくる反対は、まともな科学者の反論でなく徒党の邪宗狩りである。
 しかし自然主義科学の頑迷な信念はどこからくるのであろうか。これは長い時間をかけて形成されてきた、考え方というよりむしろ感じ方に原因があると思われる。それはいわゆる「啓蒙主義」以来の科学と、科学に基づく学校教育が、おのれの崇高な任務としてきた、迷信すなわち超自然の追放というところに根があると考えられる。「啓蒙主義」以来(日本でいえば明治の文明開化以来)、不幸なことに「超自然」と言えば迷信を指すようになってしまった。
 これは日本語の「超自然」でも英語のsupernatural でも同じである。本来「超自然的」とは「自然を超えたところの」というだけの意味であって、そこに何ら不合理のマイナスの意味合いはないはずである。ところが現実には、「超自然的」という言葉から我々が連想するのは、あらゆる「非科学的」な怪しげなもの、妖怪変化、魔術、オカルトの類いである。「啓蒙主義」とはそういったものから人々を解放する運動であり、科学がその最も有効な手段であった。そして科学はそれに成功したと言えるであろう。しかしそれは産湯と共に赤子を流すことになってしまった。すなわち中立的な意味での「超自然的」存在としての神をも、洗い流してしまうことになったのである。これはいかにも理不尽でかつ不幸なことであったが、それに気付く人もいないほどに、それは(無神論者にとってみれば)あまりにもうまく行ったのであった。
 だから(ここ二回ほど続けて書いたように)自然主義が科学の常識となっている現状を、大胆にも「理性の危機」だと明言するフィリップ・ジョンソンのような人が現れると、我々は虚を突かれたようにハッとするのである。「理性の危機」という言い方が決して誇張でないことは、前号に述べた自然主義科学の閉鎖系宇宙という仮定の不合理さと、その不合理を押し通そうとする権威主義の理不尽さを考えてみれば納得できるであろう。

神秘を殺せば生命も死ぬ

 この問題を順序立ててもう少し追及してみたい。
 そもそも我々の生きているこの宇宙や生命世界が何らかの意味で神秘的なものであるという認識は、おそらく大多数の科学者がもっているであろう。もし神秘的という感覚が全くないという人があれば、その人は科学者としての資格がないと言わねばならない。問題はその突きつけられた神秘をどう「片付ける」かということである。
 この神秘に対処する仕方の一つは、「神秘など存在しない、この世界に神秘など認めるのは科学の敗北宣言であって絶対に認めるわけにいかない」というものである。これがいわば科学の最右翼(左翼?)ともいうべき一群の人々の主張である。ウルトラ・ダーウィニストというべきリチャード・ドーキンズがその代表であろうが、彼のような科学者はたくさん存在する。しかしおそらくドーキンズは、「神秘」というどうすることもできない亡霊を退治して安心するために本を書くのであって、もし「神秘」というものが彼にとって全く存在しないのであれば、あのような本を書く必要はないであろう。それは彼の「ダーウィンのおかげで我々は安心して無神論者でいられる」といった言辞や、論敵に対する異常な戦闘的態度にうかがうことができる。これはダーウィン自身も同じで、湧き上がる疑念を押さえつけて自分の理論を押し通そうとする態度が随所に現れている。
 ドーキンズのような極端な唯物論生物学者は、次第にその居場所を失くしていくであろう。それは他人に対しても自分に対しても「神秘」など存在しないと信じ込ませようとするそのやり方が、時代とともにますます通用しなくなったからである。いわば「神秘」の扼殺の仕方が荒っぽすぎるのである。ドーキンズのように生命を徹底して物理的に捉えれば確かに「神秘」は死ぬが、同時に生命も死ぬのである。
 ドーキンズ流のダーウィニズムは従って、もはや問題とするに足りない。問題となるのは、極端なダーウィニズムを否定し、少し別のやり方で神秘という亡霊を消し去ろうとする試みである。それは生命の「自己組織化」説に代表されるもので、ダーウィニズムのように既知の自然的要因によって生命世界の生成を説明することはできないが、これを説明する別の自然的要因が必ずあるはずであり、今は見つからなくとも将来きっと見つかるはずだという主張である。
 この主張をよく考えてみるとよい。なるほど、決して諦めないというのは科学者として立派な態度と言えるかもしれない。しかし、彼らがきっと発見できるはずだと信ずる生命世界生成の原理は、あくまで自然主義という枠内での原理である。自然主義の枠内というのは閉鎖系宇宙の内部ということである。今まで科学者は、自然的(物理化学的)要因の枠内に生命や意識を生ずる仕組みを求めて必死に努力してきたのだが、今日に至るまでその手掛かりさえつかめていないのである。
 ところで、既知の自然法則の中に生命生成の原理が存在しなければ、未知の自然法則にもそれは存在しないと考えるべきなのである。なぜなら将来発見されるだろう未知の法則は、同じ自然的要因の枠内という条件があるのだから、かりに既知の法則から導き出すことはできないとしても、少なくとも原理的に違うものではないはずである。ところが発見を期待されているのは、その原理(物理原理)の枠を破るような、強力な、思いがけないものでなければならないのである。

自然主義の呪縛

 こういう明らかな矛盾を見えなくさせているのは何か。それは科学の自然主義という愚かな自縄自縛の権威主義体制なのである。一度でも冷静に考えてみればよい。いったい生命が生命を持たぬものから生ずるか。心が心を持たぬものから生ずるか。そういう非常識が、素人には近づくこともできぬ科学の権威をもってすれば可能になるのか。
 ここに、生命も心も持たぬモノが存在する。そのモノが、それ自体に内在する自己発展の原理か法則によって、あるいは他と協力して、外からの何の「入力」もなしに、もっぱら自力によって生命や心を創り出していく。これを視覚化すれば、石ころに手足が生えて動き出し喋り出すというようなことになろう。これは神秘ではなく不気味あるいは怪奇というものである。いったい近代人は、こういった不気味なオカルト信仰から抜け出すために「啓蒙主義」運動を始めたのではなかったのか。
 自然主義科学は、ID理論が素直に、そして合理的に導き出す「超自然」あるいは「神秘」を忌み嫌うあまりに、「不気味」あるいは「怪奇」を選ぶのである。その代表的なものは、以前にも紹介したことのあるカウフマン(Stuart Kauffman)の「自己組織化」理論であろう。
 前にも指摘したことだが、『研究』(Investigations, 2000)におけるカウフマン理論は「まさか宇宙や生命界がデザインされたということはありえないのだから…」という前提から始まっている。そう言われたら、我々としては「恐れ入りました」と言って引き下がるよりほかない。ただこのことは、いかに自然主義の呪縛が一流の学者をも強く拘束しているかを物語るものである。「まさか宗教が真理だなどと考えている人はあるまいから…」などと前置きして人が話を始めたとしたらどうであろうか。しかし我々の文明は、そういうことを平気で許容する混乱した文明だということを忘れてはならないのである。
 要するに我々は、神秘としての超越的次元(神)を想定することと怪奇現象を区別できない、あるいは区別しないような文明に生きているのである。IDに対する反論を分析してみるとそのことがよくわかる。ID理論が画期的であるのは、単なる科学の問題を超えてそのような文明の状況に「真理のくさび」(フィリップ・ジョンソンの著書の名)を打ち込むからである。
 たとえば「心の教育」が必要なことを否定するする人はいない。しかし、猫の首につける鈴と同じで、これを実行しようとする人がほとんどいない、あるいはその機運が盛り上がらないのはなぜであろうか。それは「心の教育」をするためにはまず「心とは何か」という問題を考えねばならず、結局、それは心の起源という問題に行き着く。しかし我々の文明は、暗黙の圧力によって、心の起源を自然界の自然的要因に求めることを要求するのであって、心は心から出たというような発想を許さないのである。心が心から出たなどと言えば怪奇現象のように思われ兼ねず、人はいっそこの問題については沈黙するのである。これは一刻も早く打開すべき事態ではないのか。
 ところでID理論は「心とは何か」という問題に解答を出したわけではない。心は神秘的次元に発するというだけである。ただ、心が石ころから生じたと考えるよりは、心はより大きな宇宙の心から生じたと考える方が、同じ神秘としてもはるかに合理的な神秘であり、「心の教育」もそのような前提に立って進める方が有効であろうと主張するだけなのである。心は最初から存在する心から生じた、生命は最初から存在する生命から生じた、と主張するのは有神論的立場である。要は、そのような立場を、不合理で不気味な怪奇現象を信じているかのように感ずるかどうかという感じ方の問題であり、不幸にもそのようにしか感じられないとしたら、その原因はどこにあるかという問題になる。

おかしな自己組織化論

 科学の根底にあるのは、説明のできない気色の悪さを消していきたいという欲求の問題である。宇宙の起源も、生命の起源も、生命体の多様性の起源も我々にはどうしても説明ができない。とすれば、それは我々がいまだそこに参入できない神秘だというべきである。自然主義科学は、そんな神秘は気持ちが悪いから「神秘」よりは「怪奇」を選ぶと言っているようなものである。これはどうみても正常な感性ではない。フィリップ・ジョンソンが「理性の危機」を訴え、チャールズ・マリクが「この社会の悪のほぼすべては大学で教えられている間違った哲学から発している」(三月号参照)と断ずるのも当然なのである。
  カウフマンに戻るが、カウフマンの自己組織化理論を支えるいくつかのキーコンセプトがあり、それらすべてが「自動」作用を意味している。 spontaneous(自動的)、autonomous agent(自律的主体、生物のこと)、 autopoiesis(自動創造)、autocatalysis(自動触媒)等。このようなコンセプトを組み合わせても何を説明したことにもならない。すべてこれらは、外からの何の力も借りないで、石ころが意志をもって動き出す不思議な現象を説明するための工夫である。こういったコンセプトから浮かび上がってくるのは、宇宙あるいは生命界を怪奇現象として捉えようとする姿勢である。
 ポール・デイヴィス(Paul Davies)が多くの一般向け著書によって、現代科学の直面する諸問題を解き明かした功績は大きいと思うが、彼も自己組織化論者として分類してよいであろう。デイヴィスはID論者から、時には攻撃され時には同志とみなされることもあって、IDから見て曖昧な位置に今のところいるように思われる。そのデイヴィスの『神の心』(The Mind of God, 1992)に、「宇宙は自分自身を創造できるか?」という一章がある。(著書はすべて出版年に注目しなければならない。四、五年もすれば科学者の意識はずいぶん変わってくるはずだからである。これは十数年も前のデイヴィスの著書である)
 彼はこの疑問文にイエスともノーとも答えていないが、少なくともイエスの含みを残していることは確かである。冷静に考えてみて驚かざるをえないのは、そもそもこのような問いが科学の世界では成立するということである。科学が人の度肝を抜くような仮説を立てるのは自由であろう。しかし「宇宙は自分で自分を創造できるか」といった問いを発し、一般人にはとうてい理解不可能な方法(この場合、量子論の宇宙への適用)を使えば可能かもしれないということをほのめかすということは、科学の権威で宇宙を創ってみせると言うようなものである。科学の権威によって、化学物質から生物を創ってみせるかのように言うのも問題だが、それ以上にこれは荒唐無稽というべきである。現実のある物が、何もないところから、自分で自分を作り出すという以上の荒唐無稽はないのである。しかしもっと重大な問題は、科学の権威の前に我々の理性が麻痺してしまうことである。
 ただ、この本が特別おかしなことを言っているというのではない。この本の名誉のために言っておけば、この章のもっとあとにDesigner Universeという章があり、ID理論にかなり近い考え方が表明されていて、私はこれを名著であると考えている。

『世界思想』No.354(2005年4月号)

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