NO.19(2004年7月)


現実を解明する形而上学
――「デザイン」ということの究極の意味――

渡辺 久義   

心という要因

 「インテリジェント・デザイン論」の「デザイン」とは日本語のデザインとは違って、構想、設計、計画、意図、目的といった概念のすべてを含むものであるから、簡単に言えば心の作用であって、この新しい理論は要するに、この宇宙ないし自然界には「心」という要因が働いていることを正当な科学として認めようではないか、という科学界の基礎をゆさぶる理論だと言ってよい。宇宙ないし自然界を構成するのはもちろん物質であるが、その物質と物理的力、すなわち必然(自然法則)と偶然のほかに、デザイン、すなわち心の作用を付け加えるべきだと主張するのである。
 宇宙といったときに、あるいは自然といったときに、すでにそこに何らかの心を含めて考えるのが習慣になっている宗教的な人々からすれば、当たり前のことかもしれないが、当たり前と考えてもらっては困るのである。それでは宗教としても益するものがない。
 我々は普通、宇宙とか自然といえば、目に見えるものとしてのそれを考える。それが近代人の習慣で、科学も我々のそういった習慣と共通の前提に立って構築されてきた。しかしそれでよいのか、それは根本的に考え直すべきではないのか、という内部からの異議申し立てとして現れてきたのがインテリジェント・デザイン理論であって、今まで人が科学の常識として当然のように受け入れてきた考え方は、「自然主義」として相対化されるようになった。だからこれは科学界の革命運動というべきものである。
 宗教家にとっては宇宙や自然界に心があるのは当たり前かもしれないが、経験的に捉えることのできるものだけに基づいて考える自然主義=唯物論からすれば、心は脳からのみ生ずるものであるから、宇宙空間のどこにも脳が見当たらない以上、そういう心には文字通り根拠がないということになる。
 その心の存在をデザイン論者たちは今、経験的に把握できるものとして実証しつつあるのである。私はその実証の仕方を、目に見えないものを見える状態に置く、つまり周囲から塗りつぶして真ん中の白い部分を浮き立たせる作業にたとえることができると思う。そこにある文字が浮き出るならば、それを否定することはできないのである。

経験論哲学の病

 二十世紀という時代はおおむね唯物論の幅を利かせた時代であった。形のない目に見えないものを軽蔑する、あるいは存在しないと考えるのが知的であるかのような風潮があった。前号の最後の部分に言及したアインシュタインがバートランド・ラッセルの哲学を評して言った「形のないものへの恐怖」とは、“fear of metaphysics”であって、アインシュタインはこれを、ヒュームから現代にまで続いている経験論哲学の病だと言っている。バートランド・ラッセルといえば、私の学生時代には世界の知識人の代表であって、文章が明瞭ということもあって英語の教科書にしきりに使われたものである。このラッセルに代表されるような考え方が当時の若者の心を支配し、この時代を支配したのである。
 自然界に働く「デザイン」とは、自然界あるいは宇宙が心に思い描く構想と考えられるから、これは形のない目に見えないものである。ところで、このデザインという概念は、生物種の創造についてのみ当てはまるのであろうか。デザイン論者がダーウィニズムを否定して、自然界に働く要因として、必然(自然法則)と偶然のほかに、デザインを認めよと言うとき、最初の二つは盲目の物理力のようにみえる。しかし盲目の物理力といったものは存在しないという認識に、科学者は次第に到達しつつあると言える。
環境も含めて自然界全体を考えたとき、デザインは生物に限定されてはいない。例えば水という物質は、それ自体ではきわめて単純な生命をもたぬ化合物だが、実は生命のために絶妙にして万能の機能をもった驚くべき物質であり、いわば生命の一部としてデザインされたものと考えざるをえないのである。地球という環境全体を取ってみても、これもデザインされたものとしか言いようがない。このことは何回かにわたって、マイケル・デントンの所説に拠って述べた。
 また基本的な物理法則や物理常数や初期値といったものも、将来、生命のために、特に高等生物のために絶妙に「微調整」されたものであって、これもデザインされたものと考えざるをえないのである。(いわゆる「冷たい自然の法則」というものはないのである。)

構想と素材の相互作用

 ところでこの宇宙自然界は、無形の「デザインするもの」と有形の「デザインされるもの」すなわち素材という二面から成っていると言うことができる。心と物の二つの側面から成っていると言ってもよい。すなわち、デザインという目に見えぬ構想の働きと、それを受け止めて構想を実現していく素材という二つのものの相互作用(弁証法)によって作られていく、と考えることができる。これは何も難しいことではない。芸術家の創作過程と同じことである。それをなにか難しいことのように思うのは、「形而上学への恐怖」にとらわれている我々の哲学のせいである。芸術家が限られた素材しか使うことができないように、我々の宇宙も限られた数の元素しか持っていない。
 しかしその素材は、たまたまそこにあったというものではない。素材自体がデザインされたものである。宇宙はその素材を作るのに何十億年をかけて、まず素粒子そして水素から始め、炭素、窒素、酸素へと次第に重い元素を、爆発を繰り返す星々の内部で作り出し、それらを使って最後には、我々のような高等生物とそれらが住めるこの奇跡的な惑星を作っていったと考えざるをえないのである。
 デザインの働きとデザインを実現する素材という考え方は、近代科学が浸透する以前の西洋においてはごく自然な考え方であった。アリストテレスの自然学で言う「形相」と「質料」(質量にあらず)という考え方がそれである。有名なアリストテレスの「四つの原因」説は近代科学が捨て去ったものだが、その本来の価値を見直すように主張するデイヴィッド・ボームやポール・デイヴィスのような物理学者がいるのである。
 アリストテレスが考えた自然界の生成に働く四つの原因とは、「形相因」「目的因」「質料因」「作用因」であるが、彼はこれを説明するのに大工が家を建てる例を使っている。「形相因」とは建てようとする家の設計図(紙に描かれていても頭の中にあるものでもよい)であり、「目的因」とはその家を建てる動機としての使用目的であり、「質料因」とは木材やコンクリートといった建築材料であり、「作用因」とは大工の労働力である。この四つの原因(causeであるが本当は要因であろう)がなければ、いかなるものも生じたり成長したりすることはないという。
 昔、私が最初にこれを読んだときに、これはおかしいではないかと思ったことを告白しておきたい。なぜなら自然界の生成を説明するのに人工物を例に取るからである。おそらく大多数の現代人がこれを不審に思うであろう。なぜなら近代科学によって現代人は、自然界の営みと人間の営みは全く別のものではないか、人間には心があって考えるが、自然は考えたりしないではないか、と思うように躾けられてしまったからである。これが我々の陥った落とし穴であった。自然界には無心の物理力だけが働く、つまりHowだけが働くのであってWhyなど関係ない、存在しない、というのがいつしか考え方の前提になってしまったのである。
つまり近代科学は、アリストテレスの四つの原因のうちの「質料因」と「作用因」だけを残して「形相因」と「目的因」を切り捨ててしまったのである。しかしアリストテレスにとっては、宇宙自然界には当然、目的があり、動機があり、「デザイン」があった。従って彼にとっては、大工の例は違和感のないごく自然なものであったと思われる。
 アリストテレスの世界観は目的論的世界観と言われる。これに対して近代科学のそれは機械論的世界観と言われる。そして今、科学者たちは嫌でも目的論的観点を無視できないような状況に追い込まれていると言ってよいであろう。まず何より宇宙自然の本質は、機械作用でなく創造でなければならない。そして創造には目的がなければならない。目的も意味もない創造などというものはない。
 因みに、ここに展開してきたような議論は、本紙に同時に連載中の渡辺芳雄氏による「現代に生きる統一思想」を併せ読むことによって、よりよく納得してもらえるのではないかと思う。アリストテレスをそのまま復活させよとは誰も言わない。けれども「形相」と「質料」の相互作用という観点、宇宙自然界の生成を芸術家の創造過程のように捉える観点は、今からの科学にとって不可欠であろうと思う。これは渡辺氏の講義に出てくる「性相」と「形状」に当たるであろう。ただ、この「統一思想」においては、その概念はアリストテレスの哲学にはない、より有機的な、かつより緻密な概念として用いられている。
 要するに、何らかの形而上学なしに、つまり目に見えないものの実在と働きを仮定することなしに、形而下の世界を解明することはできないということである。数学という抽象世界の構築物が、現実の世界の構造を解明すると言われる不思議な事実がよい例である。ただそれには理由がなければならない。すなわち人間の頭脳が、物理的宇宙の構造を(徐々に)理解できるようにデザインされている、宇宙をデザインした頭脳が人間に分与されている、と考えたときにのみ納得がいくのである。

宇宙と人間は同じデザイン

 私がいま読んでいるのは『特権的惑星―宇宙における我々の位置がいかに発見のためにデザインされているか』(Gonzalez & Richards, The Privileged Planet: How Our Place in the Cosmos Is Designed for Discovery)という本であるが――この本については次号に紹介する――ここに次のような注目すべき記述がある。

 ユージン・ウィグナーが「自然科学における数学の理に合わぬ(unreasonable)効力」について語ったのは有名であるが、理に合わないのは、ただ宇宙がreason(理性、合理性)というものによって裏打ちされていないと想定するときにのみ理に合わないのである。ウィグナーは、宇宙の仕組みを記述する数学の単純さと、我々がそれらを発見することが比較的容易なことに、強い驚きを覚えたのであった。哲学者のマーク・シュタイナーは『哲学的問題としての数学の適用可能性』の中で、両者の深いつながりの詳しい例と、自然法則に適用された純粋数学の不気味な予言能力をあげて、ウィグナーの瞑想に更に新しい考察を加えている。(傍点引用者)

 こういう問題があることについては、アインシュタインの「宇宙について唯一理解できないことはそれが理解できることだ」という言葉とともに、ポール・デイヴィスの『神の心』から引用しながらすでに述べた(本年二月号)。なぜこういうことを「理に合わぬ」「理解できない」「不気味」と感ずるのであろうか。それは著者がここで軽く言ってのけているように、宇宙が、人間に与えられた理性と同じ理性(理法)によって作られていると考えない限り、そのように感ずるのである。宇宙も、宇宙について考え理解しようとする人間も、同じデザインから生まれ、デザインを内在させていると考えざるをえないのである。
 理解できるということは、考える主体と考えられる対象が共鳴を起こすということである。両者が同じ理法を共有せず全く異質のものであったならば、共鳴ということは起こらない。もちろん今のところ、この共鳴は部分的なものであって、全面的共鳴ではないだろう。科学の役割は、宇宙について理解しうる範囲、すなわち共鳴の範囲を徐々に広げていくことだと考えられる。今のところ科学の対象は物理的宇宙に限られている。しかし宇宙が単なる物理現象でないことは今の段階ですでに明らかであって、そのいわば霊的(形而上的)宇宙を理解する能力もまた、我々人間の中に組み込まれているものと考えることができる。
 例えば、生命がどのようにして始まったかということは誰も解明できない深い謎である。こういうことは形而上学を軽蔑して、自然主義や経験主義の枠内で理解しようとしても、いつまでたっても不可能であろう。私の考えでは、生命の創造や進化(これも創造である)も、デザインする働き(形相)とデザインを受ける素材(質料)の間に共鳴が起こったときに、形を取って現れるのである。素材がデザインを受け入れるようにあらかじめデザインされていなければ、そしてなおかつ、デザインを受け入れるような物理的段階にそれが達していなければ、その共鳴は起こらないであろう。物理的な側だけの「自己組織化」によって創造ということは起こらないのである。
 宇宙とか生命というものを、目に見える次元へと還元することはできない。芸術作品は精神を素材によって表現したものである。我々人間も創造者の心の表現である。これをもっぱら素材の側から眺めることによって理解することはできないのである。

『世界思想』No.345(2004年7月号)

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